快風丸

俺の船に乗らないか。

しばらくしてからやること

2012-08-29 23:04:11 | Weblog

 さて、年に一度のお祭りが終わり、一息。

そして、もうひと仕事。

LIVEのDVDを焼き増しします。

あと、MCを切って編集した、「ウォークマンで繰り返し聞く」ためのCDを作ります。

もうひとつ、歌詞カードを作ります。

これ、セットにして、欲しい人に上げます。お代は頂きません。

ただ、なんでも良いので、どんな方法でも良いので、何か感想など聞かせてください。

なんせ、ライブは、年に一度ですから。

 一度だけ聞いて、よくわからなかったとしても、何度か聞いて頂ければ、また、歌詞の内容がはっきり

わかれば、初見とは違った感想があるかもしれません。

創作は、すべからく、発表して、世に問うて、そして、受け手よりフィードバックを頂いて、完成するもの

だと思います。

 メール下されば、郵送します。

よろしくお願いします。


終わってからすぐにすること

2012-08-28 23:54:29 | Weblog

 まずは、打ち上げ。

以前は、ベーシスト宅で、朝までDVDをプレイバックしながら、何度も見ながら、朝まで飲んだくれてました。

ここ3年くらいは、会場近くの居酒屋で、終電の前には終わっている。大人になった。

 ボーカリストは、孤独だ。いつもいちばん前にいて、客席に向かっている。前線。フロントライン。

自分より後ろのステージ上で何が起こっているとかわからないし、客席も前からライトが当たっているので、

よく見えないのだ。暗闇の中を突っ走る暴走超特急なのだ。

 なので、打ち上げで、メンバーにいろいろ聞くと、面白い。

「MCが、後ろのほうで聞いてた次のバンドのメンバーにウケてた。」とか

「〇〇の曲のイントロでミスった。」とか。

 

 いつもビデオを撮ってくれている i 君、「5人目のファナーズ」と呼ばれている。

今年のポスター、曲目が印刷されているのだが、実は、曲順を変更した。 i 君はもしかしたら、演奏後に

そのことを指摘するんじゃないか、いや、そこまで気付かないだろうと目されていた。

 しかし、彼は、打ち上げの席で、見事、曲順の違いを指摘した。おどろいた。

 

 そして、かみさんの実家で、シャワーして、DVDを見ながら「ありがとうメール」を打って、長い1日が終わる。

いや、マリーアンドファナーズの長い長い1年が締めくくられるのである。


演奏以外のこと

2012-08-26 23:20:45 | Weblog

 毎度のポスターは、ササ氏が、知人のデザイナーに特別友情価格で依頼して作成してもらっている。

まず、このキャッチコピーを考える。

今年の場合、「君が金メダルなら、僕は銀メダルでいいよ」。

オリンピック・イヤーですからね。ちょっと緩めのチューニングをしました。

 

 出囃子を決める。これも毎年、考えています。歌のないインストで、ロック的でないモノと決めています。

今年は、初めて、メンバーに3曲の中から選んでもらいました。ペンギンカフェ・オーケストラになりました。

過去には、コクトーツインズ、ツール・ド・フランス(クラフトワーク)、ブルガリアンボイスなど。

 去年の「七人の侍のテーマ」は我ながら傑作だと自負しています。クロサワの映画音楽集を聞いたのですが、

素晴らしい曲ばかりでした。音楽だけを切り取っても、十分に成立するほど、クロサワ映画のクオリティの高さ

の証明だと思いました。

 毎年、けっこう楽しんで決めています。

 

 そして、MC。そもそも、ロックバンドが、舞台の上で軽薄な軽口をたたくなど言語道断と思ってました。

カッコつけて、これでもかというほどキザでクールにキメる、ロックってそういうもんだろ、と思ってました。

また、そういうステージ態度のバンドが好きでした。

 でも、メンバーは、しゃべらせたがる。抵抗する。せめて曲名を紹介しようと言われて、

「お稽古の発表会じゃあるまいし」と反発していた。

 しかし、来て頂いたお客さんのためと説得され続け、そんなカッコわるいことしないと反発し続けた。

 

