韓国大統領の竹島、ならびに、支那の反日活動家の尖閣諸島への不法入国。日本海と東シナ海の波も高くなっているようです。他方、日本のマスメディアの多くはこの期に及んでも「冷静な外交」「話し合いによる問題解決」という主張を感情的に繰り返している。否、それは「感情論」ですらなく、相互の武力行使や経済制裁、若しくは、文化交流の断絶は絶対にしてはならない等々の、(末法の世相に立ち向かうご自分の自画像に魅了されたナルシズムに起因するものでしょうか、)いずれにせよ、論理的と法理的の根拠を欠いた<信仰>に基づく念仏三昧の法悦の様相なの、鴨。
そんな四海の波浪高まる昨今、偶然に目にしたあるTVワイドショーを見ていて驚愕しました。番組のあるゲストが大凡、「領土の問題はナショナリズムを誘引しかねないやっかいな問題だけれど、いずれにせよ日本は憲法的に武力を使って竹島を取り戻すとか、尖閣諸島を巡って支那海軍と海上自衛隊が一戦を交えるとかいうことはできないのだから、どこまでも冷静に外交交渉の話し合いで解決するしかないのです」とのたまわれていたから。
驚愕したのは、そこに自称ではなく、一応、法律家のゲストも同席しておられたのに、この「自衛隊による竹島奪還は憲法違反」という主張に異議を述べられなかったことです。畢竟、「自衛隊による竹島奪還は憲法違反」という主張は憲法論的にも国際法的にも明確な間違い。蓋し、このような謬論が公共の電波に乗って垂れ流される事態は自称法律系ブログとしては看過できないもの、鴨。
ただ、本稿は「自衛隊による竹島奪還の合憲論」のその理路を詳らかにするものではなく、少し長目の「Facebookの呟き」にすぎません。「自衛隊による竹島奪還は憲法違反」ではないという点に関してチャート式参考書よろしく論点と理路を整理しただけのものであることはあらかじめお断りしておきます。而して、その論点と理路は、
・現行憲法を包摂する任意の近代主権国家の憲法は
国家の存在を前提にした国家の最高法規である
・現行憲法を包摂する任意の近代主権国家の憲法は
「自衛権」を国家の自然権として包含している
・自国の領土の確保・奪還は「自衛権」が容認する/要請する
国家の権力行使の中核的内容である
・竹島奪還は「自衛権」の正当な行使であり現行憲法が
容認、否、要請さえしている事態と言える
竹島および尖閣諸島が日本国の領土であることが自明であり、加之、竹島と尖閣諸島が日本国の領土であることは現行憲法を頂点とする日本の法体系において微塵も疑義がない以上、竹島を武力によって奪還すること、および、日本の領土主権の侵害行為以外の何ものでもない支那による尖閣諸島を巡る挑発行為を武力でもって撃退することは日本による「自衛権」の正当な行使であり毫も憲法に違反するものではないのです。
加之、過日、あるリベラル派の論者が、現行憲法には「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と書かれているではないですか、ならば、それが自衛権の正当な発動としても憲法が「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と明記している以上、自衛隊による竹島奪還等は憲法違反なんですよ。とかなんとか論じておられた。
蓋し、このような憲法解釈は憲法無効論並みの無知蒙昧の勇み足、すなわち、素人の憲法談義でしかありません。なぜならば、国際法において(よって、別段の定義規定がその憲法典自体に書かれていない限り、その国際法規範の意味内容でもって解釈されるべき、ある主観国家の憲法の安全保障条項の理解において)「国際紛争」には自国の自衛権の発動のケースは一切含まれることはないからです。
畢竟、政治社会学的な観点からは、自衛権のどのような発動もそれは間違いなく「国際紛争の解決手段」ではある。それは正しいでしょう。
けれども、自衛権が自然権(自然人に天賦された人権という意味ではなく、主権国家の事物の本性に鑑み経験的と論理的に、かつ、必然的に抽象・帰納、演繹・確定される権利である自然権)である限り、自衛権の行使を憲法典によって制限することはできず、かつ、ある実定法秩序(国内法体系)から見た場合のその武力行使の正当性の有無強弱はあくまでもそれが自衛権の行使と言えるか否かの判断にのみ依拠しているのです。
換言すれば、ある武力行使を自衛権の正当なる行使であるかどうかをある実定法秩序内部において定めうる権限を持つものは独りその武力行使を行う当該国家のみということです(尚、このイシューを巡る私の基本的な理解については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです)。
・国連憲章における安全保障制度の整理(上)(下)
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11137361486.html
・集団的自衛権を巡る憲法論と憲法基礎論(上)(下)
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11137373660.html
而して、世界の国際法の通説・判例に基づいて「「国際紛争」には自国の自衛権の発動のケースは一切含まれることはない」と述べると、左翼・リベラル派の論者の中には、「そうなれば、どの国も自衛権を名目にしてどんな戦争も武力の行使も可能になる。ならば、現行憲法が「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と定めた恒久平和の理想は瓦解するではないですか」と述べる方もおられる、鴨。
その通りなのです。土台、ある国が、その国内法の適正な手続きに従って、自衛権を名目に武力行使を行うことをその国の実定法秩序(≒日本の現行憲法をも包摂する任意のよってすべての主権国家の諸憲法を頂点とする諸国各々の国内法体系)において制約することなどできはしないということです。
