◆柘榴としての国家
地震等の自然災害を「リトマス試験紙」とするとき、そこで測定されるある政権やある国家の危機管理能力は、それらが保有する社会統合スキルの関数である。すなわち、近代の「主権国家=国民国家」において、ある政権の徳の核心とはイデオロギーを駆使した社会統合スキルに他ならない。この前節の主張を踏まえて本稿全体の結論を先取りして記せばそれは次の通りです。
国家権力の社会統合スキルの核心は、①「自然災害―自然開発」による環境変化、そして、グローバル化の昂進に伴う社会の産業構造やライフスタイルや価値観の変化の両面での、<政治>を包摂する状況の恒常的変化に拮抗すべく、②ある「絶対者-絶対性」の認識およびそれら「絶対者-絶対性」に帰依する心性、これら相互間では共約不可能な個々人の信仰の営みには容喙しない非宗教的な形態での、③当該の社会に間主観的に妥当する認識と行動の規範体系としての、かつ、当該の国家社会に正当性と正統性を供給する「政治的神話=イデオロギー」をいかにメンテナンスできるかどうかに収斂する、と。
社会統合スキルに着目するこの観点からは、マックス・ウェーバーの政治的な支配の三類型論(伝統的支配・カリスマ的支配・合理的支配の三区分論)とは別のアングルから、過去の主要な社会思想はこう理解できるのかもしれません。
()近代以前の「政治社会=国家」では、このような社会統合は②の宗教的な権威を準用してなされていたのに対して、()プレ近代期から連綿と存在する社会主義とは(人間理性への過信ゆえに、このような社会統合は予定調和的に具現するものと楽観して)、社会統合のための特別なイデオロギーは不要であるか、少なくとも、そのようなイデオロギーを確立しメンテナンスするために特別な努力は不要であるとするイデオロギーである。
そして、()社会主義の亜種としてのマルクス主義もまた、社会統合に関する予定調和的楽観という社会主義の蒙古斑を帯びてはいるものの、彼等の楽観論の基盤には(例えば、本邦の国粋主義等の素朴な社会主義的主張とは流石に異なり)、このような社会統合は社会にとって不可欠であるが、それは人為によって、すなわち、合理的に設計された国家権力の、(インプットとアウトプットの関係が管理可能という意味で)機械論的なイデオロギー操作によってメンテナンスできるとする認識が伏在している。
而して、21世紀前半の現在、世界の実定的な社会思想の王座の地位を争う両雄。リベラリズムと保守主義もまたこの社会統合スキルという切り口からは次のように理解可能であろうと思います。
リベラリズムとは、()人間理性を信頼する、よって、社会に沈殿する因習や国家権力の干渉を排除することさえできれば、社会統合は予定調和的に具現すると楽観する。その点ではそれは社会主義の嫡出子と言える。
しかし、リベラリズムはマルクス主義と同様にそのような社会統合の重要性と希少性を認識しており、かつ、マルクス主義とは異なり、そのような予定調和の具現は十分な情報の流布と主張間の適正な競争の結果としてのみ達成されると考える。而して、現実には、(ミシェル・フーコーの知の権力論が指摘したように)情報や知識が偏在しており、そして、社会内のグループ間に政治力が偏在している以上、<政治>にはそれらの知識の偏在を是正する責務と諸グループ間の競争を公平にする責務が課されているとも。蓋し、(国家の概念も機能も多様であり、厳密に言えば論理矛盾とまでは言えないけれど)リベラリズムは、国家の権力的行使による国家の権力行使の制約を求めるというジレンマを抱えたイデオロギーなの、鴨。
ならば、保守主義とは何か。蓋し、
保守主義とは、()上に述べた①~③の経緯、すなわち、国家権力にとっての社会統合スキルの死活的重要性と、そして、恒常的に変化する森羅万象の千変万化に対する「政治的神話=イデオロギー」のメンテナンスの重要性を直観的に理解しているイデオロギーである。而して、現状が諸行無常であり諸法無我であることを確信する、また、人間理性なるものが全幅の信頼を置くには程遠いものであることを直観している保守主義は、社会統合が予定調和的に具現するなどとは考えず、よって、当該の社会に自生的な文化・伝統をこれまた恒常的に(場合によっては国家権力を行使してでも)再構築することを辞さないとする社会思想に他ならない、と。
畢竟、保守主義は、恒常的な伝統の再編という営為が、自然に対して圧倒的に無力な人間存在にとっては、賽の河原で健気に石を積む子供達の行為、あるいは、果てしなく続くシーシュポスの徒労にも比すべき営みでしかないとしても、伝統のそのような恒常的な再構築の営みだけが、無限の幸福を希求せざるを得ないが、しかし、有限なる人間存在が形成する<国家>においては、人間の現存在に与えられた唯一可能な<政治>の方途であるという社会思想的な洞察であろう、と。
カントは『純粋理性批判』第一版序の冒頭で、「人間の理性は、ある種類の認識において特異な運命を課されている。つまり、人間の理性は、それらが理性そのものの本性によって課せられているがゆえに拒むことはできず、さりとて、それらが人間理性の全体の能力を遥かに超えているものであるがゆえに答えることもできないという幾つかの問いに常に悩まされ続けているという運命である」(KABU訳)と述べていますが、この「認識」を「幸福」、あるいは、「幸福に至る方途の認識」と読み替えれば、保守主義とは、人間存在と人間の能力の有限性を確信するカント的テーストの洞察を基盤とする社会思想なのかもしれません。
◎リベラリズム:
・人間理性への信頼→社会統合の予定調和的具現の確信
・社会統合の条件整備の要求→<政治>の権力的運用による社会統合案間の競争条件の公平化の要求
◎保守主義:
・人間理性への不信→社会統合の予定調和的具現の否定
・社会的に唯一求心力を帯びうるものとしての伝統の尊重の要求→<政治>の権力的運用による伝統の維持の要求
