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オウム事件-松本被告精神鑑定☆朝日新聞の司法への過剰な期待を嗤う

2011年11月22日 06時46分23秒 | 雑記帳

 



【解題】
五年半前の記事(2006年2月26日付けで、姉妹ブログ、オピニオン系のYahoo版海馬之玄関に掲載した記事)、自家原稿転載です。昨日、「オウム事件の裁判」がすべて終結したことを俎上に載せて、「真相の解明が完全になされたわけではない段階で、オウム事件を<終結>させてよいものか」等々の、コメントが新聞・TVにまま見られる現状を見聞きして、それに対する批判として再掲しようと思いました。

蓋し、それらは単なる刑事司法に対する過大なクレームであるか無知であるか、それとも、その両方。あるいは、もっと端的に言えば「刑が確定したオウム事件の死刑囚の死刑執行の妨害」にすぎない。而して、それらは、いずれも「国家の権能を絶対視」する権力の万能感の吐露にすぎない。と、そう私には感じられる。

蓋し、その権力観は保守主義とは対局にある左翼・リベラルからのもの。人間をアトム化された均一の存在と看做す、要は、「人間の現存在性」を看過する、ヒューマンな言説とは裏腹な傲岸不遜な近代的な政治思想にすぎない。と、そう私は考えます。






オウム真理教の松本智津夫被告の控訴審裁判を巡って朝日新聞に面白い記事が掲載されていた。降幡賢一記者の署名記事。『オウム法廷 沈黙の闇に逃がすのか』(平成18年2月21日)である。松本被告には訴訟能力があるという精神鑑定を東京高裁が認めたことに対する批判記事。通勤の小田急線の車中でこの署名記事を読んで、私は「降幡さん、朝日新聞さん、それは刑事司法への過大な期待(=クレーム)ではないですか」と思った。以下、その記事を引用しておく。

オウム真理教「教祖」松本智津夫(麻原彰晃)被告が、精神鑑定で「訴訟能力あり」と結論されたことで、高裁が一度も公判を開かずに控訴を退ける可能性が高まってきたといわれる。(中略)私たちは一連の裁判でこれまでどれだけ核心に迫ることができているだろうか。一審のほんの初期のころ、訴訟の方針を巡る意見の対立から被告は国選弁護団との接見を拒否し始め、以後事件について、ほとんどまともな説明もしていない。(中略)

たとえば地下鉄になぜサリンがまかれなければならなかったか。(中略)そもそも松本被告とはいったいどういう人物なのか。それさえ十分に立証されないまま、松本被告への一審死刑判決の時点ですべての結論がでてしまったかのようだ。(中略)

真実をえぐり出す努力を、ここで簡単に放棄してはならない。裁判で問われているのは、あのような理不尽きわまりない犯行の「主犯」とされる教祖が、死刑になるかならぬかではなかったはずである。私たちの社会、私たちの時代に、あの一連の事件が起きたのはなぜか。それを解明しないで終ってしまっては、私たちは事件から何の教訓も得ることができない。(以上、引用終了)



この朝日新聞の記者は、事件の「核心に迫る」ことや「真実をえぐり出す」ことを本気で刑事裁判の役割と思っておられるのだろうか? あるいは、「私たちの社会、私たちの時代に、あの一連の事件が起きたのはなぜか」に関する「まともな説明」や被告人が「どういう人物なのか」ということが司法の手続きを通して明らかにできると真面目に考えておられるのだろうか? 

もしそうなら、降幡賢一記者はあまりにも刑事司法、ひいては、法制度一般に対してナイーブであるか無知、あるいは、その両方であると言わざるをえない。蓋し、それは司法や裁判に過剰に期待するものである。刑事訴訟法は憲法31条および37条1項、38条1項を受けてその冒頭第1条でこう語っている。

刑事訴訟法1条
この法律は、刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする。

憲法31条
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

憲法37条1項
すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。

憲法38条1項
何人も、自己に不利益な供述を強要されない。



刑事訴訟の目的は実体的真実の糾明か人権の確保か? 今から思えばこの大時代的な問いかけは、「職権主義 Vs 当事者主義」を巡って、大東亜戦争後の刑事訴訟法学の黎明期に激しく熱く議論された問いである。

刑事訴訟は「犯罪がなぜどう行われたのか」を明らかにするために裁判官・検察官および被告弁護側がそれぞれの持ち場で(利害を異にしつつも、半ば)協働で行う職権主義的な営為なのか、それとも、結果的に犯罪の実体的真実が糾明されることが望ましいとしても刑事訴訟は「検察側と被告弁護側が対等な当事者として、また、可能な限り対等な<法的な武器>をもってする」有罪・無罪を争う当事者主義的なゲームであり裁判官は中立公平なレフリーにすぎないのか。おそらく、「正解」はそのいずれか一つではない。要は、「第三の道」があるのではないか。と、そう私は考えている。