 ある日、折れることにした。MCなしで、クールにキメて受け入れられるのは、スターの特権だと気が付いた。

お客との関係性のこと。半ば、義理で見に来たアマチュアのしかも初めて見るバンドに、舞台の上から

無愛想にされたのでは、よほど達観した人物、例えば、社長経験者とか、校長先生とか、僧侶とかでないと

楽しんで見ることは難しいであろう。

もちろん、そんな客は来ないわけで、同僚とか、友人の類に、お盆の忙しい中、なものですから。

 MCがカッコ悪いのなら、カッコ良いMCをすれば良いと思いなおした。

毎年、ネタを仕込んでいる。だんだんこなれてきて、最近は、MCというより、漫談に近くなっている。

 ウケるとうれしい。メンバーも楽しみにしてくれている。実は、密かに、漫談のLIVEもやりたいと思っている。

 

 人間は、変わっていかなくてはならないと思っている。そうしないとダメ、ではないのだけど、そうした方が

エンターテイメントとして幅が出るし、楽しいからだ。

 

 演奏以外でも、LIVEって、本当に楽しい。


編曲するということ

2012-08-25 18:44:48 | Weblog

 音楽にまつわるデスクワークの中では、これがいちばん楽しい。

作曲した「曲」というのは、素材であって、メロディー、コード、詞が決まっている程度のもので、

ギターで弾き語りができる程度の完成度なのです。

 そこから、バンドでどのように演奏するのかを決める作業が、編曲です。アレンジ。

 

 まったく、料理と同じで、その素材をいかに生かして、おいしいメニューとして提供できるか。

拍子は? 速さは? どの楽器をどう鳴らす? 2本のギターの振り分けは?

 この作業で、楽しい曲が、より楽しくなったり、また、悲しい歌詞が、少し抑えた表現になったり、

素材が、料理として出来上がってゆくのです。

 

 例えば、今回の新曲、「太陽」の場合、弾き語りしながら、イメージがふくらんでいきました。

田舎の未舗装の一本道を、夜明けとともに歩きだす感じ。

 具体的には、ビリージョエルの「Say good-bye to hollywood」とか、ザ・ブルーハーツの

「青空」の感じ。テンポは、ミドル。シンプルなギターカッティングを丁寧に弾く、そして、ギターソロは

あえて入れないことで、物語としての連続性を意識した曲にする。

 

 さて、デスクワークとしての編曲は、このあたりまで。MTRで作り込みたいところだが、正直、時間が

それを許さないというのが昨今の事情である。

 で、この状態で、スタジオでメンバーにお披露目。弾き語りして、こんなイメージと口頭で伝える。

バンドの初期には、ここからの作業がこなれていずに、時間がかかっていたのを思い出す。

ああしよう、こうしようという意見がまとまらなくなってくるワケです。

 

 ここで、マリーアンドファナーズは、ルールを作るワケです。結局、アレンジに関する堂々巡りは、バンド

にとって不毛な時間なのです。特に、この練習時間の限られた「遠距離恋愛バンド」にとって、致命的な

ロスとなりかねません。名付けて 「作曲者優先制度」。

 アレンジの最終決定権は、作曲した者が持つ、というシンプルなものです。シンプルであるからこそ、

これは有効に機能しています。

 

 さて、そうして、バンドで、演奏しながらアレンジしてゆくのです。

最近は、すっかりこの短時間で仕上げる感じに、皆が慣れてきたようで、まとまるのも早いです。

というか、そうせざるを得ない状況に良く順応していると言うべきかもしれません。

 

