愛知県大会には、16校がシード。
一回戦を免除される。
はたして、このシードという制度が、学生スポーツにいかなる意味を持つのかと思う。
例えば、昨日、延長戦ののち、PKで勝ち進んだチームは、今日の第2戦までのインターバルは
20時間。
対して、対戦相手は、シードで、体力的にフレッシュ。
これで、果たして、フェアな戦いだろうか。
プロスポーツなら、興行的な理由で、実力と人気のあるチームが残らなくてはならないと理解する。
しかし、高校スポーツは違う。
強いチームを優遇しようというのは、”勝利至上主義”に基づいてはいないだろうか。
先日、授業参観に行って、英語の授業を見ながら感じたのは、変わらない学校だった。
それは、暗く、重く、まったくもって、学校の都合で抑制された生徒の姿だった。
高校生は、当たり前だが、初めての高校生活であり、初めての高校3年生である。
受け入れざるを得ない現実以上の何かを感じることは物理的に不可能である。
アインシュタインの相対理論をもってしてもくつがえせない厳しい現実である。
そのような弱き存在の学生たちに大人たちが与えることができる少ないギフトがある。
それは、社会の在り方。
公平、公正、平等である。
当事者である若者がこれを実現しようとすれば、それは闘争になる。
無意味で無味で乾燥した世代を分裂する闘争になる。
公平、平等というのは、勝ち取るものではなくて、大人から子供へ引き継ぐべきものだと思う。