英語と書評 de 海馬之玄関

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<新版>サンフランシスコ平和条約第11条における「the judgments」の意味(下)

2011年12月18日 20時25分19秒 | 日々感じたこととか

== 承前 ==

日本は東京裁判を受諾したのだから、つまり、「日本は東京裁判で示された歴史認識や大東亜戦争前の政治体制への否定的評価を受け入れた」のだから、(同条約を将来に向かって、破棄でもしない限り)

その歴史的と政治的な認識の枠組みに日本の政治は今後も拘束される。よって、所謂「A級戦犯」が合祀されている靖国神社に時の首相が参拝するとか、日本の戦争責任を相対化するような記述を含んだ歴史教科書が公教育の場で使用されるという事態は(単に道義的に問題があるだけでなく)、サンフランシスコ平和条約に反することだ


とかなんとかの主張が、朝日新聞を始めとする戦後民主主義を信奉する勢力から繰り返されてはいます。不埒な話です。

なぜならば、繰り返しますが、「日中戦争&大東亜戦争=侵略戦争」「戦前の日本=軍国主義の悪の帝国」等々の歴史認識などは、サンフランシスコ平和条約どころかどのような国際法も正当化できない法による規制が不可能な内容であろうからです。そのような内容は、事実の世界で反証可能性を帯びることはなく、他方、規範・価値の世界でそのような内容を孕む規範が法としての効力を帯びる根拠もまた皆無でしょうから。

要は、そのような世界観・歴史観・歴史認識が編み込まれていると称する規範は、それを見たい人、すなわち、大東亜戦争後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する左翼・リベラル派にのみ見える「裸の王様の衣装」でしかない。法概念論の現在の地平からはそう断言できる。そう私は考えます。

而して、ならば、サンフランシスコ平和条約11条の「judgments」を「裁判」と訳するか「諸判決」と訳するかなどは、法的には本来トリヴィアルな事柄にすぎない。しかし、(昔から言うではないですか、「嘘も100回言えば本当になる」、と。よって、)朝日新聞等の不埒な言説を見過ごすわけにもいかない。

政治的には残念ながらそう言わざるを得ない、鴨。100回言えば嘘も本当になる。この経緯を法哲学では「事実の規範力」と難しげに表現するのですが、この経緯は、残念ながら政治の、就中、国際政治の世界では真理・鉄則でもありましょうから。

ならば、同条約11条を検討することは(学的な価値がゼロに近くとも)、政治の営みを少しでも合理的にするためには(「どこまでは理詰めの討議を経た妥協が可能」であり、「どこからは妥協不可能なイデオロギーの告白合戦」になるかの線引きをするためにも)無駄ではない、鴨。





◆the judgments は「裁判」か「判決」か?

サンフランシスコ平和条約11条の第1センテンスの英文を
再度見てみましょう。これです。

Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan, and will carry out the sentences imposed thereby upon Japanese nationals imprisoned in Japan.


(日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする)   

英文解釈上のポイントは「judgments」に定冠詞の theがついていること。そう、この「judgments」はどこにでも落ちている一般的で不特定な「judgments」ではなく、ある特定の「the judgments」なのです。ではどう特定されているのでしょうか。 

英語では、機能英文法的に言えば(the Pacific Ocean などの固有名詞や Shall I play the piano? のような場合を除き、)コミュニケーションの当事者がそれについてあらかじめ共通の認識を持ってはいないコンテクストで(尚、契約書や条約などはこの前提で書かれた文章の典型ですよ。)ある名詞が「定冠詞+名詞」になるケースは次の三つしかありません。

①常識として「この・・・は他のどこにでもある・・・ではなく、あの・・・だ」という認識が成立しているケース、②その言明のどこかでその名詞についてはすでに話題にされていて、「この・・・は、ほら前に話題にしたあの・・・ですよ」というケース、そして、③当該の名詞の直後にその名詞を具体的に特定する情報が提供されるケースの三者です。


例を挙げておきましょう。

①常識が特定するケース
The (Last) Judgment(最後の審判)

②事前に特定されているケース
It seems Mr. Koizumi has formed a judgment on his worship to Yasukuni Shrine.
The judgment will become known in the very near future.
(小泉さんは靖国神社参拝についての考えを既にまとめてしまったようだ。
 そして、近々、その判断の内容は明らかになることだろう)

③直後に特定されるケース
It's the judgment of this court that Prime Minister’s worship to Yasukuni Shrine
does not violate the constitution at all.
(首相の靖国神社参拝は憲法に豪も違反しないというのが当法廷の判断です)  