 例えば、ボーカルは、弾きながら歌うので、凝ったフレーズを弾けません。そこで、もうひとりのギターが、

高音のギターフレーズを絡めます。ドラマーとベースは連携して、リズムの綾を織っていきます。

ときどき、ハッとするような素晴らしいバッキングが聞こえてくるのです。震えますね。

これが、編曲の楽しさの本質です。

 信頼するメンバーが、曲を理解し、より良いものへと向上させていくわけです。この「曲が成長する」、

そんな感覚なのです。

 

 高校のとき、初めてバンドを組んで、スタジオの重いドアを開けたときの感触を今でも覚えている。

それが、今でも、スタジオのドアを開けるとき、蘇る。

 そう、スタジオの練習も、あのころと変わらず、とても新鮮なワクワクするような気持ちで入っています。

それが、新しい可能性の扉だから、なのかもしれません。


詞を書くということ

2012-08-25 02:36:47 | Weblog

 「詞ってどうやって書くのですか。」

マリーアンドファナーズの売りは、詞である。

いかに詞を聞かせるかが演奏の大前提であることはメンバーの共通認識である。

 

 前のベーシストが、詩を書く人だった。

マリーアンドファナーズの前身の「えせジャズバンド」のころ、ノートを見せてもらった。

たくさん詩を書いていた。

 「この詩に曲をつけてくれ。」

ある日、酔っぱらってスタジオに入ったとき、まさに酔狂で、この詩で即興演奏をした。

ボーカルは、ササ氏と交代で、このノートを見ながら、即興で歌い、ギターでリズムを決めて、

なんとなく全員で合わせる。

このときの演奏は、カセットテープに録ってあり、「狂気セッション」と仲間うちで呼んでいた。

ここから実際にレパートリーとして採用されたものもある。

’91年ごろだったと思うが、このころは、素面で練習なんかしたことが無かった。

楽しかったけど、後ろめたさの残る、あと味の悪い楽しさだった。

 このセッションを通じて、このベーシスト詩人のすごさを発見することになるのだ。

 

 「えせジャズ」からロックへと舵を切り始めたバンドは、クラブトンとか、サンハウス

などのコピーをやっていたが、マリーアンドファナーズのオリジナルは、こうやってスタートした。

 ギター、ササ氏は、多作だった。次から次へとノートの詩に曲を付けていった。

カセットMTRにリズムマシーン、ギター、ベース、ボーカルの入ったテープでもらっていた。

 自分も曲を付けてみた。いや、むしろ、詩が曲を要求するというか、すでに詩がメロディーとリズムを

持っていて、それを引き出すような作業だった。

不思議なことに、同じことをササ氏も言っている。

 

 

 さて、そして、自分でも詞を作りたいと思うようになる。

前ベーシストのは、曲にすることを前提としない文学としての詩であり、自分のは、曲に付ける「詞」である。

その詩があまりにも素晴らしいので、感化されたワケです。そもそも言葉による表現には得意意識があった。

 ギター・ササ氏は、この後もベーシスト詩をもとにヒット曲を連発する。

ライバル意識のようなものが目覚めてくる。

常に意識していたのは、ベーシスト詩に負けないクオリティーの詞ということ。

安易に体裁の良い言葉を並べたててコ゜ロ合わせをしたような陳腐なものでは、どうしても見劣り

してしまうだ。それでは、ライブ全体のなかで、バランスが悪くなってしまう。そうならないために、

詞のクオリティーということをいつも意識している。

 

 今回、初めて披露した「太陽」という曲ですが、この詞のコンセプトは、「ポジティブにいこう」。

このコンセプトに対して、「がんばろう」という言葉を用いてはダメ。

「お前もがんばれよ」と返されるのがオチだ。

聞き手を意識することである。

我々が、有名なロックスターだったら、歌詞なんかなんでも良いのだ。「がんばれ」と歌えば、

「がんばる」と返ってくるであろう。

もっと言えば、オーディエンスとの関係性の問題なのだ。

アマチュアのロックバンドと、半分義理で聞きに来たオーディエンス。なんという希薄な関係性で

あることか。では、どうやってこの関係をもっと深く、そしてその時間をお互い有意義なものへと

変質させるのかが問題なのである。

 

