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解釈改憲なるものについての雑感

2014年03月23日 10時11分07秒 | 雑記帳


                    【龍、あるいは、紙と竹の作り物、そして、観光資源にして大牟田市民の誇り大蛇山】



朝日新聞を開けば、「実質的な憲法の番人だった内閣法制局が政治に従属することは立憲主義の蚕食」、あるいは、「集団的自衛権の行使の容認は解釈改憲ではなく憲法の改正によって行うのが筋」とかの意味不明な主張が珍しくありません。

うみゅー、「憲法の番人」て何? 
それ美味しいの?


要は、「内閣法制局が実質的な憲法の番人」だったというのは、つまり、朝日新聞を始めとするリベラル派が好ましいとする「集団的自衛権を日本は国際法上保有しているけれども、憲法上は行使できない」という主張を--実は、戦後も70年代なのですけれども--これまで内閣法制局が述べてきたというだけのこと。それだけではないのでしょうか。

而して、集団的自衛権と個別的自衛権を区別しない現在の世界標準の国際法論、そして、自衛権を--よって、自衛戦争を--<憲法の事物の本性>に含ませる現在の世界標準の憲法論から見れば、「集団的自衛権を日本は国際法上保有しているけれども、憲法上は行使できない」というような主張を重ねてきた内閣法制局は「憲法の番人」などではなく「憲法の蛮人」であった。と、そう私は考えます。

いずれにせよ、実質的にも本質的にも<憲法の番人>は司法府でしかない。そして、白黒はっきり言えば、司法府も国家権力の一部であり--だって、「三権分立でしょうが!」--、ならば、政治と無縁ではありえない。つまり、<司法>も政治的影響力を有し、他方、他の2権あるいは世間からの政治的影響を受けることもまた不可避ということ。ただ、<司法>の加被の政治的色彩は、あくまでも、法の解釈を通して、その結果を通して示唆されるということは忘れてはならないと思いますけれども。

而して、重要なことは、国民の権利の制約を巡る司法審査とは異なる、「統治行為マター:political questions」に関しては、<司法>には憲法の解釈権限がなく、よって、司法府は「憲法の番人」ではないということ。それは一重に、政治に関わることを本分とする、本来の政治セクターである行政府と立法府の管轄ということ。

畢竟、安倍内閣が--政治責任を甘受する覚悟をもって--集団的自衛権の政府解釈の変更を行うことは憲法論から見て毫も批判される筋合いはない。と、そう私は考えます。「集団的自衛権の行使の容認は憲法の改正によってではなく政府解釈の変更で行うのが筋」であるとも。


・立憲主義を守る<安全弁>としての統治行為論
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d2b014fb5dcdcb6d9260f7aa8eec3c5f

・書評予告・阿川尚之「憲法改正とは何かーアメリカ改憲史から考える」

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7eddb6f57b93ed69fbecdd5f75d06f2a


蓋し、「実質的な憲法の番人だった内閣法制局が政治に従属することは立憲主義の蚕食」などというリベラル派の主張の基底には--その政治的なマヌーバーとは別に、先進国の近代の憲法典と司法審査の実際を見るに--、①憲法は閉じられた体系であり、これまで蓄積されてきた司法や行政の憲法解釈は螺旋状にせよ、漸次、現存している究極の正しい憲法の意味内容に接近してきたものであり、ならば、②その蓄積されてきた、例えば、外国人の指紋押捺の禁止なり、あるタイプの定住外国人に対する社会保障の給付なり、そして、集団的自衛権の不行使などを否定することは、そのような--憲法の閉じた体系としての--現存している究極の正しい憲法の意味内容を否定するものだという憤りがあるようにも思います。

けれどね、--客観的な真理の実在、および、その真理に漸次接近していく閉じた知の体系の構築作業といった19世紀的な科学のイメージを粉砕した、カール・ポパーの「バケツ理論」を持ち出すまでもなく--現在の世界の法哲学の地平において<憲法>といわず<法>は閉じた体系とはほとんど誰も考えていません。すなわち、①②は19世紀的な--マルクス主義を含む古い科学主義的な--「概念法学」的の認識なのかもしれません。