尚、保守主義と社会主義を巡る私の基本的な認識に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。
・保守主義の再定義(上)~(下)
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11145893374.html
・保守主義-保守主義の憲法観
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144611678.html
・「左翼」という言葉の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4)
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11148165149.html
大震災の惨状を想起すれば自明な如く、自然に比べれば国家も人間もどこまでも有限なる存在でしかない。しかし、他方、人間が無限に無限の幸福を希求せざるを得ない存在であることもまた(それはあくまでも、科学方法論の基礎づけに専ら関係する『純粋理性批判』内の言説ではあるのですが)カントの洞察とパラレルに言えることではないでしょうか。畢竟、少なくとも原初的には、(社会学的に観察される共同体としての国家ではなく、社会思想上の)国家とはそのような無限と有限の狭間で呻吟することを運命づけられた人間存在が自生的に形成した観念表象に他ならない。冥界と現世の交点を象徴するものとしてギリシア神話に語られる柘榴の如く、それは無限と有限の交点に存在する両義的な観念形象なの、鴨。
けれども、それは単なる観念の産物ではない。蓋し、国家は(社会学的にも観察可能であり現象学的にもそう了解される)社会において間主観性を帯びる規範体系であり、また、(蟻塚等々、ある特定の生物がある特定の<文化>を外界に表現するという意味での)謂わば「人類の拡張された表現形」でもあるの、鴨。
ヘーゲルとマルクスの顰に倣い敷衍すれば、(それが「階級支配の道具」なるものでもあるかどうかは別にして、少なくとも)国家とは自然との共存を運命づけられている人間がその幸福を最大限にして、かつ、リスクを最小限にすべく自生的に形成してきた観念形象であり疎外体である。すなわち、国家は人間の観念の産物に過ぎないのだけれども、それは間主観性を帯びる社会の共同的な観念の形象であり、逆に、個々の人間の意識と認識と行動を制約する規範体系として現存している。要は、トーテムポールが人間の制作物でありながら、そのトーテムに帰依する個々人の行動を左右する経緯とこれはパラレルではないか。と、そう私は考えるのです。尚、近代国家成立の社会思想的意味を巡る私の基本的な理解については下記拙稿をご参照いただければと思います。
・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11146780998.html
この疎外体としての国家という認識からは、上で述べた国家権力の社会統合スキルの核心を巡る本稿の結論的な主張、すなわち、①「国家権力の社会統合スキルの機能=状況の恒常的な変化への対応」、および、③「社会統合スキルの本性=当該の社会に間主観的に妥当する認識と行動の規範体系としての政治的神話」ということの説明は不要でしょう。ある国家社会を形成するのはその社会のメンバーの共同的な観念であり意識であるとするならば、当該の国家の正当性と正統性の源泉もまたそのメンバーの政治支配の正当性に関する法的確信以外にはあり得ないのでしょうから。
而して、近代の「主権国家=国民国家」の形成が、資本主義的な生態学的社会構造の勃興に対する人類の応戦であった経緯を見れば、(要は、個々の宗教や信仰を奉ずる人々の枠を超えた、つまり、宗教から中立的な存在として彼等を国境内に同じ国民として包摂することが求められた)その社会統合イデオロギーの中核が非宗教的なsomethingでなければならなかった経緯も自明ではないでしょうか。蓋し、ヘーゲルの理神論的で非宗教的な国家神学こそ、正に、18世紀後半から19世紀前半にかけて人類が希求したそのような国家と<政治>のイメージだったの、鴨。
ならば、現在の国家と<政治>が備えるべき、社会統合スキルもまた、②「非宗教的なタイプのもの」にならざるを得ないだろう。なぜならば、繰り返しになりますけれども、そのような社会統合スキルが、宗教イデオロギーを越えて、規範としての妥当性と実効性を確保して「主権国家=国民国家」の域内で通用するのでなければ、それは単なる個々の論者の願望にすぎないでしょうから。このような認識が、人智を超えたものとしての「自然」概念を媒介として<政治>を見た場合演繹されると思います。重要なことは、
人間存在がそれに対処するために形成した国家やその国家を舞台として繰り広げられる<政治>が立ち向かう「自然」には大震災等の文字通りの自然災害や自然環境破壊だけではなく、自然としての、(要は、これまた疎外体として、それが人類の営みの結果であり集積であるにせよ)(a)人類のコントロールの能力を遥かに超えて、かつ、(b)独自の運動法則性を帯びるに至っているグローバル化の昂進もまた含まれるだろうことです。蓋し、過去の大戦も、<9・11>のテロも、オーム真理教によるテロも、あるいは、2008年9月のリーマンショックもまたこのような<自然>の猛威の一斑として理解可能なの、鴨。
畢竟、国家は柘榴である。それは、生身の人間の住むこの世と無限なる自然の世界、政治と地震、人為と自然との接点であるという点で彼岸此岸の両義的存在なのだから。他方、それは、宗教やイデオロギーを異にする多様な国民を包摂する存在であり、かつ、現下のリベラリズムや保守主義等々、それは多様なイデオロギーの形成を誘発する<社会思想の芽>であり、多産の象徴という点でも柘榴である。と、そう私は考えています。
<続く>