英語と書評 de 海馬之玄関

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安倍政権の黄昏に「中世という時代」を考える

2007年09月22日 02時48分07秒 | 日々感じたこととか


中世はどんな時代だったのか。否応なくポスト安倍政権の時代に直面せざるを得ない日本人にとってこれは結構重要なことのように思われる。蓋し、平成の大宰相・小泉純一郎前首相が<55年体制という現在の古代>を打破した後、それに続く<現代の中世>とも言うべき時代を日本人は生きているのかもしれないから。本稿はこのブログにちょうど2年半前にエントリーした記事「中世とはどんな時代だったのか」(2005年3月20日)の renewal 版。安倍首相の突然の退陣表明とそれを受けた自民党総裁選の模様を眺める中で、<小泉改革:安倍ー麻生路線=古代の打破:中世の建設>という着想を得たこともあり、安倍内閣総辞職を目前にして「中世とは何か」「中世とはどんな時代だったのか」についておさらいしておくために新記事としてエントリーすることにした。

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昔、京都で学生していたころ、河原町今出川に『金八』という居酒屋があった。そこは、同志社や京都大学の大学院生の溜まり場の1つで、分野を越えた<雑談>が楽しめた。なあに、後になって思えば、皆(私も例外ではなく)、読んだばかりの知識や聞いたばかりの見識を「見てきたように」披露していたにすぎない。でも、結構真面目に、皆、背伸びして「大風呂敷」を拡げていた。

そんな『金八』で西洋史専攻のあるオーバードクターから聞いた話の一つに「古代史は普遍史である」というのがあった。灘の生一本剣菱と一体化した意識の中ではあったが、その言葉に妙に納得させられた。

その後、確かランケの講義録の中にこの言葉の<出典>を見つけたと思うけれど、ちょうど、「社会科学には万人が承服するような正しい方法論が存在するのか」「法と道徳はどう違うのか」「歴史学の認識と歴史小説の言説に違いはあるのか」等々の書生論を振り回していた時期に聞いた、この「古代史は普遍史」という言葉には妙に感心した。実際、ヘーゲルの法哲学の研究者で現在沖縄のある大学の教授になっている先輩が盛んに唱えていた「歴史は個を通した普遍の認識であり、それは普遍と関係づけられた個の認識である」「われとしての我々、我々としてのわれ」とかなんとかいう難渋な言葉よりもその時の私にはリアルに感じられたのである。閑話休題。


■中世に民族性が確立した
古代史が人類の普遍史であるとするならば中世史はどんな時代だろうか。私は中世史は民族の普遍が形成された時代だと考えている。中世とは古代を支配していた生産関係と社会制度が解体した後に、新しい生産関係と社会制度が再構築されると同時に、古代のメンタリティーを保持する人々がストラーグルした時代である、と。ストラーグルしながら、世界に普遍的ではないが、その民族においては普遍的となる文化を形成した時代である、と。

そこでは エコシステム的の変化(=生態系論的な環境の変化;人間と社会と自然の相互に影響を与えあう鼎立関係の変化と変遷)の中で<民族的な心性と価値体系>が創出された。結論から言えば、近代の民族国家成立にいたって普遍的なものと考えられる(誤解されている?)<民族の文化と伝統>なるものの具体的内容の原形は中世に確立された。否、先史・古代から連綿と続く様々な文化の諸パーツが中世において<民族の文化と伝統>というプラットフォームの上に始めて整序づけられた。平安時代末期の院政期から平氏政権→鎌倉幕府→室町幕府の中盤に至る500年間の我が国の歴史をそのようなクリエーティブな時代と私は捉えている。

而して、この中世の認識は次のような通史に展開する。すなわち、(1)古代=普遍史の時代、(2)中世=民族性の確立の時代、(3)近世=民族性が社会関係や人間関係の隅々にまで浸透し具現化した時代、(4)近代=フィクションとしての民族国家と民族性が合体した時代、そして、(5)現代=すべてのものが崩壊しつつある時代だ、と。


(1)古代:国家ができた
(2)中世:日本ができた
(3)近世:民族性が社会関係の隅々に行き渡った
(4)近代:国家と民族性が合体した(民族国家が誕生した)
(5)現代:そして誰もいなくなった


