「難民申請、過去最高の1600人!」という報道を目にしました。ミャンマー国内の政情の不安定化にともない日本に逃れる「難民申請者」が激増したとのこと。その大部分は所謂「条約難民」(=政治難民)とは言えなかったものの1975年~1990年の間、社会主義体制の抑圧と恐怖から逃れようと(華僑への民族的迫害を逃れようと)ベトナムから海を渡ってきたボートピープルのことが思い出されます。而して、難民申請者には人道的配慮からも政治的配慮からも法令に従い適正に対処すべきでしょう。ソ連軍の戦車に追われ満州の大地を逃げ惑いその少なからずが命を失った我が同胞のことを思う時この感は一層深くなります。
蓋し、所謂「条約難民」の受入は日本も批准加盟している「難民の地位に関する条約・難民の地位に関する議定書」(以下「難民条約」と記します。)からも当然のこと。他方、難民であると移民であるとを問わず「異人が神州の土を踏むと日本が穢れる」などと捉える国粋馬鹿右翼的の観念論は少なくとも旧憲法・現行憲法を含む近代憲法秩序下では法律論としては成立しない。蛇足的に述べれば、畢竟、「異人が神州の土を踏むと日本が穢れる」等の心性は、記号論的-分析哲学的には「日本人」との相対的な諸々の関係主義的な差異の束でしかない「外国人」なるものを「実体」と捉え、かつ、超自然的な鬼神の作用を「外国人」に憑依させる「物神性」に絡めとられた心性であり、白黒はっきり言えば、「異人が神州の土を踏むと日本が穢れる」という心性は「外国人とセックスすれば自分も国際化する」と感じる心性と外国人に対する良否善悪の評価こそ180度異なるものの全く同じ「他力本願的(不)変身願望」に他ならない。
これに対して、「難民申請者の日本(への第三国)定住を原則認めよ」としか読めない主張を社説に掲載する全国紙も存在する。蓋し、そのような主張は国際法にも国際政治にも無知な「善意」か無頓着な「悪意」のどちらかであり、いずれにせよ、原則、「難民申請者に対して国を開け」なる主張は主権国家の社会統合基盤を流動化せしめようとする「反日的-反社会的」な主張である。そう私は考えます。以下、報道と社説の引用。
●難民申請、過去最高の1600人=ミャンマー情勢悪化で-法務省
法務省入国管理局は30日、2008年の難民認定申請者数は前年比約2倍の1599人で、認定制度が始まった1982年以降最高となったと発表した。申請者の国別内訳は、ミャンマー979人、トルコ156人、スリランカ90人など。入管は急増の理由について、大規模デモが武力弾圧された07年秋以降の「ミャンマー情勢の悪化が一因」と説明。不認定への異議申し立てに関する外部有識者の審査制度が05年に創設され、認定されやすいとの印象を与えたことも影響しているとみられる。【時事通信:2009年1月30日】
●難民受け入れ―もっと門戸を開けよう
難民の受け入れに消極的だといわれてきた日本が、変わるべき時に来ている。
帰国のめどがないまま海外の難民キャンプで暮らしている人たちを受け入れる第三国定住に、日本も今年から取り組むことになった。タイにいるミャンマー(ビルマ)難民を対象に、今春から準備を進めて、2010年度から受け入れを始める方針だ。
まずは3年間の「試行」という位置づけだが、日本社会の門戸を開く一歩である。ぜひ定着させたい。国連も「アジアで初めてで、日本は地域のモデルになる」と歓迎している。
迫害を逃れて祖国を後にした難民は、世界で1150万人。そのうち約600万人が、5年以上も避難生活を送っている。生まれてから鉄条網の中しか知らない子供たちも増えている。キャンプ生活の長期化が、難民の生活に悪影響を及ぼすのは明らかだ。
だが海外の難民に対して、門戸を開いている国は少ない。他国に滞留している難民を引き取る第三国定住を実施している国は、欧米諸国など十数カ国に限られていた。日本もその仲間に加わることになる。
受け入れる難民は、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が推薦リストを作り、日本政府の担当者がキャンプで面接して決める。
ただし受け入れ数は年に30人、3年間で計90人にすぎない。慎重な審査は当然だが、あまりに少ないのではないか。定住者たちが孤立しないためには、仲間同士で助け合えるコミュニティーを形成できる人数が望ましい。
異なる文化で育ってきた人たちを迎えるには、きめ細かい対応が必要だ。受け入れの成否は、地域社会の協力がカギをにぎる。日本語の習得、就職先の確保、子供の就学など、自治体、企業、学校が一体となって態勢をつくる必要がある。経済が厳しい時期だが、温かい配慮を示してほしい。
日本は81年に難民条約に加入したが、難民と認めたのは07年までに451人にすぎない。認定の厳しさから「難民鎖国」という批判も浴びた。
だがこの数年、日本での難民申請者が急増しており、昨年は約1500人に達した。認定数も増えつつあり、条約上の難民とは認められなくても、人道的配慮から在留が認められる例も出ている。
日本がベトナム戦争後に受け入れたインドシナ諸国(ベトナム、カンボジア、ラオス)の難民からは、医師や実業家などとして活躍している人たちも出ている。亡命先の米国で活躍したアインシュタイン博士のように、難民は貴重な人材になりうるのだ。
海外の難民も、新たな隣人として迎えよう。開かれた日本社会に向けて、小さな一歩を大きく育てていきたい。【朝日新聞社説:2009年1月6日】
言ってみればこれは「地球市民なるものの実体化→主権国家の相対化」を訴える十年一日の如き朝日新聞の社説の一つでしょう。けれども、私はこの社説に言うに言えない不愉快さを感じました。なぜそう私は感じたのか。
