■反教条主義としての保守主義
資本主義が一層その勢力を拡大深化させている21世紀の現在、保守主義の死活的に重要な意味内容として私はその「反教条主義」に注目しています。詳細は旧稿に譲るとして、「保守主義と反教条主義の論理的関連」は次のように整理できると思います。
◎伝統に価値を置く心性
・伝統の苗床としての家族とコミュニティーと民族に価値を置く心性
・伝統以外の新規な理論や教説にいかがわしさを感じる心性
・この世に人知の及ばない領域の存在を肯定する、人間の有限性に関する確信
・価値相対主義的な世界観の採用と自己の格率としての伝統的な社会規範の選択
・自己と異なる伝統に価値を置く「他者=異邦人」の保守主義の尊重
・価値相対主義を軽視する左右の教条主義に対する軽蔑
保守主義をこのような心性に貫かれた社会思想と措定するとき、最も豊潤で中庸を得た保守主義の具体的モデルとしては、()そのコミュニティーに自生的な法規範が認める権利を不可譲のものと捉え、かつ、()具体的な事件における司法においてその法規範を実際に運用することで、()国家権力の人為的な立法に頼ることなく社会に生起する紛争を可能な限り解決するという「社会的擬制-イデオロギー」として英米流の保守主義は定式化できると私は考えています(★)。
より一般的な社会統制の場面にを背景に換言すれば、()そのコミュニティーに自生的な社会規範と慣習に価値を認めること、()教条的な理論による予定調和的な紛争の一括的な解決ではなく、具体的な個々の事件毎に公共的な言説空間における討議を通して、()国家権力の権力をできるだけで使用しないで社会に生起する紛争を可能な限り解決することこそ、保守主義の社会思想と親和的で整合的な社会統合の仕組ではないか。と、そう私は考えるのです。
而して、旧憲法に比べアメリカ憲法との親近性を増した憲法典を実定憲法の一斑としている我が国であれば、社会思想の領域でも英米流のマチュアーな保守主義を移入することは十分に可能ではないか。いずれにせよ、このような保守主義が「政治主導」を掲げ、権力の万能感に高揚して理性を喪失しつつあると見えなくもない民主党政権の「リベラリズム≒社会主義」、そして、「地球市民」なる空虚な表象を実体と錯覚している憲法9条教の主張、あるいは、ヘーゲルばりの「国家アイデンティティ=国体」の普遍性を夢想する憲法無効論とは対極にあることは間違いないと思います。
★註:保守主義と英国分析法学
旧稿でも記した如く、日本では英米の保守主義を精力的に紹介しておられる中川八洋氏の著書、例えば、『保守主義の哲学』(2004年)等々の影響か、コモンローと司法ではなく法の社会化を目指し立法と国会主権を果敢に推進したベンサムを保守主義の対極と理解する論者もまま見かけます。
けれども、世界的に見ても英国の分析法学研究の先駆者と言える八木鉄男先生が、例えば、『分析法学の潮流―法の概念を中心として』(1962年)、『分析法学の研究』(1977年)で提唱されたように、この認識は片手落ちと言うべきもの。なぜならば、法理論面でのベンサムの参謀格ジョン・オースティンの分析法学に結晶しているように、「法=主権者命令説」と呼ばれる「ベンサム-オースティン」の主張は、法が社会統制に容喙できる範囲と権威を限定して、以って、広く実定道徳による社会統制を考えていたと解すべきだからです。蓋し、それが所詮、歴史的事実ではない「物語=イデオロギー」であることを踏まえるならば、所謂「法の支配」で言うところの「法」と「道徳」にはそう大きな違いはないと考えられるから。と、そう私は考えています。
■国家と保守主義
保守主義は国家権力の積極的行使には疑義を呈する社会思想です。この一点では、保守主義は資本主義、就中、自由放任の旗幟を鮮明にした新自由主義と極めて良好な関係にあると言える。他方、保守主義は、地域の文化と生態学的社会構造を解体し伝統と歴史を相対化・無力化する資本主義の傾向(その制御が難しいという意味で盲目的で、かつ、時間的にも地域的にも無限の資本の自己増殖性)とは鋭く対立し、国家による資本主義の制御を正当化する社会思想でもある。蓋し、保守主義と国家は資本主義という与件を仲立ちにして重層的な矛盾の関係にあると言えると思います。
畢竟、元来、「デモクラシー」が小規模の社会集団を想定した社会思想であったのとパラレルに、おそらく、保守主義は伝統と歴史、文化と生態学的社会構造を共有する比較的小規模な地域コミュニティーを苗床として成立したのだと思います。保守主義は国家や民族とは必ずしも論理必然に結びつくものではなかった、と。
けれども、失楽園。
繰り返しになりますが、「18世紀-19世紀」の近代主権国家の成立以降、すなわち、「民族」なるものが(よって、「ナショナリズム」が)地球上に初めてその姿を現して以降、就中、資本主義が社会主義を崩壊させ、(アメリカを唯一の超大国に押し上げた同じ資本主義が)その唯一の超大国であったアメリカにさえ「大政奉還」を迫りつつあるグローバル化の昂進著しい現在、保守主義は地域コミュニティーの社会統合を専ら担う社会思想ではなくなった。
蓋し、保守主義はその意味具体的内容の供給を、元来、保守主義と親和的ではない「国家=民族」からも受けざるを得なくなったのであり、逆に、保守主義は近代主権国家の社会統合を担う「政治的神話=イデオロギー」としてのナショナリズムをも包含するに至ったの、鴨。それは、20数億年前の太古の海で、元来、別の生命体であった原ミトコンドリアと原核生物が合体して真核生物が生まれたようなもの、鴨。と、そう私は考えています。整理すれば以下の通り、