而して、サンフランシスコ平和条約11条の「the judgments」が①「常識が特定するケース」に当てはまらないことは明らか。常識として誰もが念頭に浮かべる特定の「the judgments」などは、あの「最後の審判」以外ありえないからです(ちなみに、この場合でも、「最後の審判」が、例えば、国籍・性別・宗教・財産等々によって分けられるグループ毎に行われるとか、あるいは、三審制で行われるとかでもない限り複数形の「the judgments」になることはありません)。

では、11条の「the judgments」は②と③のどちらのケースなのでしょうか。

実は、この問いに答えることもそう難しくはありません。なぜならば、11条の第1センテンスを除けばサンフランシスコ平和条約全体(前文+7章全27条)のどこにも「judgments」や「judgment」は存在しないからです。よって(通常の英文解釈の手法からは)、11条の「the judgments」は③の「直後に特定されるケース」ということにならざるを得ないのです。

ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿





蓋し、11条の「judgments」に定冠詞の the がついているのは、直後に「of the International Military Tribunal ・・・both within and outside Japan」という形容詞句によって特定されているから。ならば、11条の「judgments」は、渡部昇一さんがいみじくも指摘された通り「具体的な複数の諸判決・諸裁判」以外ではありえない。つまり、それは、日本に法的な戦争責任を未来永劫課す根拠となるようなある特定の歴史認識を含む<裁判>なるものではないのです。

簡単な話。「judgment」を普通の英和辞典で引けば「裁判」「判決」「審査」など幾つもの意味が列挙されているでしょう。しかし、法律用語としての「judgment」は、通常は「裁判所たる裁判官の判断」であり、逆に言えば、それが「裁判所たる裁判官の判断」である限り、「judgment」を「裁判」と呼ぶか「判決」と呼ぶかはかなりの程度に論者の自由なのです(よって、例えば、日本の刑事訴訟法(43条~45条)の用語法に従い、「裁判」を「判決」「決定」「命令」を含むより上位の概念と捉えるのも、それらがすべて「裁判所たる裁判官の判断」である以上この理路と矛盾するわけではありません)。

ちなみに、「第二次世界大戦を裁いた戦争犯罪法廷は「判決」のみならず「決定」も「命令」も出していたのだから、11条の「judgments」は「判決としてのjudgments」を含むより抽象度の高い「裁判」と解すべきだ」という指摘は、(国際条約の用語法と無縁とは言わないけれど関連性に乏しい)我が国の刑事訴訟法の用語法からの類推を述べた、一種のと言うか、ある意味、典型的な床屋談義であり、この論点に関して特に大した根拠にはならないと考えるべきです。閑話休題。



畢竟、「judgment」を「裁判」と訳そうが「判決」と訳そうが大差はなく、蓋し、11条における「the judgments=裁判」認識は左翼・リベラル派の歴史認識をサポート、若しくは、日本の戦争責任なるものを法的に規定するようなものでもないのです。

而して、朝日新聞などが、ここで述べたような、法律用語たる「judgment」に対して通常の英文解釈の作法に従って得られる語義を否定したいのならば、(国連憲章等の他の国際法規範には根拠は存在しませんから)同条約の中にあるそれなりの解釈根拠を提示しなければならないだろう。けれども、上述の如く、同条約の中には「judgment」を具体的な「判決」や個々の「裁判」とは異なる、<裁判>なるものと解釈する余地は皆無なのです。

尚、言葉の定義を巡る私の基本的な理解については下記拙稿を参照いただければ嬉しいです。



・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11142140756.html


蓋し、他国の大統領とはいえ、一国の指導者にこれ以上、恥をかかせるようなことは隣国としてはするべきではない。それは心苦しい。ならば、日韓関係を可及的速やかにその「罪作りな状態」から救い出さなければならないでしょう。

而して、その方途は機会ある毎にどこまでもどこまでも限りなく論理と道理を韓国側に訴えるのみ。例えば、所謂「従軍慰安婦」問題に対するゼロ回答等はその好例、鴨。そして、サンフランシスコ条約11条に纏わり付いている左翼・リベラル派の(残念ながら渡部さんを含む保守派にも時に見られないではない、、「条約や裁判は、ある特殊な歴史認識・歴史観・世界観をある法規範の内容として定立することができる」とする)トンデモな法概念論、加之、その法概念論を基盤とした法解釈を払拭・治療することは機会を好機に変えるための、保守派にとっての橋頭堡になり得るもの、鴨。

いずれにせよ、畢竟、前進あるのみ、と。
そう私は考えます。








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