蓋し、その不愉快さの源はそれが主張の根拠を欠落させているからではないか。要は、「難民をもっと受入れよう」というこの社説は朝日新聞の願望を記しただけの文字列にすぎない。而して、根拠を伴わない主張は説得力が乏しい反面、誰もそれを反駁することはできない。畢竟、この1月6日付け朝日新聞社説「難民受け入れ―もっと門戸を開けよう」は最初から一切の反論を論理的に封じた上でなされた(しかも、全国紙の社説としての一定程度の影響力を見込んでなされた、柔道で言えば試合終了間際の)「掛け逃げ」的の政治的プロパガンダである。これがこの社説の不愉快さの原因だと思います。実は珍しく社説の全文を引用したのですが、それはこの経緯を保守改革派の皆さんと共有するためには全文引用が必要と考えたからなのです。閑話休題。
難民問題は広い意味の「外国人管理」のイシューではありますが(実際、難民を含むすべての外国人の日本への出入国と滞在の資格と手続を定める現行の「出入国管理及び難民認定法」は、1981年の所謂「難民条約・難民議定書」への日本の加入に伴い1982年1月1日から出入国管理令に難民認定関連手続に関する条項が追加されるまでは法令名も「出入国管理令」だったのですから、法規の面からも「難民問題」が「外国人管理問題」の一斑であることは自明でしょう)、難民問題は他の移民・帰化・国際結婚・商用&観光&研修目的での滞在等々とは異なる特殊性を帯びていることもまた事実です。
難民問題の特殊性とは何か。それは、(1)その対処施策は難民条約という国際法の規定に拘束されること、(2)適切妥当な人道的配慮を拒めない事例であること、(3)国際政治における関係各国の国益や利害と地続きの事例であることだと私は考えています。
逆に言えば、本国に帰れば政治的迫害を受ける蓋然性の高い所謂「条約難民」以外の「経済難民」はもとより、「条約難民」に関しても朝日新聞の言うようなアプリオリに(第三国たる日本での定住を認めるという意味で)「難民に国を開く」義務など国際法上はどの加盟国にもない。まして、(人道的配慮は別にして)生活の保障を行なう義務も受入国にはない。蓋し、所謂「ノン・ルフマン原則」(難民を迫害の迫っている国に追放・送還してはならないというルール)等々の規定が(1)「難民条約という国際法の規定に拘束される対処施策」のαでありωなのです。而して、このことは朝日新聞の社説自体も「だが海外の難民に対して、門戸を開いている国は少ない。他国に滞留している難民を引き取る第三国定住を実施している国は、欧米諸国など十数カ国に限られていた」と認めるしかなかったことからも明らかでしょう。
支那によるチベットや東トルキスタンにおける人権侵害批判を想起するまでもなく、(2)適切妥当な人道的配慮は、最早、綺麗ごとの領域ではなくその国の国際政治における発言権と、他方、国内統治における権力の正当性を左右しかねないマターである。この認識は主権国家を「唯我独尊-独立自存-自給自足が可能」な存在と考える国粋馬鹿右翼的な主権国家論者には不愉快な認識かもしれませんが、あるルールが事実として機能する国際政治の磁場において、主権国家は「国内においては最高の国際的には独立の主権」を持っていると捉えるウェストファリアー条約を契機とする通説的な主権国家論からは特に異論を挿むほどの特異な認識ではありません。大切なことは、何をもって「適切妥当な人道的配慮」であるかどかを決めるものは独り(条約難民を称する者を難民に認定して国際法上難民条約加盟国に課された責務を果たそうとする)当該の主権国家自体であるということです。
畢竟、日本は難民問題を巡っては難民条約に従い粛々と義務を果たせばよく(そして、これが最も重要なことですが、ここで言われる「受入」の意味も難民条約に規定された意味でしかないのです)、ならば、難民条約が規定する「難民処遇」ではない、「政治的難民の第三国定住」やまして「経済難民」に対しては、日本がそれをどの程度受入れるか否かは100%日本政府の政策判断で決めるべきことになります。ことほど左様に、難民条約を越える範囲の難民に対する難民条約を越える範囲の処遇を与えることの是非は、個々の難民事案毎に(母国での政治的影響力=将来日本の手駒としてどれほど利用価値があるかどうか等々の具体的な観点から)(3)「国際政治における日本の国益や将来の利害打算」から判断すべき事柄なのです。
難民問題は人道と正義の問題であるだけでなくそれは政治と経済の問題でもある。ならば、「難民をもっと受入れよう」という朝日新聞の社説は「難民を受入れて開かれた国になろう」→「開かれた国になるために難民を受入れよう」という循環論法の戯言にすぎない。而して、日本がなぜ「開かれた国」なるものにならなければならないのか、「開かれた国」なるものになる日本にとってのメリットとデメリットは何なのか、外国人の流入は日本の社会統合を劣化せしめる怖れはないのか。これらを看過した上でするプロパガンダは国際政治において無益であるだけでなく有害である。畢竟、難民の受入れもまた国際戦略の手段であり、日本の国益増進のために日本はその手段をmake the best use of すべきである。そう私は考えています。尚、外国人問題に関する私の基本的な考えについては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいと思います。
・アーカイブ☆外国人がいっぱい
http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-198.html
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