◎保守主義の弁証法的変遷と国家との重層的関係の成立
(1)地域コミュニティーの社会思想としての保守主義
↓
(2)資本主義の成立
⇔資本主義の自由放任性と親和的な保守主義
↓
(3)近代主権国家・民族国家の成立
⇔国家の権力行使と国家の正当性と疎遠な保守主義
↓
(4)主権国家の社会思想としての保守主義
↓
(5)グローバル化の時代の保守主義(A+B)
●グローバル化の時代の保守主義-保守主義A
・国家に期待せず国家の介入を忌避する社会思想
・ヘーゲル的な絶対精神としての国家観念を忌避する社会思想
●グローバル化の時代の保守主義-保守主義B
・国家による資本主義の積極的な制御を正当化する社会思想
・ナショナリズムを包摂するともすれば排他的な社会思想
言うまでもなく、「国家」も「民族」もフィクションであり擬制にすぎません。けれども、ケルゼンが見事に定式化したように(例えば「巨人軍」などこの世に物理的に存在しないにもかかわらず、谷や小笠原のスリーランホームランが出れば「巨人」に3点が「記録される=帰属する」ことでも分かるように)それは権利と義務、意味と価値が帰属する(法システムの世界で生成された)「帰属点」なのです。
而して、ゲルナーが喝破した如く、「国家」や「民族」、そして、「ナショナリズム」の意義はそれが単なるイデオロギーにすぎないことでは毫も否定されない。それは、実際に、国内的には社会統合と社会統制の機能を果たしており、対外的には諸国民の生存と活動を保障し、更に、グローバル化の昂進著しい現在では、それは資本主義から諸個人の生存と生活を守り、加えて、資本主義がもたらす諸個人のアイデンティティクライシスを緩和して、当該の国家社会がアノミー化することを防ぐ、近代国家成立以降の人類にとっては死活的に重要な「イデオロギー=世界Ⅲ」だからです。
私が尊敬してやまない小平先生の顰に倣えば、「黒猫も白猫も鼠を取る猫が良い猫」であるように「人間の社会生活を安定させ、人間の生存と生活を保障するイデオロギーは良いイデオロギー」であり、現在において国家も民族もナショナリズムも全体として見れば良いイデオロギーと言える。と、そう私は考えています。
蓋し、近代主権国家の成立以降、比喩的に言えば、人間は「ある国家のユニフォーム」を纏わない限り、国内的にも国際的にも行動することが難しくなった。つまり、ユニフォームは単なる記号にすぎないにしても、ユニフォームを着ていることが国の内外を問わず社会的活動というゲームに参画する基本的なルールになっているということ。ならば、どこの国のユニフォームを着るべきかというルールには白黒はっきり言えばほとんど必然性はないけれども、どこかのユニフォームを着用しなければならないというルールと、そして、とりあえずどこのユニフォームを着るべきかのルールが定まっていることには十分な合理性がある。而して、ナショナリズムを包摂する(反インターナショナリズムとしての)現在の保守主義は、そのような、国家規模のユニフォームの着用ルールを正当化する機能をも果たしているのではないでしょうか。尚、この点に関しては下記拙稿を是非ご参照いただければ嬉しいです。
・外国人がいっぱい
http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-198.html
・揺らぎの中の企業文化
http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-199.html
・外国人地方選挙権を巡る憲法基礎論覚書(壱)~(九)
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11142944811.html
上記の考察を踏まえ、我々保守改革派が現下の日本において保守主義に盛り込むべき具体的意味内容は如何。このことを最後に一瞥しておきたいと思います。
蓋し、それは、①「自己責任の原則」が貫徹される、かつ、誠実さと勤勉さとを備えた敗者には「何度でも勝負する機会」を与える活気溢れ社会、および、②伝統の恒常的な再生、すなわち、日本社会統合のための<政治的神話>として「日本=皇孫統べる豊葦原之瑞穂国」のイデオロギーを常に再構築する社会、更には、③そのような日本社会を統合する<政治的神話>をリスペクトする限り、能力ある善良なる外国籍日本市民を排外することのない開かれた社会、そして、④地方コミュニティー再生にプライオリティーを置く社会思想ではないか。
而して、『孟子』「梁上編」に曰く、「無恒産、因無恒心:恒産なくして恒心なし」。そして、『論語』「顔淵編」に曰く、「子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立」から逆に導かれるように、生存と秩序はすべての社会思想が<政治的神話>として機能する前提条件である。
このことを鑑みれば、我々が希求すべき保守主義の意味内容には、⑤国防と食糧は当然、歴史認識を巡るイデオロギー戦を含むあらゆる部面での<国の安全保障>において、自国は自国で守る意思と力の涵養を怠らず、他方、狡猾誠実に同盟国との連帯を維持強化できる現実主義的な国家、そして、⑥国際法と確立した国際政治の慣習を遵守する国家を正当化する内容もまた盛り込まれるべきである。そう私は考えています。