私達の郷里は福岡県大牟田市。あの三池炭鉱のあった街。
その大牟田市の図書館に負けたんです。
先日、母の介護の件もあり帰省した折りに「1本!」取られました。
流石は我が故郷。悔しいけどそう感じました。
かの炭塵爆発事故(三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故:1963年11月9日)からちょうど49年。あの「総資本 vs 総労働」の闘争と謳われた三井三池争議(1959年~1960年)からは53年を経過して、それらの<出来事>の舞台として歴史に名をとどめる大牟田市も、今や「シャッター商店街」と「高齢者介護施設の送迎車」ばかりが目立つ全国どこにでもあるごく普通の衰退した地方都市の一つになっています。
しかし、流石は我が故郷。
流石は「腐っても鯛」、否、
流石は「腐ってもムツゴロウ」か。
この街に根付いている、人間存在を観察する洞察力、加之、社会批判の練度と水準は尋常ではない、鴨。その練度と水準たるや石原慎太郎知事が都政の正常化に向けて13年8カ月に亘り心血を注がれた東京や、今や草木も靡く勢いの/勢いだった(?)橋下徹市長の大阪に比べても遜色ない、鴨。
その「1本!」を取られたのが上の画像の場面。それは大牟田市立図書館が2012年度「読書週間」の行事の一環(10月26日~11月28日)として行っている「図書館マナーアップ」の展示の一齣。
要は、「図書館の本は市民みんなの<財産>だから大切に扱いましょうよ」というメッセージを伝えるべく現物の「汚損破損本を展示し、図書館を利用するすべての人に守っていただきたいマナーを紹介」し来館者の注意を喚起するもの。
そう、企画自体はこれまた中学生どころか小学生でも思いつく程度の普通のもの。
しかし、そんな普通の企画にこのKABUは「1本!」取られた(悔涙)。
大牟田市の広報の下請けでもありますまい。事実関係の説明はこれくらいにして、大牟田市の図書館に何ゆえに「1本!」取られたと感じたのかそろそろ白状しましょう。蓋し、それはこの図書館の展示企画では、
①「汚損破損本=マナー違反の行為」の分類が的確に行われていること
②そのようなマナー違反の行為を人間ならぬ<妖怪>の行為に見立てて/マナー違反の行為類型を一種擬人的表現として半ダース程の種類の<妖怪>に配分して(すなわち、人間のマナー違反の行為類型毎に、外化・対象化・疎外・物象化して、より効果的に)印象づけていること
③創造された半ダース程の<妖怪存在>の中でも(例えば、「書き込み」の悪さをする<妖怪しるしつけ>等、例えば、「水びたし」「破損」「切り抜き」等々のマナー違反の行為類型の中でも)、「期限を過ぎても返却しない行為類型」の擬人的表現として<妖怪かえさん>を創造したこと。加之、何よりその<妖怪かえさん>の被害にあった現物の書籍が展示されていること
これら①~③が満たされているからでしょうか。
そう考えています。
大牟田市立図書館の「図書館マナーアップ」の展示は見事、天晴れ。
繰り返しになりますが、実際、<妖怪かえさん>の被害にあった書籍の展示を目にした時には、誇張ではなく(神聖なる図書館で爆笑するわけにも行かず)、こみ上げてくる笑撃と「1本!」を取られた口惜しさを必死で抑えようとしたためか、危うく呼吸困難になりかけたくらいです。
でもね、上にも記したように、
③は「存在するはずのない現物の展示」ですよね。
<妖怪かえさん>の被害にあった現物の書籍の展示?
<妖怪かえさん>の被害にあった書籍の現物は展示できないんじゃないの?
その通りです。<妖怪かえさん>の被害にあった書籍は(被害に遭遇した痕跡を誰しも了解できる書籍の現物は)、他の<妖怪>の毒牙にかかったものとは異なり展示不可能ということ。
では、③で述べた「<妖怪かえさん>の被害にあった現物書籍の展示」という言葉で何を私は言いたいのか。畢竟、それは「不存在という事態の存在」の展示であり、そして、この「不存在という事態の存在」を展示した大牟田市立図書館のスタッフの方のセンスと技量に私は脱帽せざるを得なかったということです。
敷衍します。人口に膾炙している通り、
ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』(1921)の末尾で、
7:What we cannot speak about we must pass over in silence.
