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ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」:小田急多摩線沿線-縦走編(八)

2009年10月29日 10時00分09秒 | 徒然日記



最終回です。古沢から津久井道に出て、今回の散策を<復習>する意味も込めて「山口台」を迂回して新百合ヶ丘の駅前に向かいます。「山口台=旧山口谷戸」はかっては旧「上麻生村」の北端の集落で、大正11年(1922年)、陸軍の大演習が新百合ヶ丘エリアで行われた際、重機運搬の便益のために現在の万福寺経由の道が作られるまで、津久井道は「百合ヶ丘-弘法の松-山口谷戸」を経由して柿生に通じていました。ここにも歴史ロマンが一杯です。

・再々掲:ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」シリーズ記事の目次ですよ↖リンク切れの記事はこちらで(ToT)

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/2b680910fc0d58497ba6e371f165236b

 


【地図画像】
・多摩線沿線散策Map(暖色のabcの線が新旧の津久井道)

 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/shinyurimap14a.JPG







案山子君達に見送られて進むこと徒歩1分(スキップなら25秒)、津久井道に出ます。上の画像画面で左右に通る道。ここから、小田急多摩線の高架を見るとこんな感じ。小田急多摩線は津久井道を跨いでいるのです。



本線の順路は、一番上の画像画面の正面の道を進むのですが、ここで、この連載の最近のお約束「B級グルメ」ネタ行きます。そう、B級グルメのチャンピオン「吉野家」。これが新百合ヶ丘エリア唯一の吉野家さんなんですよ。



私は、大体、どの店でも注文するものは固定していて、吉野家では「牛丼並+味噌汁+玉子」 。ただ、なんか今は全国的にそんなシステムになっているのか、「牛丼並+味噌汁」に漏れなく「玉子」がついているらしく値段は430円でした。


ウマウマ(^◇^)




やっぱ、吉野家の牛丼とか、日清のカップヌードルとか、時々無性に食べたくなる、戦後の日本人の「ソウルフード」ではないかと思いますね。伝統というものはこのように恒常的に再生産されるもの、鴨。ならば、<保守主義>とは伝統の恒常的再構築の思想であり営みに他ならないの、鴨。と、吉野家の牛丼を食べながらそんなことを考えてしまいました。と、腹ごしらえも終了。本線経路に復帰すべく200メートル戻ります。





この記事一番上の画像画面、正面の道を直進します。突き当たりを右折、都合320メートル程前進した地点の景色が下の画像。手前のコンクリートの柱が小田急多摩線の高架を支える橋脚、前方の線路が小田急小田原線。



この地点を、多摩線の車窓から見るとこんな感じ。



2枚上の画像画面に写っている小田原線下のトンネルを潜って振り返るとこんな感じ。



つまらない画像の連続でしたか? はい。実は、このトンネルを含む道筋こそ、大正11年(1922年)、陸軍の大演習の際に作られた新「津久井道」なのです。ここで言葉の整理をしておくと、(1)現在の津久井道を「現在の津久井道」(そのまんまやん!)、(2)大正11年以降の万福寺経由の道筋を「新津久井道」、そして、(3)大正11年以前の「弘法の松-山口谷戸」経由の道筋を「旧津久井道」と呼ぶことにします。

而して、この記事「八」の一番上の画像の正面の道を直進して突き当たりを右折してから以降の道筋は「新津久井道」だったのです。この「トンネル」辺りを上から見るとこんな感じです。画像画面の「E」地点の楕円がトンネル。



新津久井道ができるまでの万福寺エリアは沼地でとても大量物流ができる地勢ではなく、さりとて、旧津久井道は峻厳な崖を尾根伝いに越える道筋で、雨・雪のときなどは、物流どころか往来にも苦労した難所とか。而して、当時の陸軍のご威光でこの新津久井道ができたことは、当時の新百合ヶ丘住人にとっては「僥倖」に類する慶事だったということです。






と、新津久井道に沿って先に進みます。といっても、小田原線のトンネルから100メートル。



「月読神社」の道案内板の所で新津久井道はT字路になる。



これまた、つまらない画像でしたか? 