戦後最初の通説にして(そして、全体として現在も判例の取る立場である)より職権主義的な団藤重光『新刑事訴訟法綱要』(創文社・1948年9月)と現在の通説に至る平野龍一『刑事訴訟法』(有斐閣・1958年12月)のより当事者主義的な刑事訴訟観の対立は、それが論者の国家観や、あるいは、「正義とは何か」「現在の福祉国家化した大衆民主主義の社会において実現されるべき正義とはどのようなものか」の問いに係わるもの。他方、それは、現在のこの社会のありようをどう評価するかという歴史認識とも通底しており、ならば、<論理的に結着>がつくタイプのものではない。

逆に言えば、刑事訴訟の目的や本質は<思想の領域>に属するものであり、価値中立的な(そのようなものがあり得るとして、)法解釈の営みによってのみ確定されるものではないこと。それは、よって、立法政策のマターであり、最終的には国民の法意識を基盤として政治が決するしかない事柄であることをはっきりさせたことに団藤-平野論争の意義はあったと私は考えている。蓋し、朝日新聞の記事が言うように「事件の核心に迫ることや真実をえぐり出すことが刑事裁判の役割」などは自明なことではない。


ある事件が死刑に値するものかどうかは、刑事訴訟の手続き規定と積み重ねられてきた刑事訴訟の判例を踏まえれば、それを「公平かつ迅速」に決することはそう難しいことではない。しかし、当該の被告人が事件について一切を語らず、まして、事件に至った経緯や被告人自身の内面心情について黙して独り刑の執行をむかえることを(人権を確保する制約がないとしても)誰も阻止することなどできはしない。たとえ、拷問や所謂「回復的司法-被告人と被害者との対話による相互理解のプロセス」を駆使したとしても、そこで「明らかにされた事実」なるものが<真実>であるとの保証は誰もなしえないのだから。

而して、また、公権力の行使とはいえ、(人権を確保する制約がないとしても)裁判制度は歴史的な事実や人間の内面真理を解明するために設計されたものではなく、元来、「私たちの社会、私たちの時代に、あの一連の事件が起きたのはなぜか」、あるいは、「被告人がどういう人物なのか」を明らかにすることは歴史家やルポライター、あるいは、小説家の仕事ではあってもそれは少なくとも裁判官や検察官のタスクではない。

ならば、「裁判で問われているのは、あのような理不尽きわまりない犯行の「主犯」とされる教祖が、死刑になるかならぬかではなかったはずである」という朝日新聞の主張はオウム事件をフォローしている同業者や小説家、現代史家に対して言う言葉ではあっても、それは、裁判所や検察官そして被告弁護側に投げかける言葉ではないだろう。畢竟、これが、朝日新聞のこの記事をして私が「刑事司法への過大なクレーム」と断ずる所以である。

而して、朝日新聞は、「真実をえぐり出す努力を、ここで簡単に放棄してはならない」などの刑事司法制度-国家の権力行使に対する<他力本願的な主張>を書く暇があるのなら。朝日新聞自体が松本被告やオウム事件に対してもっと取材をこそするべきなのである。


刑事訴訟の機能は「公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障」に目配りしつつ、「刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現」することをもって可能な限り「事案の真相を明らか」にすることに尽きる。犯罪が惹起した、法秩序への信頼の喪失を刑罰によって迅速に回復することが刑事司法の機能と私は考えている。

蓋し、誤解を恐れず端的に言えば、刑事司法-刑事訴訟において、犯罪事実の実体的真実の究明は(人権を確保する制約がないとしても)、迅速なる犯罪の糾明と速やかな刑罰の執行に比べれば非本質的な目的-機能にすぎない。ならば、地下鉄サリン事件(1995年3月)からでさえすでに11年近い歳月が流れている現在、事件によって失われた法秩序への信頼を回復するためには裁判所は一刻も早く訴訟を終結させるべきなのではなかろうか。

職権主義の刑事訴訟観から見ても「私たちの社会、私たちの時代に、あの一連の事件が起きたのはなぜか」などは究明すべくもなく、まして、当事者主義の刑事訴訟観からは、定められた(しかも、裁判所の配慮で再三延期された)期限までに控訴趣意書を提出していない被告弁護側が<不利益>をこうむるのは当然なのだから。私はそう考える。

尚、刑事訴訟における「精神鑑定」、および、死刑制度、並びに、刑事司法全体の基底にある<思想>に関する私の基本的な考えについては下記拙稿を参照いただければ嬉しいです。

 

・<動物裁判>としての宮崎勤死刑判決精神鑑定批判
  http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-142.html

・野蛮な死刑廃止論と人倫に適った死刑肯定論
  http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/f996f9250e574acac1173d7b869073b6

・応報刑思想の逆襲(1)~(5-資料編)
  http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11415049470.html

 

 

 



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