現代は「民族国家」や「民族性」、他方、(民族国家や天賦人権なるモダン的somethingの 裏面たる)「コスモポリタン的国際社会なるもの」の双方が崩壊しつつあると同時に、あらたな<結集軸>が模索されている時代でもある。すなわち、現代は第二の中世である。では、中世とはどんな時代だったのか。


■中世社会の実像
中世日本の人口はどれくらいだったのか。有名な話しであるが、奈良朝の推計値と江戸期始めの推計値は資料から算出可能であるが(また、江戸中期、18世紀初頭からは実数値が判明しているが)、その間の900年間(700年~1600年)の人口動向の推計は難しい。つまり、奈良朝初期は600万人であり、速水融さん達の研究で(「1石=1人」換算から1800万人説が長らく通説だった。)江戸初期の人口は1250万人弱だったろうとは言えるが、中世の、しかも、その社会の社会意識を復元する基礎資料たる職能別の人口はわからない。そこで、仮説というか「頭の体操」に近いのだけれど、私はこの空白の時期の人口をこう考えている。

(イ)室町幕府の成立は生産力と流通システムの拡大が新しい生産関係と権力関係を要求した結果である(→ここで人口爆発があった)。(ロ)戦国の動乱期(1467年以降、)の最初には若干人口減があったかもしれないが、1600年までの約100年間は日本全体として見れば富国強兵のトレンドにあった。(ハ)それ以外の時期の人口はあまり変動はない。(二)人口の増加は、最初、農民の人口増→武士の増→ロジステイクスや文化創造に携わる人口の増(あるいは、農民や武士からの移行)の順序で起こった。(ホ)<蝦夷地>の人口変動はわからない。これらの仮説から、大雑把に、中世前後のKABU推計人口は、・・・。

(零)0700年~1200年:600万人→700万人(約15%増)
(壱)1200年~1300年:700万人→900万人(約30%増)
(弐)1300年~1400年:900万人→950万人(約5%増)
(参)1400年~1500年:950万人→1000万人(約5%増)
(四)1500年~1600年:1000万人→1250万人(約25%増)


しかし、再度記すが「職能や身分による内訳」は解らない。よって、ここでは中世を中世たらしめ、鎌倉・室町・江戸の三幕府を樹立した<武士>に焦点を当てその意識の構造を推察してみる。

私は武士の起源に関する2説。即ち、(甲)在地自営農民の自衛化=武装化説、(乙)騎射の芸能で天皇に使える職能集団の在地領主化説に関して、私は、棟梁は(乙)説で、兵(つわもの)は(甲)説で説明できると考えている。武士団とは社会集団としての(甲)の上に(乙)がお飾りとしてのったものである、と。しかし、お飾りとは怖いもので(イデオロギーとは怖いもので)、お飾りを担いでいた(甲)の人々もその意識としては自分達も(乙)の流れを汲むものとして自身を意識するようになった。而して、土地制度としての律令が崩壊しても、本所と荘司の荘園制度が解体しても、意識としての(乙)は持続した。また、この武士団の社会階層としての二重性と意識としての(乙)の優位が、「近代軍隊の武官の倫理」と近しい日本の武士の倫理観成立の原泉ではないか。そう考えている。
 

■中世武士の社会意識
小学生の頃、足利尊氏の軍勢の大部分は三河の国で調達され、鎌倉幕府に叛旗を翻す旗幟を鮮明にした京都の亀岡の地は足利家の領地だったと聞いて違和感を覚えた。「えっ、足利って栃木県だよね」と。しかし、この事実には何の不思議もない。古代の律令制から(八色の姓が制度化されて以来)、荘園制の総ての時代を通して日本の支配構造は本所と荘司や地頭等による重層的支配であり、一元的な一円領国制の成立は(日本全体という意味では、)織豊期を待たねばならないのだから。と、ここまではどの歴史の教科書にも書いてあることだ。

ならば、中世の支配構造は、ある意味、現在の企業が様々な活動を全国で行っているのに近かったのではないか。あるエリアに住む人間を政治的・経済的・軍事的にまるごと完全に支配するものではなく、何かの商品やサーヴィスの対価として税や労働力を受取る。そんな乗りに近かったのではないかと思う。

