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石原都知事「がれき処理反対には、黙れ!」は民主主義の常識と定跡を踏まえた正論である

2011年11月05日 03時22分20秒 | Weblog



◆石原都知事、がれき処理反対には「黙れ」 
東京都が東北以外の自治体で初めて、東日本大震災で発生した災害廃棄物(がれき)を受け入れて処理を始めたことに対し、都民らから反対の声があることについて、石原慎太郎知事は4日の定例会見で「(放射線量などを)測って、なんでもないものを持ってくるんだから『黙れ』と言えばいい」と語った。

都は3日、岩手県宮古市から第1便として約30トンを受け入れ、処理を開始。がれきそのものから放射線量は検出されず、都内の処理施設周辺の空間放射線量にも影響はなかった。石原知事は「放射線が出ていれば別だが、皆で協力して力があるところが手伝わなければしようがない」と指摘。「皆、自分のことばかり考えている。日本人がだめになった証拠だ」と述べた。

がれきの受け入れを表明した9月末から今月3日までに、都には3328件のメールや電話が寄せられ、うち2874件が反対や苦情。賛成などの声が200件だった。都は今年度内に1万1千トンを受け入れ、平成25年度までに岩手・宮城両県のがれき計50万トンを処理する方針を示している。

(産経新聞:2011.11.4 23:26)






これ、正に、正論。

б(≧◇≦)ノ ・・・流石、石原都知事!

畢竟、「絶対の安全性」などはこの世に存在しない。

ならば、すべからく、

放射線被曝の危険性を巡る、政策判断は危険性の可能性や蓋然性と、
他方、その政策のもたらす価値との比較衡量でしかない。

ならば、

そのような比較衡量を否定する「放射線被曝=絶対悪」の如き認識からのクレームは民主主義の敵からのものであり、蓋し、「黙れ!」の一言で切り捨てられても当然であろう。そのクレームが「請願権」のコロラリーにあるものとしても、それが正規の民主主義的な政策決定プロセスのものでないだけでなく、社会思想的にはそう言える。と、そう私は考えます。

なぜならば、放射線被曝の危険性とは、
就中、低線量放射線被曝の危険性とは・・・

蓋し、

①低線量放射線被曝の危険性は<論理的>な危険性の可能性

低線量・積年・平準・放射線被曝の健康障害の危険性は疫学的には確認されていません。これは重回帰分析(例えば、甲状腺癌の発症に関して、被爆・喫煙・飲酒・遺伝等々の複合的要因の中で、ある特定の要因の影響の度合いを数値化する数学的技術)や、少変量統計解析(少数のサンプルから、どの程度の精度でそのサンプルを含む母集団全体の傾向を認識できるかを明らかにする統計学的技術)の結果からは動かない。


よって、

②低線量放射線被曝の許容値の本質は「決め事-調整問題」のマターである

国際的な「被爆許容値」なるものは、その危険性の<論理的可能性>を睨んだ、<決め事>にすぎない。要は、(科学者の怠慢でも、国際原子力マフィアや国際反原発カルト集団の陰謀では必ずしもなく)「許容値」には確たる根拠はない。而して、論者によって1000倍以上の幅があり、更には、平時と緊急時、事故直後と復興時についてその幅が同じ論者でも変化する、否、ゴムみたいに伸び縮みすることは当然である。


例えば、「止まれ」を意味する「赤信号」が「赤」である必要はなく、また、実際、英国や日本とアメリカが異なっているように、車の右側通行か左側通行も単なる決め事、社会的な約束事にすぎません。けれども、それらが「赤=止まれ」「車は左車線」と社会的に決まっていること自体には社会的に意味があり、社会的な価値がある。

このように、そのルールの内容自体には必然性はないけれど、社会的な調整の結果、ある内容のルールが社会的に確立されていることには意味のある問題を「調整問題」と言います。而して、低線量放射線被曝の許容値なるものもこの「調整問題」のマターに他ならないのです。

ならば、低線量積年平準放射線被爆の危険性なるものは、原発のメリットや(相双地区への早期帰還を含む)他の便益との比較衡量の上で、合理的に線引きするしかないのだと思います。而して、それらの危険性と便益との比較衡量を踏まえた<問題の調整>は、民主主義の憲法的価値と政治制度を採用する国家では、須く、所定の政治のプロセスに則って行われるべきである。

ならば、(もちろん、時々の民意に対してその政治のプロセスは開かれた構造であるべきでしょうが)、無知蒙昧のプロ市民からの言い掛かり的クレームなどは、「黙れ!」の一言で切って捨ててもなんら問題はない。否、「放射線被爆=絶対悪」の如き、そのような民主主義的な政策判断の仕組みを無視するような、すなわち、<比較衡量=調整>を原理的に否定するような、脱原発カルトからなされる非民主主義的な輩のクレームは、民主主義を擁護する立場からは「黙れ!」の一言で切り捨てるべきでさえある。と、そう私は考えます。

尚、この<民主主義と低線量放射線被曝の危険性>を巡る私の基本的理解については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・田母神俊雄の正論☆パブロフの犬の如き低線量放射線被爆の危険性認識
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60842772.html

・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60588722.html
 
・民主主義とはなんじゃらほい(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/53753364.html



ほしのあきさんの<無罪>確定-あんだけ可愛いんだから当然なのです

https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/78478ca7d4aebc00f057beebd43f17a4


б(≧◇≦)ノ ・・・頑張ろう、東北!
б(≧◇≦)ノ ・・・頑張ろう、福島!
б(≧◇≦)ノ ・・・君は一人/独りじゃなぁーい!
б(≧◇≦)ノ ・・・脱原発カルトは恥を知れ!
б(≧◇≦)ノ ・・・共に闘わん!




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