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憲法無効論の頑冥不霊と無用の用(上)

2009年12月10日 13時13分49秒 | 日々感じたこととか


日本国憲法は無効だと唱える人達が存在しているらしい。サンフランシスコ平和条約が締結され日本がその独立と主権を回復した60年前のことではなく、平成の御世、21世紀の今の話です。もちろん、「法概念論-法学方法論」というアカデミックな観点からは憲法無効論など到底成り立つものではなく、実際、憲法・法哲学・国際法というこのイシュー「日本国憲法成立の法的な説明」に関わる専門研究者で憲法無効論を支持する論者は皆無であり、正直な所、誰も相手にしていない。しかし、「日本が国家主権を喪失していた占領下、かつ、占領軍による立法を制限したハーグ条約に反して制定された日本国憲法は無効である」「日本国憲法は憲法としては無効であるが、大日本帝国憲法に定める講和大権に基づく講和条約として、講和大権が許容する範囲内で有効である」等々と唱える論者が存在していることは事実なのです。

本稿はこれら憲法無効論の中で特にその論者が「新無効論」と自称している主張を俎上に載せるものです。すなわち、渡部昇一・南出喜久治『日本国憲法無効宣言』(ビジネス社・2007年4月)、南出喜久治『占領憲法の正體』(国書刊行会・2009年3月)で展開されている主張に「法概念論-法学方法論」の視座から検討を試みること。これが本稿の獲得目標になります。

井上茂先生が喝破されたように、「自然法が存在するかどうかと自然法思想が存在したことは別の問題」であるのと同様「日本国憲法が無効であるかどうかと憲法無効論が存在することは別の問題」なのでしょう。ならば、いかにそれが法学的には荒唐無稽であるにせよ、憲法無効論の頑冥不霊を俎上に載せることで、憲法無効論なる妄想を生み出した現下のこの社会における、憲法を巡る(すなわち、形式的意味の憲法たる「憲法典」と実質的意味の憲法たる「憲法慣習および憲法の事物の本性」によって編み上げられた規範体系を巡る)国民の法意識の位相をよりリアルに理解することができる、鴨。そう私は考えるのです。尚、このイシューに関する私の基本的な考えについては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・憲法無効論の破綻とその政治的な利用価値-憲法の破棄もしくは改正を求める立場からの素描(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65362366.html

・集団的自衛権を巡る憲法論と憲法基礎論(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65232559.html

 

・国連憲章における安全保障制度の整理(上)(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9a5d412e9b3d1021b91ede0978f0d241 

・法哲学の入門書紹介 でも、少し古いよ(笑)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65231207.html


■憲法無効論の荒唐無稽
憲法無効論が成り立たない理由はシンプル。無効理由として憲法無効論が掲げる諸々の事項が事実であるとしても、それらはいずれも日本国憲法を<憲法>として無効であるとする法的な根拠にはならないこと。要は、日本国憲法の成立過程で、実際に大日本帝国憲法の改正条項や当時の国際法に違反する数多の事態が惹起したとしても、それらの「違反の事実」は「無効の理由」ではないということです。敷衍します(尚、以下、原則、日本国憲法を「現行憲法」、大日本帝国憲法を「旧憲法」と表記します)。

著者自らが「新無効論としては初めての体系的概説書」(p.4;但し、旧字表記は新字表記に改めました)とする『占領憲法の正體』には、改正限界超越による無効、占領軍による立法を制約した「陸戦ノ法規慣例ニ関スルハーグ条約」違反、旧憲法75条「憲法及皇室典範ハ摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス」違反、ポツダム宣言における憲法改正義務の不存在、旧憲法73条1項に定める憲法改正発議大権の侵害、GHQプレスコードによる検閲等「政治的意志形成の瑕疵」、憲法改正案を審議した第90回帝国議会におけるGHQの赤裸々な圧力によって審議手続に重大な瑕疵がある等々、日本国憲法の無効理由として13項目が列挙されています(ibid., 第2章, pp.46-89)。而して、この中の11番目、日本国憲法の「憲法としての妥当性と実効性の不存在」に関しては、法の妥当性と実効性、すなわち、「法の効力」という言葉の意味は(南出氏が参照している尾高朝雄先生が使用されている意味とは異なっており)妥当ではないと思いますが、他の12項目に関しては、おおよそその指摘する事実は認めてよいと思います(「法の効力根拠」に関しては下記拙稿の註をご参照ください)。

・外国人地方選挙権を巡る憲法基礎論覚書(八)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11143128822.html



畢竟、憲法無効論の難点は、(例えば、平成7年(1995年)に公開された衆議院憲法改正委員会小委員会の議事録を紐解けば、第90回帝国議会の憲法改正案審議に対してはGHQからあからさまな圧力が加えられたことは明らかである等)それら12項目の無効理由に言及されている事実が存在したとしても、それらの事実から日本国憲法が無効であることは演繹されないことです。

要は、(例えば、刑法199条「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」、また、民法90条「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする」等々、あらゆる法規範がそのような形態を取るかその形態の一要素として機能している、「これこれの行為が行われた場合には/これこれの事態が惹起した場合には→これこれの法的な帰結の実現を国家が強制(支援)する」という法規範の存在形態に従い)「これこれの事態が惹起した場合には、その法規は憲法としては無効である」という、憲法を無効にするようなある法規範を前提にするとき、憲法無効論は、前段の「これこれの事態が惹起した」ことの論証には一部成功しているかもしれないが、後段の「その法規は憲法としては無効である」と言うための根拠を欠いているということです。