 では、具体的にどうするのか。

「もっと前向きにいこうよ」

と言いたいのであるが、そのままでは伝わらない。通じない。

そこで、たとえば、詞の中で、状況設定をします。

「太陽」の場合、まず、夜であることを設定します。

そして、「太陽が昇ったら、金色に輝く道を、あてもなく走り出せ、新しい旅をはじめよう。」

という、形を変えた「がんばろう」を示すわけです。

つまり、聞き手が、自発的に「がんばりたい」と思わせるわけです。この自発性を促すというのが大事

なのです。

 

 理屈で言うと、以上のようになるのです。

歌うのはこちら。勝手に歌います。感じるのは聞き手の方です。

勝手に歌いますが、その歌で、何かを感じて欲しいと思いを込めるのです。

これは、ボーカルだけでなく、マリーアンドファナーズの全員がそう思っています。

だから、一生懸命練習します。金にもならないことにいい大人が真剣に取り組むのです。

これを滑稽と笑うむきもありましよう。

しかし、ときどき

「あの歌、良かったよ」

と言って頂ける事があるのです。全てが報われます。ほんの少し、何かが伝わったという実感。

この経験のために、金をかけ、時間をかけ、疲れた身体に鞭を入れ、知恵と理屈を最大限に

絞り出すのです。

 

 こんなやりがいのある仕事はないと思っています。

 


曲をつくるということ

2012-08-23 20:08:55 | Weblog

 「曲ってどうやって作るのですか?」

うまく答えられない。

どちらかというと、作るというより「できる」ものだからだ。

習ったわけでも勉強したわけでもない。

 

 たとえば、シャワーを浴びているとき、自転車で走っているとき、洗濯物を干しているとき。

生活の中の、何気ないときに、フッと浮かんでくる。それは、短いメロディだったり、歌詞が同時

だったり、ギターのパッキング付きだったり、様々である。

 

 例えば、今回の新曲「太陽」の場合は、車を運転しているときだった。

「太陽が昇ったら」という詞と、それに続く4小節のメロディーが閃いた。

実はもう、3年も前のこと。それを何にも記録せずに、記憶にとどめて、ときどき思い出す。

記録しないのには、理由がある。そのフレーズの印象度の深さを測るためである。

自分ですぐに忘れてしまう程度のものは、他人なら、なおのこと、すぐに忘れるであろうと思うからだ。

自分の中でヒットしないものは、誰かに一度や二度聞いてもらっても、やはり心には響かないであろう

と想像する。

 ま、このような悠長な作り方ができるのも、発表機会が年に一度という環境のなせるワザでもある。

 

 そして、そこから膨らませて、一曲に仕上げてゆく。

この作業は、労力と根気を要する。とにかく、イメージする。その短い印象的なフレーズが、どのような

導入であったらより生きるのか、またどのようなメロディーがそれに続いて欲しいのか。

 ここでは、音楽知識ではなく、総合的なイメージ力がモノを言うのだと思う。スポーツの試合を見て

感動したこと、仕事の成功体験、面白かった映画、政治に対する怒り、逃げられない状況で感じている

焦燥感など。

そういった、直接、音楽とは関係のない経験が生きてくるのだと信じている。

 

 そして、過剰化。

こんなプロセスは、普通は無いのだと思う。

激しいものを表現したければ、より激しく感じさせるにはどうしたらよいか。どうしたらもっと悲しくなるのか。

この時点で自分がちょうど良いと感じる程度では、最終的には、バンド演奏というフィルターにかけることに

なるので、そのままオーディエンスには伝わらないと考えている。やりすぎかなと思えるくらいでちょうど良い

温度になるであろうと。

 

 そして、おおよそのアレンジもこの段階で作っている。

そして、一線譜にコードと詞を書き入れて完成とあいなるわけです。