小学生のころ、なんせ田舎の遊びといえば、稲刈りあとの田んぼで、野球であった。
他に選択肢など無かった。
そして児童公園ができ、でこぼこのないグラウンドへ場所が移った。実家の真裏の埋め立て地。
下手だったのでミスすると罵倒された。悔しくて泣いて帰っても、また連れ戻された。人数合わせの
ため。野球は嫌いになっていた。
5年生になると、クラスでチームができた。ライトで8番。第二リリーフピッチャーでコントロールの良さ
には定評があった。対戦相手は6年生。何度も挑んだが、結局、一勝もできなかった。クラスはとても
まとまっていたし、このころは、野球に対して、情熱を感じていた。
しかし、団体スポーツは、いつでも、「誰かのせいで負ける」というネガティブな側面を持っている。
親戚のおばさんから
「あんたには個人競技が向いてるかもしれん」
そう言われて、腑に落ちた。勝っても負けても自分の責任。
中学では、「エースをねらえ」であこがれていたテニス部の門をたたくことになる。
高校は地元の強豪校の一角だった。身体が丈夫ではかなったので、母は止めたが、テニスで勝つことへの憧れ
をあきらめなかった。
現在は、廃校となってしまった。
福島投手の本を読んで、高校のころを思い出した。なんとなくその場所に行ってみた。
毎日、自転車で、15分、坂を登り続けた先にある。テニスコートは荒れていた。
正門。
OBが熱心に指導して下さった。インターハイ出場が目標で、それができる環境だった。
しかし、そういったものがうっとうしく感じられてきた。
2年生になった春、最も仲の良かった友人がチームを去った。
その友人と人生初となるロックバンドを組んだ。練習は休みがちとなった。
ある日、コーチに呼び出された。厳しい人、怖い人だったので、覚悟した。しかし、意に反して
その言葉は優しかった。
「他にやりたいことがあるのなら、それは否定しない。しかし、テニスはこのまま中途半端で終わって
それで良いのか、考えてみてくれ。」
それから復帰した。勝ちたいと思う気持ちにはなんらの曇りもなかった。しかし、技術も体力もついていかない。
また、試合勘みたいなものがすっかり落ちてしまっていた。
高校最後の大会も不完全燃焼のまま、県大会にも出れなかった。
この経験に後悔は無い。今でも、テニスもバンドもやれているのは、この高校生活があったからだ。
しかし、自分がサボっている間も、厳しい練習を続けていたチームメイト、そして、情熱的に指導して下さった
OBの方々を裏切ったという心の荷物を、未だ下ろせないでいる。
ここへ来るたび、心の置きどころをなくしてしまう。深い孤独感におそわれる。
しかし、来ずにはいられない。自分でもよくわからない。
ただ、それは、青春時代の懐かしい、さわやかな思い出ではないことだけは確かである。