一般の用語法に従い、この前段を「法的要件」、後段を「法的効果」と呼ぶならば、憲法無効論は法的効果を欠いた法的要件によってのみ構成されている。よって、現行の日本国憲法の成立時の怪しげな事情を暴露して、その正統性・正当性のいかがわしさを指摘するという政治的・ジャーナリスティックな主張としてならいざ知らず、日本国憲法の無効を主張する法理論としては、憲法無効論は「砂上の楼閣」の類にすぎない。と、そう言えると思います。

確かに、憲法の下位法に関しては(例えば、現行国憲法56条が定める衆参両議院の定足数規定や59条1項「法律案は、この憲法に特別の定めのある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる」の規定に違反する立法行為等々)憲法に違反する法規は無効と言える。しかし、ある憲法改正の手続が前の憲法典の改正条項なり国際法なりに違反していたからといって、そこで新しく成立した憲法典が<憲法>として無効であるとは言えない。なぜならば、<憲法>とは国家の最高法規であり、当該の新しい憲法典が最高法規として機能している限り、国内法的には(まして国際法的には!)その憲法典を<憲法>として無効であると認定する規範は実定法の世界には存在しないから。すなわち、<憲法>の下位法たる諸法規の無効と「事実の世界と規範の世界を跨ぐ憲法」の無効とは「法概念論-法学方法論」からは全く別の位相にある問題なのです。



■憲法無効論の頑冥不霊
憲法無効論が挙げる諸々の無効理由なるものは次の4点に収斂するのだと思います。

(甲)現在でも旧憲法が現行の憲法である

(乙)日本国憲法は<憲法>としては無効であるが、旧憲法の講和大権(13条)に基づく条約としては有効である

(丙)現在の日本社会で日々繰り広げられている、天皇・安全保障・国会・内閣・司法・財政・地方自治・憲法改正、そして、国民の権利及び義務を巡る諸々の現実政治を律している<憲法>の枠組みには、旧憲法を中核にしながらも、旧憲法が容認する<条約としての日本国憲法>とその<条約としての日本国憲法>を基盤にして60年余りに亘って形成されてきた憲法慣習が含まれる

(丁)日本国憲法は<憲法>としてはその成立時から現在に至るまで無効なのだから、その改正条項(96条)などによらずとも、その<憲法>としての無効を国会等で公式に決議すれば、直ちに旧憲法の条項に直接基づいた政治が行なえるようになる、但し、条約としての日本国憲法下で形成蓄積されてきた法規や判例、行政実務は旧憲法を直接根拠とした新たな立法措置が行なわれるまでは今まで通りの効力を有する、と


蓋し、(甲)(乙)(丙)が成り立たないことは、前項の説明に加えて、旧憲法が法的効力を全く持っていないという社会学的観察からも自明でしょう。実際、法の妥当性に関しては「旧憲法が現在でも実定憲法であるべきだ」というのではなく「旧憲法が現在でも実定憲法である」と考えているのは、特に根拠はありませんが(笑)日本国民の0.01%には到底届かないかでしょうし、法の実効性については、立法・司法・行政の日々の運用実務において旧憲法が適用される例は皆無なのですから。

ならば、今でも旧憲法が<憲法>としての効力を持つ「実定憲法=現行憲法」であり、旧憲法の字句と異なる、国会とか裁判所の構成や運用は、条約としての日本国憲法とその条約としての日本国憲法の基盤の上で形成蓄積された憲法慣習にすぎないと主張したいのなら、その論者は、(憲法典条項の字句と抵触する「憲法慣習」の成立根拠を含む「憲法慣習」の概念規定と「憲法慣習」の有権的な認識者が誰であるかを説明すべきです。それができないのなら、そのような主張は憲法無効論の論者の頭の中のお花畑で見られた白昼夢でしかない。

蓋し、そのような「法概念論-法学方法論」の根拠を欠く議論が許されるのならば、「聖徳太子の十七条憲法が平成の御世においても現行憲法であり、十七条憲法の字句と異なる国会とか裁判所の構成や運用は憲法慣習にすぎない」とか「日本国憲法はマッカー元帥が日本国民に与えて下さったのだから、アメリカ合衆国憲法が日本の現行憲法なのであり、アメリカ合衆国憲法の条項と異なる国会とか裁判所の構成や運用は憲法慣習にすぎない」等々、誰もが任意の規範を<憲法>と見立てることが可能になると思います。

而して、(甲)(乙)(丙)が破綻している以上(丁)の議論もまた「砂上の楼閣」に他ならない。畢竟、憲法無効論の論者は、現在の日本社会において何が<憲法>としての効力を持つ規範であるかは、国民の法意識や国民の法的確信とは無関係に、旧憲法の改正条項や国際法の規範内容から、客観的一義的に演繹可能な如く主張しているけれど、その根拠はとなると結局彼等の「解釈」にすぎない。けれども、「現在でもなぜ旧憲法が<憲法>なのか」を旧憲法のテクストを越えたメタレベルで論証しなければ、すなわち、「法概念論-法学方法論」の地平で根拠づけない限り、旧憲法の法的効力を否定する論者にとってその解釈は単なる憲法無効論の論者の思いつきにすぎないのです。以下、敷衍します。



<続く>



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