些か敷衍しておけば、国際法的には、その自衛権行使が正当な自衛権の行使であったか否かは国際法の自衛権(≒正当防衛)の要件に従い判断されることになる。しかし、国際法においてその武力行使が自衛権の不当な行使であったと認定されたとしても、(国際法と国内法のその法的評価の齟齬は、主に、国際法上の自衛権行使の正当化要件の存否を巡る事実認定の違いに起因することになるのですけれども、急迫性と予想される損害の重大性等の正当化要件に該当する事実が存在したとして行使された武力に関して)国内法的には(憲法的には)その<竹島奪還>の正当性が阻却されることはないし、加之、国際法的にもその認定の法的効果として、自衛権の不当な行使を行った当該の国に対して「法的制裁」を課しうるかどうかは(その当該の国が自主的に制裁を受け入れるという希有のケースを除けば)現実の国際政治における力関係次第である。
ならば、「どの国も自衛権を名目にどんな戦争も武力の行使も可能になる。つまり、現行憲法が定めた恒久平和の理想は瓦解する」などの言説は、上記の理路に従えば、自分達のこれまでの憲法9条解釈の根拠が崩壊するがゆえに、そのような理路は認められないと言っているだけのもの、すなわち、それは無根拠な自己中的の妄想にすぎない。
畢竟、土台、たかだか日本一国の現行憲法の(それが憲法解釈論からは、憲法無効論並みの噴飯ものの謬論にすぎないとしても、その妄想からの)解釈内容が、国際法の自衛権概念や「国際紛争」の意味内容を規定できると考えること自体が素人ならではの身の程知らずの傲岸不遜である。と、そう私は考えます。
最後に蛇足ながら補足しておけば、「冷静な対処」「冷静な外交」とは前稿(↓)で述べたように、
①当該主権国家の正当性と社会統合の中核であるナショナリズムに沿った、②実定国際法および確立した国際政治の慣習を踏まえた、③自国の国益を維持増進する対処であり外交でしかないでしょう。
而して、領土の維持・確保・奪還は国益の維持増進の基本中の基本であり、その目的のためには、日本は武力行使も辞さないことを明確なメッセージとして諸外国、就中、支那・韓国・北朝鮮という特定アジア諸国に向けて発信することは(結果的に、武力の行使を割愛する武力行使の程度を極小化せしめる外交的の副産物をもたらす可能性とともに)上記、①~③に適った施策ではないかと思います。
他方、「一切の武力行使は現行憲法違反である」とか「武力行使ではなく外交交渉で問題を解決する冷静さなるもの」を求める主張はそれこそ感情的な戯言にすぎないのです。
・「冷静な外交」とは無能な政府の無為無策のことか?
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11329910582.html
蓋し、(a)武力行使の準備を怠らず、(b)武力行使を日本は躊躇しないというメッセージを発信すること。(a)竹島と尖閣諸島の帰属を巡る歴史的と国際法的の経緯の調査、(b)所謂「従軍慰安婦」なるものの正体と、「従軍慰安婦=性奴隷」という赤裸々に事実無根の認識が世界で流布する原因となった朝日新聞の誤報、ならびに、河野談話が出された経緯の調査を国勢調査権に基づき国会/国会が指名する専門家委員会で、その調査結果の全面公開の前提に可及的速やかに行うこと。
()これら()()を行う覚悟と姿勢を日本語と英語で世界に向けて明日にでも発信すること。これらの施策は、()韓国への経済制裁、韓国との公的と私的な人的交流の禁止ならびに自粛要請、()特別永住権制度(在日韓国人の卑属に自動的に日本の永住権を与える制度)の即時廃止措置と並んで具体的にはさしあたり実施すべき「冷静な対処」「冷静な外交」のメニューではないでしょうか。
ちなみに、これらの施策によって韓国・支那とのビジネスで「損害」を受けたという企業・個人に関しては、ビジネス戦略にカントリーリスクをどう組み込むかはそれこそ自己責任が貫徹されるべき領域であり、なんらの公的補助も支援も不要であろうと思います。
尚、対特定アジア外交を巡る所謂「戦争責任論-戦後責任論」に関しての私の基本的な理解、要は、戦争指導者には(「敗戦責任」に起因する道義的責任を越える)法的責任は存在せず、また、少なくとも戦後生まれの日本人についてはその認識と行動を道徳的に縛る道義的責任さえも存在しようがないことについては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。閑話休題。
・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11137340302.html
いずれにせよ、「国家には永遠の友も永遠の敵も存在しない。存在するのは永遠の国益だけである」とは、宿敵フランスのナポレオン三世と手を握りながら英国の帝国主義的海外進出を押し進めた、大英帝国のその全盛期に首相を務めた「パーマストン子爵・ヘンリー・ジョン・テンプル:Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston」(1784-1865:首相在任1855-1858, 1859-1865)の名言です。
私は、現下の日米同盟のありさま、あるいは、ベトナムとアメリカの(同盟締結前夜と思しき)近時の友好関係の深化を想起するとき、このヘンリー・ジョン・テンプルの言葉の含蓄を反芻しています。けれども、彼等が「実定国際法と確立した国際政治の慣習」とは異質な<中華主義>を思想的に止揚できない限り、あるいは、その<中華主義>を肯定する日本国内の反日の左翼・リベラル派の影響力が潰えない限り、対特定アジア関係についてだけは、この国際政治を穿つ箴言の意味内容は以下の如く書き換えられるべきではないか。私はそう考えないではありません。
「日本には永遠の友は存在しないが永遠の敵-特定アジア諸国-は存在する。ならば、
永遠の国益を確保すべく、日本は、彼等に対しては他国よりも一層冷静な外交で臨むべきである。
すなわち、武力行使も躊躇しない冷静な外交が対特定アジア諸国に対しては肝要である」、と。