はい。

ここが、新旧の津久井道の合流点なのです。而して、(新津久井道を呑み込んだ)旧津久井道はここから柿生方面に(柿生を向いて線路の左手を)小田急小田原線の線路に沿って続いています。下が、その「新津久井道を呑み込んだ旧津久井道」の優美な風情。尚、Topの参考地図画像の「暖色の線」(a)が旧津久井道、(b)が新津久井道、そして、(c)が(新津久井道を呑み込んだ)旧津久井道です。



実は、私は、柿生駅の遥か先、ここから道筋で3キロは離れていて、しかも、ここから一本道でもない月読神社の道案内板がこの地点にあることが長らく疑問でした。けれど、この地点が、新旧の津久井道の合流点であったこと、ならば、1974年に新百合ヶ丘駅が開業する以前(当然、我が街「新百合ヶ丘」なるものがこの世に影も形もない当時)今で言う「新百合ヶ丘エリア」のここは交通の要衝だっただろうことを考えれば、ここに道案内板が置かれたことは全く理に適ったことである。と、そう今では考えています。

而して、この山口台が、1987年、僅か22年前に「山口台土地区画整理事業」によって開発される前は、黒川地区に持って言っても遜色のない規模の「山口谷戸」だったこと。これは下の画像で、高台と低地で宅地が連続している現在の山口台の地勢を見ていただければあるいは想像していただけるのではないかと思います。

・【月読神社】
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58745262.html







ということで、私は「新旧の津久井道」「山口谷戸→山口台」の変遷を契機にして、次のように今回の散策の思索を総括しました。要は、


河川水系を基軸とした「生態学的社会構造」も、(甲)絹・炭等の商品作物の成立、そして、(乙)陸上輸送能力の向上(まして、鉄道の施設に)よって、漸次、変容してきた。

但し、この変容は、唯物史観の言うように「生産力が自動的に生産関係を決定し、生産関係が文化を自動的に決定するもの」ではなく、例えば、「国衙の祭祀を共に担ってきた文化伝統」や「同じく都筑郡の構成メンバーであるという政治的アイデンティティ」によっても規定される類の変容であったのかもしれない。「生態学的社会構造」とは文字通り人と人との社会関係なのだろうから。

ならば、例えば、早の道や鶴川街道の道筋が自動車の出現によって変わった事実は、日本人の意識や価値観の変容と不変という「矛盾を内包した重層的な事象」を考える上で重要なことに違いない、と。
    


この総括を胸に秘めながら旧津久井道を進みます。といっても300メートル。下の画像が、この道が旧津久井道であったことの<証拠=石仏群>です。






■「昭和59年3月記」の石仏傍の由来碑文
昔、この付近は、人里はなれた山合いの地であった。そしてだれによるものか定だかではないが、この地にさまざまな守り神等が祀られた。この道は鎌倉街道ともよばれ、ここを往来した人々はこれらを一つの道しるべともしたという。(後略)
    
■高橋嘉彦『わがまち麻生の歴史三十三話』 (p.219)
山口谷戸に入ると、・・・5体の石仏があります。このうち最も年代の古いものは享保11年(1726年)銘の庚申塔で、続いて弘化2年(1845年)の地神塔、文久3年(1863年)と明治12年(1879年)の馬頭観音があります。

「さいの神」を祭る五輪塔は、三輪しか残存していず、年代もわかりません。これらの石仏はいろいろな場所にあったものが、この場所にまとめられたものと思われます。
    








石仏地点から新百合ヶ丘駅の改札まで道筋で800メートルしかありません。「山口白山公園」を抜けるともうそこは新百合ヶ丘の中心部に隣接する新興住宅街。今回の散策のゴールラインがくっきり見えてきました。







と、アッと言う間に終点です。

新百合ヶ丘駅前では、東京農業大学の学生諸君が学園祭「収穫祭」の案内チラシを配っていました。



蓋し、今回の散策は個人的にも<収穫>が多かった。特に、散策の直後、10月18日、「はるひ野黒川地域交流センター」で開催されたセミナーで、古街道研究家の宮田太郎先生から直接お話を伺えたのは僥倖でした。

読者の皆さんの中で、「昔の道」に関心のある方は是非、宮田先生が主催されているサイト等訪問されればと思います。

・歴史古街道団
 http://rekishikokaidodan.a.la9.jp/index.html


ということで、今回の「ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」:小田急多摩線沿線-縦走編」はこれで終了です。お疲れさまでした。



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