英語と書評 de 海馬之玄関

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<移民>という視座が照射する日本の魅力と危機-あるペルー女性の場合(上)

2011年11月24日 20時21分29秒 | 日々感じたこととか

本稿は、尊敬する(「プチおっかない」とも言う。以下、自主規制。)きつねのしっぽ姉さんの記事の転記転載です。きつねのしっぽ姉さんは、その美貌と国際結婚経験は置いておくとして、その知性と豊富な海外生活体験(就中、お子さん達が、海外では「外国人」であった/昨年、北関東の某県に帰国してからも「アイデンティティーの葛藤」を経て逞しく成長している実体験!)を踏まえて、「日本に住んでいる外国人の子供達/日本語があまり得意ではない日本人の子供達」に日本語の習得のサポートをしたいよね。と、そう考えて、日本語指導者養成のための研修を受講されました。

転記紹介する記事は、その研修の最終局面で遭遇したエピソード。一緒に研修を受けた「同期メンバー」同士の自己紹介でのお話です。ちなみに、本記事の画像は「きつねのしっぽ姉さんの検閲」によって、もとい、「きつねのしっぽ姉さんの助言」によって選定したもの。そう、(主人公の少年の旅の行程がアルゼンチンはアンデス山脈の山麓地帯、すなわち、ペルーの国境から僅か800キロ(!)の辺りにまで至った、日本では)『母を訪ねて三千里』(原題『Dagli Appennini alle Ande:アペニン山脈からアンデス山脈まで』)として有名な『クオーレ:Cuore』(1886)の挿入譚の関連画像。

尚、『クオーレ=心意気』は、言うまでもないでしょうけれども、(例えば、我が国が、明治維新と西南戦争(慶応3年~明治10年:1867年~1877年)によって、また、アメリカが南北戦争(1861年-1865年)によって、ドイツが普仏戦争(1870年-1871年)を経て、各々、近代の「主権国家=国民国家」に脱皮したのとちょうど時を同じくして、すなわち、)イタリアが、1861年に一応の「統一」を経て、その内実においてもいよいよ「国民国家=民族国家」に変貌を遂げる時期に、すなわち、史上初めてこの世に「イタリア人」なるものが誕生した時期にエドモンド・デ・アミーチス(Edmondo De Amicis, 1846-1908)によって書かれた<愛国小説>。

而して、この『イタリアの心意気, イタリア人魂:Cuore』は、例えば、(その内容とストーリーは、「社会史的-政治史的」と、「民俗学的-言語社会学的」には「嘘八百」と言ってよいものなのですが、なぜならば、その小説作品の舞台のアルザス地方は元来ドイツ語圏であり、そのコミュニティーメンバーのほとんどは(私の感覚では、現在の「岐阜弁と共通語の差」くらいしか、<ドイツ語>の一方の共通語たるバイエルン流の地ドイツ語とは離れていない、)ドイツ語方言のアルザス語を母語としていたのですからね。『最後の授業-アルザスの少年の話:La Dernière Classe-Récit d’un petit alsacien』(1873)として知られている、アルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet, 1840-1897)の短編小説集『月曜物語:Les Contes du Lundi』(1871~1873;1875)の中の一編と、おおよそ同じ人類史的パラダイムの枠中で、アルプスの山々を跨ぎながらもほぼ同じイデオロギー的志向性が作者達に憑依して書かしめた<愛国小説>と言えると思います。

尚、「国民国家=民族国家」の成立、加之、「ナショナリズム」が現下の正当な憲法秩序の必須の構成要素(an essential part of the constitutional order)である経緯は下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。閑話休題。

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11146780998.html
 

・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11137340302.html



以下、きつねのしっぽ姉さんの記事の引用。







== あるペルー女性の場合 ==

2011年11月22日(火) 午後 4:16分-書庫[日本語指導者養成講座]


最後の自己紹介の中であまりに印象的で
私の記憶に残ったものがあったので紹介します。

彼女はペルー出身の30歳くらいの女性です。
ペルーで結婚して2人の子どものお母さんで、
お腹には3人目がいて、現在関東在住です。
そんな身重にもかかわらず県を越えこの講座に通っていました。

彼女は今から20年ほど前、親とともに来日、静岡に移り住んだのでした。
当時10歳、まだあまり外国人はいなかったそうで、
市役所にいって、学校転入の相談をしたところ、
本来なら小学4年のところ、特別に小学2年生のクラスに転入することに。

日本語は全くわからないので大変だったそうです。
それでも半年くらいでなんとかわかるようになったけれど、
やはり漢字などはむつかしいし、書くのも大変でした。
ただ彼女は生まれつき頭が良かったと私は思いました。
算数と理科は理解できたのだそうです。

そして2年、3年のクラスを経て、ある日突然6年生のクラスに
編入することになりました。
本人の意思ではなく、おそらく学校と市の教育委員会が決めたのでしょう。
それはそれはなかなか大変だったようです。
それなりに勉強はするのですがやはり国語などは難しい、
でもね、算数と理科はなんとかなったそうです。

そしてそのまま3学期だけ6年生で過ごし、中学校へ入学。
彼女はもう部活(バレーボール)のことしか考えてなかったって。
そんな中3のある時、彼女は突然ペルーに帰国することになります。
おそらく親の仕事の都合でしょう。