いずれにせよ、現在の世界標準の憲法論と法哲学では<憲法>も<法>も開かれた体系と考えている。例えば、--外国人犯罪が激増する、日本の社会保障財源が枯渇する、支那の脅威が益々高まる等々の事情があれば--外国人の指紋押捺の再開なり、あるタイプの定住外国人に対する社会保障の給付打ちきり、そして、集団的自衛権の行使の肯定も当然正当な占領憲法の解釈なのです。所かわれば法が変わる、だけではなく、事情が変われば法は変わるのです、可逆的にもね。要は、「先進国の近代の憲法典と司法審査の実際」なるものを自説の根拠にできるという心性は100年ほどアウトオブファッションであるだけでなく「文化帝国主義の心性」そのものだということ。


では、逆に、100人の首相がいれば100通りの憲法解釈があるのでしょうか。
それがそうでもなかとです。

このことは、例えば、アメリカの憲法訴訟の歴史において、「デュープロセス理論」や「明白にして現在の危険のアイデア」が、--前者のデュープロセス理論は、企業や各州の権利や権限を守護する方向でも、逆に、制約する方向でも用いられた経緯があること、そして、後者の明白にして現在の危険のアイデアは、個人の表現を沈黙させるロジックとしても個人の表現の自由を守護するレトリックとしても使われた経緯があることは英米法の基礎知識的のエピソードでしょうけれども--時代により幾度となくその時の主要な主張者の陣営が左右の間を振り子運動したにせよ、「デュープロセス」「明白にして現在の危険」の意味内容自体は深化し細分化されてきた経緯。

これらの経緯を鑑みれば、よって、100人の大統領も、100人の連邦最高裁裁判官もけっして恣意的にそれらの理論やアイデアを自己が好ましいと考える憲法解釈を正当化するために使えるわけではない現実を想起すれば自明でしょう。

おのずと、そこには憲法テクストの大枠が存在しており、かつ、憲法理論の蓄積もまた存在している。なにより、「何が憲法の意味内容なのか」に関する国民の法的確信が得られなければ、99人の大統領や99人の連邦最高裁裁判官の憲法解釈も単なる呟きにすぎないということ。

而して、集団的自衛権のこれまでの政府解釈が憲法理論的にも国際法的にも到底維持できない杜撰なものである以上、それを現下の事情を鑑み、かつ、「統治行為マター」の有権解釈者である内閣が変更することは--政治的にはいざしらず--寧ろ、法理論的には極めて妥当なことではないか。と、そう私は考えます。

敷衍しておけば、どのような戯けた解釈でもそれが数十年にわたって維持されてきたような場合、その事実が担保する法的安定性は国民の法的確信を獲得する上で無視できない事柄でしょう。換言すれば、法的安定性は確かに法解釈が目指すべき妥当な解釈指針の一つではあるということ。そして、集団的自衛権を巡る現行の政府解釈についてもそう言えなくはない。それは私も認める。

けれども、国民の法的確信を維持獲得する作業、すなわち、法解釈の指針は独り法的安定性ではありません。それは(α)法的安定性のみならず、(β)現実の諸問題をトータルに解決する上での具体的妥当性である。

そして、繰り返しになりますが、司法が政治とは無縁ではないとしても--否、司法も教育も報道も、ある意味、極めて政治的な活動であるのでしょうが--司法の活動は法の理論と法の論理を駆使してなされる解釈を通して示されるほかない。すなわち、(γ)法解釈の理論的水準と整合性もまた法解釈の指針でないはずはないということ。ならば、被告と原告の人権間の比較衡量などとは異質な、統治行為マターを巡るより抽象度の高い憲法規範の解釈においては--国民の法的確信をトータルで今後も長期的にわたって維持強化するためにも、法理論的な水準と整合性といった--この経緯は一入ではなでしょうか。

畢竟、「解釈改憲」なる法理論的には意味不明な言葉を、しかも、「前のめり」や「腰高」や「乱暴」なる一層空虚な<詩的言語>で批判する朝日新聞を始めとする集団的自衛権の行使容認反対論は、法論理的には「もう、お前は死んでいる」、<北斗の拳>なのだろうということもまた。


尚、集団的自衛権を巡る私の基本的理解、および、<憲法>自体に関する理解に関しては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。




・国連憲章における安全保障制度の整理(上)(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11137361486.html

・集団的自衛権を巡る憲法論と憲法基礎論(上)(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11137373660.html

・憲法と常識(上)(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d99fdb3e448ba7c20746511002d14171

・保守主義-保守主義の憲法観
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/18b7d4f888aed60fa00309c88637f9a3





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