KANCHAN'S AID STATION 4~感情的マラソン論

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2006 Internet Night

2006年04月26日 | マラソン時評
今からちょうど40年前、サッカーW杯のイングランド大会において、北朝鮮が優勝候補のイタリアを破った。これがW杯史上初の、アジア代表の勝利であった。

「Number」誌の増刊号「Number PLUS」のフランスW杯観戦完全ガイド号に、当時の在日コリアンたちの熱狂ぶりを記した「'66 Radio Night」というタイトルの記事が掲載されている。筆者はスポーツ・ライターの金子達仁氏。

それによると、当時6歳だった映画プロデューサーの李鳳宇氏はその日のことを今も鮮明に記憶しているという。家の近所の散髪屋に朝からみんなが集まり、試合のラジオ中継を聞いていた。NHKで中継されたわけではない。当時の日本人は、サッカー関係者以外はほとんどW杯の存在さえ知らなかったという。(初めて、日本のテレビでW杯が中継されたのは、'70年のメキシコ大会から。)平壌放送を聞くためにラジオのアンテナを窓の外に出したり、アルミホイルをアンテナに巻いたりして、少しでも鮮明に聞こうと必死になっていたという。

「日本で起きていながら、しかし大方の日本人が知らない。コリアンのための祭りだった。」

当時、「日本代表よりも強い」と言われていた、在日朝鮮蹴球団のキャプテンは、翌日に試合を控えながら、深夜2時過ぎまでラジオ中継を聞いてしまったという。睡眠不足で試合会場に行くと、前日のミーティングで、ラジオを聞くことを我慢するようにと注意した監督も禁を破っていたのだという。

試合が終わった後の散髪屋は大宴会になったという。

遠く離れた場所での同胞のアスリートの活躍に胸を躍らせた彼らの興奮と歓喜には、とても及ばないかもしれないが4月17日の深夜、インターネットの文字中継で、ボストン・マラソンのレース展開を探ろうとしていた僕は、この記事のことを思い出し、改めて読み返した。ラジオであれ、パソコンであれ、人間の営みに大きな変化はないものだ。

ボストンで土佐礼子はスタートから集団の先頭の立ち、自らが集団を引っ張る走りをしていた。彼女が集団から遅れやしないか、4分毎に更新される情報にどきどきさせられていた。
「いけ!いけ!いけ!」

頭の中で、走る彼女の姿を思い浮かべながら、辞書を引いていた。僕の語学力では選手の名前と、距離数と記録くらいしか分からない。それでも、拙い翻訳を自分のサイトに記していった。多くの人が寝静まった深夜、心臓破りの丘を土佐がどんな風に登っているかを知りたさに、翌日の仕事など忘れてパソコンの画面に向き合っている人たちへ向けて。今のこの胸のときめきを分かちあうために。

心臓破りの丘で先頭から引き離された彼女が、下り坂で再び追いついた瞬間が、このレースの一番の「輝く一瞬」ではなかっただろうか。リアルタイムでテレビの画像で見ていたら、どんな気分になっていただろう。

ラスト5kmで力尽きたが、これまでのレース同様に、優勝の望みが無くなってからも大崩れはしなかった。4年前のロンドン同様にネガティブ・スプリットを刻むことができたし、ボストンにおいても、
「土佐礼子は土佐礼子でした。」
と言える走りはできた。五輪後初のマラソンはまずまずの再スタートと言えよう。

本人の口からは、この結果に満足はしていないようなコメントが出ていた。もはや、彼女は3位で「健闘」と呼ばれるような立場ではない。2年前の名古屋で彼女は、
「優勝しなければ、ドベとつい(ビリと同じ、という意味の伊予弁)。」
ということを学んでいるのだ。実際、今、女子マラソンで五輪代表になろうと思えば、選考レースの優勝は最低条件になるだろう。

インターネットの文字中継では、全く名前が出てこなかったが、男子の実井謙二郎の6位は大健闘だ。宗猛さんの持つ「37歳の日本最高記録」を大幅に更新してみせた。ボストンでは'98年の犬伏孝行の10位以来の日本人男子のトップ10入りであり、'93年の谷口浩美さんの4位入賞に次ぐ快挙であった。

トリノ五輪の期間中には一度も夜更かしをしなかった僕だが、翌日は睡眠不足なのに、気持ちが高ぶっていた。仕事の後も、トレーニングに汗を流した。なるほど、これが「元気をもらう」という事なのか。

彼女にとっては8度目のマラソン。映像で見ることができなかったレースだが、深夜に胸をときめかせながらパソコンの画面を見つめていたレースとして、僕にとっては忘れ難いものとなった。



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