そして、「グリコは関西では強いが、関東ではやっぱ森永か」「愛知県でトヨタ以外の車を見るのは稀」などの発言も、その対比が業界を跨げばあまり意味はないだろう。例えば、「長野県では、サントリーとマツダが熾烈なシェア争いをしている」などはマンガのネタにすぎないだろう。つまり、一つの都市に生保や車のデーラーやらが各々オフィスを構えて同業他社と熾烈な競争を繰広げているにせよ、インダストリーと商品が違う企業間の関係は、単に、その同じ地方都市にオフィス(支店)があるというだけのことだろう。蓋し、源氏と平氏、東大寺と東寺は競い合ったとしても社会的なレヴェルが異なれば競争相手でさえない。そう、武家と武家、本所と本所の争いは熾烈でも、その社会的階層を跨いだ争いは原理的には成立しない。これが古代から中世の半ばまでの日本社会の実相だったと思う。

畢竟、中世はこの社会的階層の垣根が消失しつつも(漸次、土地所有者的な一元支配に移行し、「武家」と「本所」の争いが普通になってきつつも)、意識としては皆がまだ古代の株式会社勤務の意識から脱却していなかった時代ではなかろうか。建武のクーデターがあった1333年でも間違いなく日本の武士層は全国に支店を持つ株式会社に勤務するサラリーマンの意識だったと私は思う。足利や新田の郎党、鎌倉幕府の御家人や有力身内人にとって、彼等の抱く自分と自分の領地の(実は勤務地の)人民との関係もあくまである全国的な企業の支社に務めるサラリーマンと当該都市の住民との関係ではなかったか。それが、一円領主制が日本の大部分を覆う16世紀半ばまでのこの列島の社会関係だったと思う。

中世の大部分の武士の社会意識は支店勤務のサラリーマンのそれだった。しかし、それは中世最終期の1550年には激変していた。建武クーデターから200年。応仁の乱から100年。この1~2世紀に武士の社会意識の中でなにが起こったか。それを知りたいと切に思う。知的好奇心からだけではなく、<第二の中世>ともいうべきポスト安倍政権の時代に、「構造改革の更なる推進」と「地方再生」とを同時に進める上での<社会の結集軸>がどのようなものになるのかを考えるヒントがそこに隠されている。そう思うからである。おそらく、それは生活と人生の基盤を地域により関連づけながら、同時に、グローバル化の中で再構築されるであろう保守的な日本の普遍性に強くコミットさせるものであることは間違いないだろうけれども。


蓋し、「現在は第二の中世ではないか」という問いは、<安倍ー麻生>路線の支持者にして、ある意味、筋金入りのマルクス主義民族主義者である私にとっては、日本の政治構造に関して悲観的であると同時に楽観的なアンビバレンツな認識を与えてくれる。すなわち、

(A)歴史は社会的意識と生産の諸関係の相互作用の総体であり

(B)歴史は社会的意識と生産の諸関係の間の調和の破綻や矛盾をエンジンとして弁証法的に流転する、他方、

(C)個人の意識や価値観は全体としての社会意識に決定的な影響を受けて成立変化するものの、時間の推移の中で前者は後者をも変えうるポテンシャルを孕んでいる

(D)「歴史の発展法則」なるものは過去にそれを見いだしうるとしても、未来に適用されるような普遍性を保持していない

(E)「意識と生産の諸関係という重層的な社会構造に発する文化伝統」と「歴史の弁証法的な発展の中で変遷する可変なる文化伝統」という文化や伝統に関する理解と、しかし、「歴史の中で自生的にその内容を整えてきた現在の日本の文化伝統は、社会規範として、また、認識と行動に<正しさ>を提供す価値体系として現在に生きる日本人に一定程度普遍的に作用する」という認識は毫も矛盾しない


このように考えている私にとって、戦後民主主義の悪夢が蘇生するかに思える今後1ー2年間の政局はもちろん好ましいものではない。けれども、この事態に陥った<7・29>の歴史的敗北は「現在を第二の中世」と看做す歴史哲学からは偶然ではなく、また、それらの不愉快な事態からの脱却もまた歴史的には必然であろうと思えるからである。頼朝の源氏政権は3代で潰えたが、北条平氏と足利源氏の手に松明は受け継がれ豊穣な中世日本が展開した。ならば、小泉政権ー安倍政権は潰えたとしても、保守改革派は極めて近い将来に政権を奪取することもありえないことではないだろう。そうなれば、麻生ー中川酒豪ー(第二次安倍)と続くであろう保守改革派の執政の中で、グローバル化の潮流に拮抗しうる<保守的な日本の普遍性>が漸次その姿を具体化させるに違いない。そのように私は期待している。

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