私は尋ねました、「スペイン語はどうでしたか?」
やはりスペイン語は相当話せなくなっていたそうです。
ペルーの中学校では「ベネズエラ人か?」「コロンビア人か?」なんて。
日本にいる時の彼女は、兄弟間では完全に日本語を話し、
親はスペイン語で話しかけるも、本人は日本語で答えていたとの事。
ペルーに戻ったら戻ったで、今度はスペイン語で苦労したようです。

しかし彼女は元来頭が良かったのでしょう。
ペルーは高校がなく、中学を5年まで通って、そのまま大学へ進学します。
そして大学を卒業してついた職業はシステムエンジニアでした。
理系の頭脳は国境を越えるなぁ、と私は思いました。
そして結婚をし、子どももできたのでした。

「で、どうして今日本に???」

この質問に彼女は言葉を詰まらせます。
色んな思いが溢れ返って言葉になりません。
涙に詰まりながら彼女は話してくれました。
「私の中で日本で過ごした日々は輝いていたのです」
苦労はあったけれども、とても幸せなものだったと。
誰もが教育を受けることが出来、治安もいい日本。
「私は自分の子どもに同じ経験をさせたいと思った」

こちらも思わず感極まってしまいました。
ペルーに戻ってからの彼女の苦労もしのばれます。
そこらへんの自虐思考の日本人なんかより、
何百倍、いや何万倍も日本に対する愛情を感じます。

そしてシステムエンジニアの仕事を得て
今現在日本に住んでいるとの事。
来年の5月には3人目の赤ちゃんが生まれる予定。
無事の出産をお祈りします。

移民の大半は当人とその家族にとって、大変なストレスを生み出します。
日本に限らずどの国でも異民族に対する目は好意的でないといえます。
そこでその国の人並みに暮らしていこうと思ったら、
それなりの何らかの能力が必要です。
彼女はSEという職業があったから、再来日することが出来たと思います。

言葉は悪いけれど
いわゆる奴隷代わりのような使い方をするための移民政策は、
一時的に安い値段などの便利さを生み出すけれど、
将来的には影を落とすだけだと私は思っています。
日本社会についていけずこぼれ落ちた外国人は、
職を得ることも出来ず、治安の悪化を招くだけだと思います。

ちょっと話はそれますが、先日子どもが借りてきた図書館の本。
星新一のショートショート。
何年前に書かれた物かわからないけれど、結構昔のはずです。
ある男が遠い星に出稼ぎに出掛ける話。
男は必死に働き、たっぷり貯金をし、10年後に地球に戻ろうとします。
するとまず戻るロケット代をたくさん取られ、
その後宇宙からの税関でどっさり税金を取られ、
地球に帰ったら10年の間に恐ろしく物価が上昇し、
必死で貯めた貯金は大した価値になっていなかった。。。

こんな移民って実は意外と多いのじゃないかと。
移民で成功するのはごくわずかの限られた人間だけ。
移民しないと命がなくなる、なんてケースを除いては、
あまり移民はしないほうがいいと思う私は、
果たして外国籍の子どもにちゃんと日本語を教えられるのか、
こればかりはやってみないとわからないかな・・・。

話はそれてしまいましたが、
このペルー人の彼女の話を聞いて、私は何もしてないけれど、
ちょっと自分が日本人であることが誇らしく思えたのでした。

(以上、転記終了)   


http://blogs.yahoo.co.jp/kitunenoshippowind/37576072.html





== 解題 ==

蓋し、(19世紀の所謂「帝国主義」華やかりし頃の、宗主国出身の人材の「急募!」という表層の現象とは違い、)ウォーラステインの言う意味での「近代世界システム=世界資本主義システム」の確立期、換言すれば、グローバル化の最初期、16世紀半ばから20世紀半ばに至るほぼ4世紀に亘って、南北アメリカとオーストラリアという、「移民」を受け入れ続けた、近代における<人口移動>のプル要因がほぼ消滅した現在、「移民」はEU域内、「旧宗主国-旧植民地」間の移動等々、かなり「例外的」かつ「個々の受け入れ国と送り出し国の政策が共鳴した場合の特殊事例」になっています。他方、ネットの普及に伴い、中途半端な海外「出張」は激減している。だって、経費の無駄だもの。エコじゃないもん。

ブログ友の記事の解題でもあり、統計的ソースは割愛しますけれども、しかし、益々高度化するグローバル化の中での(「移民」が増加するのではなく、減少、少なくとも安定しているという)この「移民の量を巡るパラドックス」は、しかし、その裏面としての(政治的要因である「難民」の増減を捨象するとしても、)短期の「出稼ぎ」「転勤」の増加を伴った現象とも言えるでしょう。

而して、現在の国際的な労働力市場における「移民」の需要は、「国民国家=民族国家」間の定住目的での人の移動要件は(「人類の最古の職業」も例外とすることなく)単純労働と高度化された知的・芸術的の労働の両極に益々集約されつつある。当たり前のことですが、この中間層が希薄になるという現在の<移民>を巡る状況は、しかし、「移民」や「出稼ぎ」の人々、あるいは、その人々の子供達を巡って、彼等のアイデンティティーの確保・維持と、そして、そんな<移民家庭>を包摂して社会的に統合せざるを得ない受け入れ国のイデオロギー政策の両者に対して、新しいタイプの課題を顕現させているの、鴨。と、そう私は考えます。

正に、万物は流転する。量は質に転化する、と。



<続く>



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