辛い食べ物が好きだというと味のわからないヤツだと決めてかかられることがある。
はっきりしておきたいのは、辛い食べ物が食べたいと思う欲求とおいしいものが食べたい
という欲求は違うものであるということ。
辛いものは、べつにおいしくなくても構わない。おいしいものが辛い方が良いということもない。
まったく異なる価値観に基づく行動であると理解していただきたい。
先日、新しいインドカレー店でカレーを食べた。
ナンのおかわり自由、そして辛さが1~5、選べる。
4にした。
おいしかったが後悔した。
なぜ5にしなかったのかと。
カレーこそ、辛さを追及するべき食べ物だ。
カレーの辛さのステップは、また、大人の階段そのものであった。
幼児のころ、ハウスバーモントカレー甘口でカレーの味を知り、中辛、辛口、そして
ジャワカレー辛口の衝撃の辛さを小学校5年で辛さをやせ我慢して、「おいしい」とうそぶいてみせた
あのときこそ、大人の階段を息を切らせて登り始めた瞬間なのだ。
前置が長くなったが、なんとなく辛いものが食べたくなったのは、4辛のカレーに甘んじた敗北感
と無関係ではない。
小倉駅でお土産に買っためんべい辛口はほんとうに辛い。辛くておいしい。
しかし、それだけでは、インドカレーの雪辱をぬぐうには足りないと思われた。
ウィルキンソンEXTRADRYジンジャーエール。
これもまた辛い。
さあ、勇気を出して、もう一度大人の階段を3段飛ばしで駆け上がるのだ。
めんべい辛口をひとくちかじり、エクストラドライで流し込む。
辛い。
辛い。
また辛い。
深刻な辛さだ。
辛さの余韻は求めたものにたどり着くという幸せの具現化にほかならない。
”おいしい”とは別の方向にある、食べる幸せのお話でした。
CDプレーヤーに掛けると、エラーで読み込まなかったCD。
けっこう古いからなあ。
CDって丈夫そうだけど、メディアとして物理的にはあまり強くないらしい。
パソコンがらみで、読み込みエラーのCD-ROMは、一晩冷凍庫に入れておくと回復する
可能性があるとの書き込みを見て試したことがある。
結果は良好だった。
詳しいことはわからないが、事実として認識している。
しからば音楽CDも冷凍してみる。
では、24時間たったので取り出してみましょう。
冷凍庫から取り出したら露付き現象で、CDが濡れている。
どこに置いて乾かそうかと思い悩んでいると、
「僕が居るじゃない」
なんか、かわいい。
がんばっている感じが好感度アップ。
で、片方は復活。
片方はダメでした。
しかし、別の新しい方のCDプレイヤーだと問題なく再生できた。
メインの古いほうのCDプレイヤーはかれこれ28年モノだからなあ。
ああ、高いCDプレーヤーがほしい。
帰省の帰り道、小倉に立ち寄ったのは井筒屋で行われている「放浪の天才画家~山下 清 展」を
見るのが目的。
子供のころ、母に連れられて、時々来ていた。母のホームタウン。
ほんとに子供のころ以来だが、少なくとも建物の外観は大きく変わっていない。
とても大きかった記憶があるが、松坂屋とか高島屋なんかを見慣れた今は、
小ぢんまりとした百貨店に見える。
さて、創業80周年記念事業とのこと。
山下清展を初めて見たのは、まだ20代のころだったと記憶している。
それ以降、展覧会はこれで4度目。
印刷や映像では、なんとなくかわいい感じの絵だと思っていた。
しかし実物は、驚くほどの迫力をもって迫ってきた。
それは写真よりも写実的であり、音が聞こえるようであり、動いているようだった。
ゴッホやセザンヌの絵と同じ種類の感銘を受けた。
しかも絵具ではなく、ちぎり絵である。
百貨店のギャラリーなので、過度に期待はしていなかったが、150点、油絵、サインペン画、
そしてあのリュックの実物などもあり、見応え十分であった。
絵に力があると思うのです。
心の中の乾いて小さく冷たくなってしまった部分を暖かく潤ったものにしてくれるのです。
良いものを見せて下さった井筒屋さんのセンスに乾杯。
ザ・ジャムの演奏でサム・クックがシャウトしているようなバンド。
鮮烈なロックのリズムと腰に来るソウルボーカル。
つきなみですが、シビレるのです。
ポップミュージックが忘れて久しい熱情がほとばしるカッコよさ。
老若男女、音楽とはかくも激しく肉体的であり魅力的であるべきだと思うのです。
スネアの音が低いのが特徴的で、これがフィルインでタムと混ぜて連打すると、
ドロロドロロとハイスピードでうねるようなエクスタシーなサウンドに昇華するのです。
まさに小倉祇園太鼓の乱れ打ち。
ライブがみたい。
村田英雄の代表曲に「無法松の一生」という歌がある。
物語の舞台は小倉。
「無法の松」とは富島松五郎のあだ名である。
いわゆる演歌で、九州の場末のスナックならどの店も今でも一日に最低一回は歌われているであろう
と思われる。
なんともいえない日本人の心の奥底に響くリズム、そして物語性が民族の心根をゆさぶるのだろう。
ずいぶん前に、図書館で、村田英雄の浪曲のCDを借りて聞いた。
解説には、原作は松五郎の恋心が小説の中心であり、戦時下の言論統制の一環で、少年との心の
交流に主題が置き換えられているとなっていた。
それはすごくつまらない、面白くないことだと心にひっかかったので、いずれ原作を読んでみようと思った。
忘れていた原作のことを思い出したのは、前回、帰省した折に、小倉の駅西の場末の古い
歓楽街など歩き回って、「小倉生まれで玄海育ち、口も荒いが気も荒い」という歌詞がいまだに
リアリティーをもっているこの街のありように心を動かされたのだと思う。
ネットで調べたら、岩下俊作という作家の「富島松五郎伝」というタイトルで1941年に刊行されて
いるとのこと。
岩下俊作は、直木賞、芥川賞に何度か候補になったが受賞はしていないそうである。
この「富島松五郎伝」、すでに絶版となっており、文庫版をネットオークションで手に入れた。
帰省の新幹線で読み始めた。
おもしろい。
時代の空気とか、荒くれ者が闊歩する小倉の街、無学で喧嘩っ早い人力車夫のしかし純情でまっすぐな
心根とそれを支え、ときに疎んじ、しかしどこか魅かれるているそのまわりの人々。
描かれる恋愛模様は、今どきのメロドラマでもなくあからさまな性描写もなく、抑制的な表現の末に、
深く広い心の存在を示している。
松五郎が祇園祭の太鼓を打つシーンがやはり印象的だ。
「流れ打ち、勇み駒、暴れ打ち」。
小節は全編を通してリアル。
作家は、小倉出身で、舞台も実際の地名であり、映画公開当時、架空の人物の「富島松五郎」の居住地を
訪ね、「ここが松五郎さんが住んでいたあたりですか?」という観光客も少なからずいたという。
来年は、祭りのころに帰って来よう。