7:語りえぬものについては、人は沈黙せねばならない。
と述べています。而して、ウィトゲンシュタイン自身が(人間嫌いの彼としては珍しく初対面の挨拶を交わした途端に意気投合したらしいあるロシア人の数学者に、哲学の素人のその数学者に伝わるように平易に説明したとされる言葉が残っていて、それによればおおよそ、)ここで言わんとしたことは、「存在しないということを明らかにすることこそ哲学の究極の役割の一つであり、不存在という事態に対する明晰な説明が哲学の値打ちの源泉の一つである」という認識だったとか。
ならば、蓋し、大牟田市立図書館の創出した<妖怪かえさん>に憑依する水準と内容は、「不存在の明晰化」に連なる、ウィトゲンシュタインが言う意味での哲学の神髄の域に達しているの、鴨。
而して、所謂「従軍慰安婦」問題にせよ、竹島や尖閣諸島を巡る<領土問題>にせよ、それらが<存在しないということ>を明晰に説明することは無駄ではなく極めて重要なことなの、鴨。
換言すれば、例えば、民主党政権の凄まじい無能さ/拙劣さ/有害さに関して、例えば、反日・左翼・リベラルの立場からなされる諸政策が日本に与え続けてきた実損という、謂わば<妖怪しるしつけ>の仕業の如き分かりやすい形態のものより、震災復興にせよ支那・韓国による日本の権益侵害にせよ、政府が担う国政のほとんどあらゆる分野でその無能さがゆえに適切な処置を民主党政権は何一つとることができなかったという<妖怪かえさん>による損害とパラレルな、目に見えない<透明なる実損>が日本を破壊した度合いは遥かに大きいの、鴨。この「図書館マナー展示」を目にして真面目に私はそう思いました。
別のアングルから更に敷衍します。例えば、橋下大阪市長が「核兵器廃絶なんかムリ」と正論というか中庸を得た常識論を述べられたらしい。けれども、そのような正論にして常識論にすぎない、要は、当たり前すぎて本来は言うほどの価値もなく聞くほどの値打ちもない発言を、しかし、この社会ではマスメディアがあたかも際物の如くに取り上げ報道する状況が続いています。
すなわち、半世紀前の三井三池闘争に象徴される時代。大東亜戦争後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義がまだ旺盛な神通力を保っていた時期には、「核廃絶の不可能性=ある事柄の不存在という事態の存在」を愚直に指摘することには政治的の価値のみならず哲学的の意味も間違いなくあったのでしょう。そして、当時のこの社会においてそのような指摘をし続けることには小さくない勇気と少なくない社会的実利の喪失を覚悟しなければならなかったの、鴨。
それから幾星霜。かつ、万物は流転する。万物は流転するはずなのに、しかし、繰り返しになりますが、現下のこの社会ではいまだに「核兵器廃絶なんかムリ」という正論かつ常識論が下に引用した如くニュースになり報道されている。
ならば、半世紀前の三井三池闘争の時代ほどではないにせよ、例えば、核廃絶を巡る橋下発言に引きつけて言えば、「人間相互の関係を支配する崇高な理想」なるものや「平和を愛する諸国民の公正と信義」なるものは存在しないこと、もしくは、それらが存在するとしても、それら「崇高なる理想」なるものや「諸国民の公正と信義」なるものは、それらによって「われらの安全と生存を保持」するに足るほどには信頼のおけるものではないことを愚直に指摘し続けることは、現在でもこの社会では無意味ではないと思います。
▼<橋下代表>「核廃絶誰ができるか」広島で発言
日本維新の会代表の橋下徹大阪市長は10日、核兵器の廃絶について「現実には無理だ。(日本が)米国の核の傘の下に入ることは必要」との認識を示した。全国遊説先の広島市で記者団に述べた。
橋下氏は「日本は国連の安全保障理事会の理事国でも何でもない。日本は平和ぼけしすぎている。国際機関の中で無視されかけている中で、(核兵器の)廃絶といっても誰ができるのか。現実的な戦略を訴えないといけない」と指摘した。
また、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則についても、「基本は堅持だが、『持ち込ませず』は日米安保条約で本当に可能なのか。(日本に基地を持つ)米軍の第7艦隊が核を持っていないなんてありえない。国民に開示して議論する必要がある」と話した。
(毎日新聞・2012年11月10日)
尚、ウィトゲンシュタインと論理実証主義の関係を(すなわち、フッサールの現象学、現代解釈学とならんで現代の分析哲学のプロトタイプとしてのウィトゲンシュタインの哲学と、他方、分析哲学の誕生と雄飛のプロセスにおいて<触媒>または<狂言廻し>の役割を演じた論理実証主義との関係を)表す有名な喩え話しがあります。
あるガラス屋が大きな板ガラスを注文主の家の戸外に立てかけた。そのガラス屋は、そして、そこにガラス板があることを通行にも分かるよう、そのガラス板に自分が描いた絵を貼っていた。ところが、通りかかったある紳士がその絵を気に入り、気が進まない風のガラス屋をなだめすかして購入した。
このガラス屋がウィトゲンシュタインであり、「絵=初期ウィトゲンシュタインの写像理論」を購入した紳士がカルナップ等の論理実証主義の哲学者ということ。私なりに敷衍しておけば、フッサール(1859-1938)とあるいは同じく、ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の関心は徹頭徹尾、「人間理性の限界確定」であり「真理なるものの成立可能性の条件付け/成立不可能性の論証」であった。
すなわち、フッサールとウィトゲンシュタインの<哲学>は、謂わば先験的哲学(人間存在の有限性と真理の相対性という認識を基盤とする、人間の思考対象ではなく人間の思考能力により関心を置く哲学)としてのカントの哲学(1724-1804)の20世紀的なパラフレーズであり、現代の分析哲学はカント哲学の21世紀的表現に他ならない。現代哲学史を借景と見立てた場合、「ガラス屋と絵画」の隠喩に孕んでいる意味内容はそうも理解できるの、鴨。
而して、本稿の主題に戻って換言すれば、<妖怪かえさん>に憑依している思想の構想力はこの「ガラス屋と絵画」の隠喩とも通底しており、その思想の奥行きもこの「ガラス屋と絵画」の隠喩の水準に匹敵するもの、鴨。なぜなら、ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(1984)から本歌取りさせていただければ、その両者は「不存在の尋常ならざる重要性」の認識を共有しているだろうから。そう私は感じたのです。いずれにせよ、
б(≧◇≦)ノ ・・・大牟田市立図書館、侮り難し~!
б(≧◇≦)ノ ・・・大牟田の復活も満更あり得ないことではないんじゃないかい!
б(≧◇≦)ノ ・・・頑張れ大牟田市民、応援頑張ろう大牟田市出身者の皆さん!
б(≧◇≦)ノ ・・・不存在の尋常ならざる重要性を鑑みれば民主党政権崩壊は最早必然!
б(≧◇≦)ノ ・・・保守派としては政権奪還に向けて進むのみ!
б(≧◇≦)ノ ・・・日本再生、就中、地方再生に向けて共に闘わん!