「柿」の絵手紙を頂きました。
葉っぱも全部落ちちゃった枝に、一個だけ残っている柿の絵です。
この時期、食べ物が無くなってしまった鳥たちの為に
全部は取らないで残しておいた柿だと思います。
(心やさしい方なんです(´艸`))
この柿の絵を見てて、思い出した事があります。
スーパーで並んでいる柿を見ても思いだしはしなかったのに。
あれは・・・
私が小3の頃、夏休みが終わってから転校した青森市の小学校のクラスでの話です。
52年前の話ですから、今じゃ考えられない出来事です。
夏休みが終わって、二学期から転校し毎日ドキドキしながら通学していました。
担任の先生は、おばあちゃん先生でした。
その冬のある日から、先生がお休みをしたんです。
ちょっと長いお休みでした。
私の家は学区のはずれにあり、どっちかというと山側にありました。
日曜のある日、外は吹雪いていたので、家の中で遊んでいましたら・・・
「00ちゃん!!」と外から声がするではありませんか。
こんな日に!!誰?
戸を開けてびっくり!同級生達10人くらいが雪降る中、外にいたんです。
私 「どうしたの?」
皆 「先生、休んでいるからお見舞いにいくの、一緒に行こう!」って。
私 「先生のうち知ってるの?」
「クラスの委員長が知ってるらしい」って皆が言う。
で、すでに誰かの親にお見舞いのミカンを1箱持たされて
皆で代わる代わるここまで持って来たみたいでした。
(私の家は小学校から3キロくらい離れている所にあったんですが
ここまで雪降る中もってきたんですね
今の様なすぐれた防寒靴もなく、ただの長靴で歩いてきたんです、ここまで。)
先生の家に行く途中に私の家があったから、誘って行こうと言う事になったらしいのです。
断るわけにもいかず、一緒に行く事になりました。
が・・
ここは山の麓で周りにはなーんにもなく、吹きつける風がものすごく
猛吹雪で道が見えなくなってしまう
皆は町中の子、こんな前が見えなくなるような吹雪の中を歩いた事はあまりなかったと思います
ほとんどの子が、半分泣きながら「ねぇ、先生のうち、まだ?」と。
足は冷たい、手も冷たい
(当時は皆、毛糸で編んだ手袋でしたから吹雪く天候の時にはあまり防寒にはなっていなかったんです)
そして、やっとの事で、幸畑の先生の家に着きました。
(私の家からは3キロくらい歩いたでしょうか)
本当につらい道のりでした。
(青森市の学校では、先生が休むと、こんな事をしなきゃならないんだ)、と
五所川原から転校してきた私にはびっくりな事でした。
先生は、半分泣きべそ顔の皆を家に上げてくれました。
「まぁまぁ、あんた達、よくここまで来たね」と
「先生の家には何にもお菓子ないけど、みんな、干し柿食べる?」と
皆の手に一個づつ干し柿を渡してくれたのでした。
生まれて初めて食べた「干し柿」でした。
この時に、どうやってこの「干し柿」を作ったのか先生が教えてくれました。
雪が降ってもまだ柿の木に柿の実をならせている訳も。
でも、もう、こんな事はしちゃだめだよ的な事も言われたように思います。
帰りはどうやって帰ったのか?記憶がありません。
今考えると、発案者は、なんでバスと言う手段を取らなかったのかと思います。
当時でも、バスは幸畑まではしっていましたからね。
それも重いみかん1箱を持って。
あの吹雪の中、小3の子供達だけで、よく遭難しないで先生の家にたどり着いたと思います。
それを、お母さんたちがよく許したと思います。
今じゃ、ちょっと考えられませんよね。
昔、昔の「柿」の思い出です。
まぁ、「干し柿」ですけどね。(笑)
葉っぱも全部落ちちゃった枝に、一個だけ残っている柿の絵です。
この時期、食べ物が無くなってしまった鳥たちの為に
全部は取らないで残しておいた柿だと思います。
(心やさしい方なんです(´艸`))
この柿の絵を見てて、思い出した事があります。
スーパーで並んでいる柿を見ても思いだしはしなかったのに。
あれは・・・
私が小3の頃、夏休みが終わってから転校した青森市の小学校のクラスでの話です。
52年前の話ですから、今じゃ考えられない出来事です。
夏休みが終わって、二学期から転校し毎日ドキドキしながら通学していました。
担任の先生は、おばあちゃん先生でした。
その冬のある日から、先生がお休みをしたんです。
ちょっと長いお休みでした。
私の家は学区のはずれにあり、どっちかというと山側にありました。
日曜のある日、外は吹雪いていたので、家の中で遊んでいましたら・・・
「00ちゃん!!」と外から声がするではありませんか。
こんな日に!!誰?
戸を開けてびっくり!同級生達10人くらいが雪降る中、外にいたんです。
私 「どうしたの?」
皆 「先生、休んでいるからお見舞いにいくの、一緒に行こう!」って。
私 「先生のうち知ってるの?」
「クラスの委員長が知ってるらしい」って皆が言う。
で、すでに誰かの親にお見舞いのミカンを1箱持たされて
皆で代わる代わるここまで持って来たみたいでした。
(私の家は小学校から3キロくらい離れている所にあったんですが
ここまで雪降る中もってきたんですね
今の様なすぐれた防寒靴もなく、ただの長靴で歩いてきたんです、ここまで。)
先生の家に行く途中に私の家があったから、誘って行こうと言う事になったらしいのです。
断るわけにもいかず、一緒に行く事になりました。
が・・
ここは山の麓で周りにはなーんにもなく、吹きつける風がものすごく
猛吹雪で道が見えなくなってしまう
皆は町中の子、こんな前が見えなくなるような吹雪の中を歩いた事はあまりなかったと思います
ほとんどの子が、半分泣きながら「ねぇ、先生のうち、まだ?」と。
足は冷たい、手も冷たい
(当時は皆、毛糸で編んだ手袋でしたから吹雪く天候の時にはあまり防寒にはなっていなかったんです)
そして、やっとの事で、幸畑の先生の家に着きました。
(私の家からは3キロくらい歩いたでしょうか)
本当につらい道のりでした。
(青森市の学校では、先生が休むと、こんな事をしなきゃならないんだ)、と
五所川原から転校してきた私にはびっくりな事でした。
先生は、半分泣きべそ顔の皆を家に上げてくれました。
「まぁまぁ、あんた達、よくここまで来たね」と
「先生の家には何にもお菓子ないけど、みんな、干し柿食べる?」と
皆の手に一個づつ干し柿を渡してくれたのでした。
生まれて初めて食べた「干し柿」でした。
この時に、どうやってこの「干し柿」を作ったのか先生が教えてくれました。
雪が降ってもまだ柿の木に柿の実をならせている訳も。
でも、もう、こんな事はしちゃだめだよ的な事も言われたように思います。
帰りはどうやって帰ったのか?記憶がありません。
今考えると、発案者は、なんでバスと言う手段を取らなかったのかと思います。
当時でも、バスは幸畑まではしっていましたからね。
それも重いみかん1箱を持って。
あの吹雪の中、小3の子供達だけで、よく遭難しないで先生の家にたどり着いたと思います。
それを、お母さんたちがよく許したと思います。
今じゃ、ちょっと考えられませんよね。
昔、昔の「柿」の思い出です。
まぁ、「干し柿」ですけどね。(笑)