昔、アラブの偉いお坊さんが、じゃなかった。昔、東京大学の偉い憲法の先生が、「その出版物が猥褻物かどうかを基準にして、行政や警察の取締りが違憲であるか合憲であるかを区別するなどというのは論外だ! 何故なら、最大の(?)猥褻物は男にとっての女であり、女にとっての男だからだ」、とおっしゃいました。彼と私の憲法理解のスタンスはかなり異なっているけれど、昔から私は結構この大先生好きです。そう。憲法擁護のなんたらの会のメンバーでもある奥平康弘氏。
私はAV自体には反対ではないですがAVの販売規制には賛成です。昨今の少年犯罪の数と質を見るにつけ、あるいは、人身売買の横行(特に10歳未満の少女や少年をビデオ撮影するために国内外で行われる人身売買の現状)を聞くにつけAV規制やむなしの感を最近一層深くしています。まさか、パブロフの犬じゃあるまいに、AVを規制すれば少年犯罪や性犯罪が激減するとは思いませんけれど、性規範のありようを社会として示すことは必要だと思うからです。
では、というか、それにしても、いったいAVとは何なのか? ここではこれを考えてみます。興味本位でもヒット数狙いでもなく、表現とメディアを考える上では性表現の問題は避けるべきでもないし避けることもできないと思うからです。ここでの考察は(このブログを訪問してくださった、特に女性の「あなた」への言い訳でも予防線でもなく)、英語教育や広く言語教育の問題にもいずれ結びつくことを私は確信しています。
さて、性行為が映像作品の中に収録されているもの:「本番映像」というのは昔からありましたが、それらは極めてマイナーで日陰の作品でした。これは日本だけでなく実は欧米でも第二次世界大戦終了後しばらくはそうです。また、本当は「本番」を物理的にしていた作品は日活・東映でも少なからずあったのですが、もちろん、「本番」と銘打って上映されてはいませんでした。日本では1970年代半ばに、愛染恭子さん主演の『白昼夢』がメジャーでは最初だったと記憶しています。
建前にせよ性行為そのものではなくストーリーを<堪能>するための作品から離れ、ずばり性行為を<鑑賞>する作品が1980年代に入ると登場しました。その次は、「こんな可愛い娘がアダルトビデオに出るの」路線や「こんな普通の娘(?)がビデオに出るの」路線(笑)。しかし、1980年代末に差し掛かると、それらの路線も壁に当たる(要は、それらは、素人のそのまんまの姿を撮影記録しただけのものであり)、現実の中高生の性意識にAVの表現水準が逆に追い越されたというのが実情でしょう。投稿SM雑誌に掲載される屋外での淫靡猥褻かつ冒険的で小気味よいほど実験的な行為が、ごく普通の若者の日常になっていったのもちょうどこの頃の現象だったと思います。日常的なものを高い金を出してわざわざ買う人は少ないという当たり前の状況が起こったのです。
この時、今に至るAV界の思想水準(何を顧客に提供したいの? それは今までのものとどう違うの?)につながる作品が登場します。その象徴が黒木香君と菊池エリさん松本コンチータさん。それはつまり、「完全に男性の性欲の対象として女性を描ききってみよう」というシンプルな主張を映像化したものだったと思います。端的には、女性の物象化であり交換可能で消費可能な記号としての女性という、AVとAV女優の再定義が打ち出されたと言えるかもしれません。現在に続く、援助交際が極特殊な<不良少女>の特権ではなくなり、極普通の中高生に広がりだしたのとこの路線とその諸作品は(共犯関係とまでは言わないけれど)明らかに相関関係はあると私は思っています。
90年代半ばにかけてこの路線から現在に続く所謂企画ものとAV女優の実際の経歴と個性を売り物にした作品、あるいは、それらが併用された路線が生じ確立しました。顔射ものスカトロもの縛りもの、不倫ものレイプもの熟女ものロリータものナンパものが前者であり、後者の代表としては日本的な私小説の伝統に近い幾つかの女優さんを通過して、桜木ルイさん白石ひとみさん田村香織さん夕樹舞子さんなんかがこの時代を代表していると思います。
では、90年代半ばからのこの10年で何が変わったのか? これは難しい問題ですが、思うにAVと世間の性意識の境界が完全になくなったというのがポイントだと思います。要は、性的なものが持ついかがわしくも艶っぽいインパクトがAVからなくなり、料理やゴルフのレッスンビデオ、あるいは、PCスキルやビジネススキル習得ものスポーツもののビデオとAVのとの<迫力の差>が完全になくなったのではないかということです。
文字通り現在のAVは二流アイドルのコンサートビデオとなんら変わらない。唄っているか性行為しているかだけの違いしかない。そこでは消費者は自分の好みにあった女優さんと好みのプレーというx軸とy軸のマトリックスに基づいて購入する商品を選ぶだけであり、正に、AVを消費する者にすぎない。小泉キラリくん、早坂ひとみくん、及川奈央くんなど10年といわず5年前であれば<記憶に残る作品>を演じる才能のある女優さんだと思うのですが、現在では最早、本当に消費財の原材料にしかすぎない。
この世間の日常や意識とAVの境界の消失や揺らぎという現象は、ある種際物のAVだけではなくTVドラマや小説にも言えることかもしれません。そうなった場合、AVという範疇は(ということはTVドラマや小説という範疇も!)最早現前の現象を考える上であまり有効な指標ではなくなるでしょう。<迫力差>がなくなるに伴いカテゴリーの差異も消失して、ジャンルの差異だけが残るようになったということでしょうか。
どんな意味でも感動を与える作品では最早なくなったAVは、単なる情報媒体として<女性を性行為の対象と見なす視点>を社会に再生産していくものにすぎない。かたや、カテゴリーとしての独立にあくまでもこだわるAVはそれはそれで端的に違法なロリータものや暴力ものに移行している。後者は完全な犯罪であり論外ではありますが、社会に与える実害は前者の方が大きいし根が深いかもしれません。それは性規範どころか法規範の効力をも掘り崩してしまいかねないからです。
AVはその歴史の最初から前者の機能を間違いなく持っていたのでしょうが、それ以外のメッセージも数年前までは発信していた、そのメッセージ性をなくしたAVは<女性を性行為の対象と見なす視点>を供給するだけの情報媒体にすぎなくなるのは当然でしょう。しかし、いずれにせよどちらが原因でどちらが結果かという難しい話は置いておくとしても迷惑な話です。AVというカテゴリーの崩壊が社会規範の崩壊と同時に起こっているのですから。
アメリカでは一流のモデルさんを目指す野心ある女性がスキンマグ系のビデオ(日本で言うAV)に出ることはあるが、一流の映画女優を目指す女性はあんまりAVには出ない(誤解なきように、彼女達は遠慮なく躊躇なく映像の中で「本番」していますよ!)。つまり、AVというジャンルは本格的演技を盛るには窮屈すぎるのです。ならば、本当のストリーテラリングの力を持った監督とそのストーリーを演じる資質を持った女優が登場しない限りこれからAVはジャンルとしてさえ生き残ることはできないのではないか。そして、そのようなジャンルとしてさえ他と識別できないAVを最早AVというカテゴリーに含める意味はあまりないと思います。ならば、日本の映像制作業界に求められる資質は、これまた、小説やマンガの業界で求められているものと同じなのだと私は考えます。そう、人をして感動させる作品を<豊饒なる虚構のストーリ>の上につくる才能です。
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