片平川を下ります。450メートル、約5分。前方に赤い橋が見えてきました。中央橋。と、この中央橋の地点で今回の「小田急多摩線沿線-縦走編」の本線全行程の三分の2が終了。これからどんな事物・風景を我が街「新百合ヶ丘」は見せてくれるのでしょうか。
【地図画像】
・多摩線沿線散策Map(コバルトブルーの線が散策ルート)
http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/shinyurimap14a.JPG
中央橋は「麻生総合高校」の通学路、毎日、この橋を麻生総合のほとんどの生徒諸君が渡って彼等の学舎に元気に通学しています。
・麻生総合高校
http://www.asaosogo-ih.pen-kanagawa.ed.jp/
この中央橋から、白洲正子さんの別荘「旧白洲邸・武相荘」までは、例の県境の尾根(早の道)越えになるものの道筋で1.4キロ、約15分の距離しかありません。そして、麻生総合高校からは980メートル、約10分。直線距離なら450メートル足らずです。全国の白洲正子さんファンの皆さん、麻生総合の生徒達が羨ましくないですか(笑)
本線の経路は中央橋で片平川を渡ります。確認ですが(「教育の根幹は復習である!」)、片平川は鶴見川水系。よって、横浜の街の灯かりを求めて南東に流れている。同じく広い意味の黒川エリアにあるそれらの源流域は僅か数百メートルしか離れていないのに、多摩川水系の三沢川がひたすら北に流れているのとは、正に、好対照。
中央橋で左折して徒歩1分(匍匐前進なら20分)車道に出ます。そこは「片平中央」のバス停付近。
而して、この車道こそ「早の道②」。この道は黒川の鶴川街道と柿生の津久井道を結んでいます(そうなんです! 黒川で鶴川街道から黒川分校跡に向けて登った坂道こそこの道なんですよぉー!)。
この道は、古代においては府中市にあった武蔵国府から市ヶ尾周辺にあった都筑郡の郡衙を結ぶ幹線(官線)道路、中世には鎌倉街道「中ノ道」と「上ノ道」を結ぶバイパスだった。
そう古街道研究家の宮田太郎先生は考えておられる。そんな由緒正しい道なのです。実際、鴨志田十郎等々、頼朝の御家人が密集していた都筑郡北部に、紀州熊野出身の亀井六郎が平家打倒の功績で恩賞を賜ったという事実は、御家人の領地を横取りさせる分けには行かないでしょうから、亀井六郎が領地を拝領した新百合ヶ丘エリアは、他の御家人の領地ではなく国衙領であったと考えれば、そして、新百合ヶ丘エリアが国衙領であったについては、国衙道の存在と「汁守-飯守-菜守」の祭祀機能の存在を仮定すれば極めて説得的ではないか。と、宮田太郎先生に従い私もそう考えます。
・参考地図画像
http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/shinyurimap14b.JPG
片平中央のバス停付近でこの由緒正しき道を渡ります。前方に見えるのが下の階段。そして、この階段を登りきった地点から麻生総合高校方面を写したのが2枚目の画像です。
上の画像を見るにつけ、片平エリア自体が「巨大-長大」な谷戸だったことが実感できます。実際、江戸時代の初期と中期の境、元禄15年(1702年)の片平村の石高は約300石と記録にあり、これは、明治22年(1889年)の合併により旧「柿生村」を構成することになる10ヵ村の中でも上麻生村の506石に次ぐ豊かさだったのですから。
と、先を急ぎましょう。下の画像は、片平中央のバス停付近の階段を登り前進を再開したときのもの。地番は「片平5丁目」ですがもうここは小田急五月台駅の<勢力圏>。それもそのはず、ここから五月台の駅までは道筋で約750メートル、徒歩7-8分。このお洒落な住宅地の中を進みます。ちなみに、本線経路のこの部分は、五月台駅を利用する麻生総合高校の生徒達の通学路なんですよ。
片平中央のバス停付近の階段から、「左→右→左→右→左」と各々最初の角を折れながら350メートル、お洒落な住宅地の中を進むこと3-4分で別の車道に出ます。これこそ、私が「第4の早の道」だったのではないかという仮説を暖めている、栗平駅から、白鳥神社、白鳥中学校の前を通り尾根伝いに五月台駅に続いている道。
前にも紹介したように、<鎌倉街道システム>を構成する道筋が「低地を避ける」傾向から見て、また、「道筋に神社仏閣」が存在することから見て、「この尾根伝いの道=第4の早の道」説は魅力的ですが、逆に、<鎌倉街道システム>を構成する道筋は、中には古代からある既存の道をつなぎ合わせて作られただろうことを鑑みれば、少なくとも明治期の地図でこの道の存在が確認できない現状では、「第4の早の道」は、憲法無効論並みの妄想のような気もします。今後の課題です。
ここから五月台駅までは僅かに400メートルしかありませんが、この「幻の第4の早の道」を五月台駅に向けてワンブロック進んだ所で左折します。下は左折地点の「五月台クリニック」を振り返って撮影したもの。
しばらく進むと、前方に小田急線の高架と次の目的地の五力田・古沢の里山が見えてきます。下の2枚目の画像は、五力田地区と古沢地区の境辺りから小田急線の高架を撮影したもの。
で、小田急線の車窓からこの辺りを見るとこんな感じ。
重要なことは、これまた古街道研究家の宮田太郎先生によれば、上の画像に写っている里山の尾根伝いに「早の道=早の道③」が通っていたということ。その尾根伝いとは、これまた東京都稲城市と麻生区の県境。前にこの連載でも紹介した尾根道です。
【御座松塚】
実際、栗平駅近辺、この尾根の外れの「御座松塚」には、北条軍を分倍河原の合戦で打ち破った新田義貞がその将兵を弔ったという伝承も残り、『太平記』『梅松論』の記述からも鎌倉に進軍する新田軍の一部が(義貞自身の進路は不明としても)新百合ヶ丘エリアの早の道を通ったことは確かですから、この尾根道が「早の道③」であった蓋然性は高いと私も考えています。
ただ、この古沢の里山には、2012年春、377床の総合病院「新百合ヶ丘総合病院」が開設されるとかいうことで工事も始まっている。今生きている人の健康と命には替えられないけれど、少し残念です。
・【御座松塚】
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58394682.html
・【平尾-古沢の県境の尾根】
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58396082.html
この連載で前にも紹介しましたが、五力田地区と古沢地区には「朝取り自家製野菜の無人販売所」が幾つもあります。いずれも絶品。
ただ、先日、別の日にこの辺りを散策していたら、お金を払わずに大切に育てた作物を持っていく不逞の輩に対する「抗議文」が張り出されていて(「お金を払わずに持っていく」ことを世間では「泥棒」、法律では「窃盗」と言います)、残念な気がしました。やはり、民主党政権下では人心も知らず知らずのうちに荒むの、鴨。
と、先を急ぎましょう。これから、800メートル、古沢の谷戸の西の縁に沿って一気に津久井道まで進みます。
と、
津久井道近くの休耕田で我々が目にしたものわぁー!
はい、
案山子さんでした。
麻生区の子供会による「案山子コンクール」の優秀作品の公開展示とか。この土地の所有者、鈴木さんのご好意で休耕田を展示場所に使わせていただいているとのこと。ちなみに、この鈴木さんも、紀州熊野から亀井六郎と共に進出された「鈴木氏=穂積氏」の後裔なの、鴨です。
尚、古沢の谷戸の全景はこんな感じです。
というところで、適度な長さなので次回に続きます(;・ω・;)。