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「左翼」という言葉の理解に見る保守派の貧困と脆弱(2)

2010年10月26日 17時08分51秒 | 日々感じたこととか



◆資本主義と社会主義の収斂

2010年現在の「左翼」の定義(事物定義)に進みたいと思います(★)。ポイントは「時代の変化-グローバル化の昂進」にともない左翼も、よって、「左翼」の語義も変貌を遂げているということ。

日本では世界金融危機を契機に、「2008年の世界金融危機によって、規制撤廃と市場万能論を基盤にした新自由主義の誤謬が明らかになった」と説く論者が跋扈しています。而して、このような主張は「交通事故の悲惨を鑑みれば自動車文明の誤謬は明らかだ」という主張と大差のない論理の飛躍であろうと思います。

蓋し、「独占」を排除するための独占禁止法体系や雇用者と被雇用者の力関係を対等にして健全で持続可能な労使関係を具現するための労働法体系が、資本主義を維持する上でも肝要な制度である如く、「投機的な金融取引」や「実需とあまりにも乖離した金融商品」を規制することは、資本主義、就中、自由で公平な競争に価値を置く新自由主義と矛盾しないどころか、むしろ(労働法的な働く者の権利の具現に貢献する「健全な労働組合」が新自由主義の戦友でさえあるように、そのような規制は)新自由主義的制度の不可欠の一斑と言うべきだと思います。

独占禁止法や労働法や金融規制によって資本主義は社会主義化するのではなく、益々、力強く新自由主義化への歩を進める。そう私は理解しています。蓋し、「市場万能論に立った新自由主義は弱肉強食の経済を志向するものであり、国内外で格差を拡大する」等のオドロオドロしい主張は、完全に間違いというわけではなく現象の一部面を正しく指摘している認識ではある。しかし、新自由主義的経済の帰結たる格差や貧困の解消は経済の社会主義化によってではなく、セフティーネットの整備に基づく敗者復活可能な「新自由主義的-保守主義的」な社会の具現によって(自己責任の原則が貫徹する社会における個人と民間の旺盛な活力の発露の中で)解決されるしかないと私は考えます。    

畢竟、「過度な競争や強欲な活動」を制限する仕組みによって資本主義社会を「より人間と自然に優しいし経済活動が機能する舞台」にできるとの考えは、意識改革とその制度改革によって(現状の技術水準に基づく生産力と資本主義的生産関係を維持したまま)社会主義を実現できるとする「空想的社会主義」に他ならない。蓋し、マルクス『資本論』(1867年-1894年)が喝破した如く、

「主要な生産が商品生産」として行なわれ、「人と人の関係が商品と商品の関係に物象化」する、而して、「商品の価値が(個々の商品の個性差に起因する)その使用価値とは別に(諸商品の使用価値の表示がその使用価値である「貨幣商品」によって均一な基準で測定される)交換価値の形態」として立ち現われる資本主義社会は、「商品生産と交換に基づく利潤獲得プロセス」の再生産というその運動法則自体を止揚しない限り社会主義や共産主義が支配する社会に移行することはあり得ない。


そして、マルクス主義経済学が予想したようには、この資本主義の運動法則が当分終焉を迎えることがないことも確実でしょうから。しかし、マルクス主義経済学と社会主義体制の崩壊は左翼思想がすべて反古になったことを意味しない。逆に言えば、(労働価値説と史的唯物論を世界中のほぼすべての左翼が「法則」ではなく「仮説=思考枠組み」に過ぎないことを認めている現在)フリードマン、ハイエク、シュンペーター、セン等々、文字通り左右の多様な方向からその理論と政策への批判は喧しいものの、国家権力の財政・金融への容喙を推奨するケインズ経済政策のプラットフォームの上に世界のほぼ全ての国は乗っているのであり、世界中の国の政府は(純粋な資本主義経済下の政府ではないという意味では)すべて社会主義政権と言っても間違いではないのです。蓋し、社会主義体制が崩壊した現下の世界は、資本主義と社会主義の収斂化の第二段階にあると見るべきなの、鴨。


収斂化。社会主義諸国の市場経済導入と(所有権の不可侵・契約自由の原則・過失責任の原則の三原則の修正をともなう)資本主義諸国の社会福祉政策導入の同時進行という、社会主義崩壊に先んじて始まったこの傾向は現在もその歩みを止めてはいません。畢竟、収斂化と現下のグローバル化の昂進は地続きなのです。

蓋し、(ⅰ)第二次世界大戦後、信仰においては最も保守的で内政においては最もリベラルと言われたカーター大統領が信仰に関する寛容政策を継続せざるを得ず、また、1978年の年頭教書演説では「政府ができることは限られているから、国民は政府に期待しすぎることなく自分の生活は自分で守らなければならない」と保守主義者よろしくアメリカ国民に訴えたこと、逆に、(ⅱ)「左翼-リベラル」が跋扈する日本のマスメディアでは、「吉良上野介」「梶原景時」の如き保守の敵役と取られる向きもあったジョンソン大統領(民主党)とニクソン大統領(共和党)の政権下で、(すなわち、1963年-1974年の期間、現在次々とそれに対する違憲判決が連邦最高裁判所で出されている)所謂「アファーマティブアクション」(人種・性別、性的嗜好性等々に基づく現在に至る差別状態の解消には、単に今後の差別の禁止だけでなく、現在のマイナスの状態に対する「埋め合わせが措置=逆差別!」が必要とする暴論)が粛々と実行されたことを鑑みても、グローバル化の胎動を背景にして社会主義と資本主義の収斂化にともない、先進資本主義国の国内においては「左翼-リベラル」と保守主義の収斂化もまた進んでいたと言えるのだと思います。

★註:定義論-定義することの定義

英米流の分析哲学は、語を定義するという言語行為を、大きくは、「辞書的定義」「規約定義」「事物定義=語の経験分析」の三者に区別します。要は、その語彙が世間ではこのような意味で使用されてきたという情報提供、私はこの語彙をこれこれの意味で使用するという宣言、そして、過去の経験に基づきその語彙を巡り人々が連想する事態や事物の範囲や属性、構造や機能に関する陳述の三者を「語の定義」と考えるということ。

而して、例えば、「左翼」や「保守主義」という言葉に関して、ある論者が自己の語義を明示するのならば、その規約定義の内容を他者からとやかく言われる筋合いはなく、どの言葉をどんな意味で使用しようも原則自由であろうと思います。しかし、彼や彼女がその議論や意思伝達をよりノイズの少ないものに、より生産的にしたいと欲する場合、彼や彼女は自己の「左翼」の定義を一般的に使用されている「語義≒辞書的定義」に合わせるか、または、「左翼」という言葉で通常イメージされる諸々の事象に共通な本質的要素(その要素を欠けば最早そのsomethingは「左翼的事柄」ではなくなると感じられる要素)を可能な限りその定義に盛り込むか、あるいは、その両方を選択すべきでしょう。更には、彼や彼女がより専門的な議論を遂行したいと考えるならば、その定義は専門家コミュニティテーで慣習的に成立している語義と親和性のあるもでなければ彼や彼女の意図は十全には達せられないと思います。尚、「左翼」の辞書的定義に関しては下記拙稿をご参照ください。    


・保守主義とは何か(1)
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-474.html



◆「左翼」の変貌とマルクス主義の価値の不変

社会主義の崩壊以降、否、実は、(A1)バベルク(1851年~1914年)による「マルクスの価値論=循環論法」批判以来、左翼教条の核心たる「剰余価値学説」(商品の価値の源泉は労働であり、その労働を使用価値とする「労働力商品≒労働者」を資本側は合法的に搾取して資本を増殖させているという主張)は単なる「思考の枠組み=作業仮説」の類にすぎず「法則」などではないことは明らかです。他方、(A2)カール・ポパー『歴史主義の貧困』(1957年)により、左翼教条のもう一つの主柱「唯物史観」も「法則」などではなく単なる歴史を見る一つのパラダイムにすぎないことが論定されている。

加えて、(B1)左翼にとって、資本主義終焉の必然性を説く(ほとんど唯一の)論拠であった、資本の有機的構成比の高度化の予想(要は、市場での競争を見据えた場合、資本の再生産過程で機械等々に振り向けられる資本比率が漸次高まり、「労働力商品の購買=賃金」に振り向けられる比率は逓減していく。よって、早晩、人口のより多くの部分がプロレタリアートへ転落し、かつ、プロレタリアート全体の窮乏化が惹起するという予想)は歴史的に見事に「外れ!」たこと。他方、(B2)ヘクシャー・オリーンの定理(「自由貿易が貫徹されれば、生産要素価格(=賃金率・地代・利子率)は世界中でいずれ同一になる」という証明)は些か机上の空論であるにせよ数学的には正しい。つまり、所謂「従属理論」(先進国の経済的繁栄は後進国の遅れた、そして、先進国によって歪に偏らされた産業構造の犠牲の上に維持されているという主張)には経済史的な仮説を超える意味はなく、先進資本主義国の帝国主義への移行の必然性を説いたレーニンの『帝国主義論-資本主義の最高の段階としての帝国主義』(1917年)の近未来予測は完全に間違っている。

畢竟、現在の左翼は(それが、仲間内で「籠城する城内の宴」に興じるマニアックな輩ではなくて、先進国において政権を狙う野心を抱くほどのものならば)これら二つの教条と二つの神託とは無縁な、「理論的には無害化-政治的には塹壕戦の準備万端した」ものと捉えるべきなのです。

ことほど左様に、現下の左翼は、(少なくとも、仲間内以外に対しては)「疎外-物象化-物神性」「国家の死滅」「帝国主義-民族解放路線」「「上部構造-下部構造」の階層的な社会と歴史の認識」「政治的国家と市民社会の分裂」等々の用語を思考枠組みとしてしか使用していない。ならば、計画経済と生産手段の国有化を放棄して塹壕に籠もる左翼に対して、これらの点に着目してする単純なハイエク流の「左翼=全体主義」「左翼=設計主義的合理主義」批判もそう大して有効ではないの、鴨。   


他方、モンテスキュー『ペルシア人の手紙』(1721年)の先駆例を見るまでもなく「所変われば品変わる」式の思考は鬼面人を驚かせるような際物ではなく中庸を得たもの、蓋し、物質的な諸条件に規定されるものとしての社会という、マルクス=エンゲルスが『経済哲学草稿』『ドイツ・イデオロギー』(1843年―1845年, 1845年-1846年)で定式化した思考枠組みは、左右を問わず現在の社会認識の共有財産と言ってよいでしょう。

而して、マルクスの、労働価値説とは無関係に成立可能な価値形態論(ある商品の使用価値の量で測られる別の商品の使用価値としての交換価値)や「労働と生産の社会性の反映としての資本=社会的労働による資本の生産」というアイデア、更には、「資本の無計画な無限増殖プロセス」という資本主義の規定性から演繹される資本主義の問題点の指摘等々もまた現在では左右を問わず使用されている人類の知的共有財産であろうと思います。

要は、「マルクス侮り難し」であり、かつ、左翼は昔の左翼ならずということ。ならば、左翼に対する伝統的な批判を(例えば、「左翼=全体主義」批判を)現在の左翼に浴びせ掛けても所謂「蛙の顔に小便」なのかもしれません。


<続く>



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