日本でプロのサッカー・リーグが誕生した年、翌年のワールド・カップアメリカ大会アジア最終予選で、日本があと一歩のところで手中に収めるはずだった出場権を逃した場所であるカタールの首都、ドーハにて、今年の12月にアジア競技大会が開催されることになっているのだが、皆さん、知っていますか?
そのアジア大会の代表派遣について、JOCが方針を明らかにした。以下はスポニチのサイトのコラム「藤山健二の五輪主義」からの引用である。
“陸上、水泳など各競技団体の強化担当者が一堂に会した平成18年度コーチ会議が先週、都内のホテルで行われた。主催したのは日本オリンピック委員会(JOC)で、200人を超す出席者を前に福田富昭選手強化本部長が激しい口調でゲキを飛ばした。
「国民の税金で日の丸をつけて、日本代表としてオリンピックに行って、それで40、50位で“楽しんだ”とはどういうことか。遊びや観光気分の選手は必要ない」
「4回も5回もオリンピックに出たということは、ちっとも自慢にはならない。出てもメダルが獲れなければ何の価値もない」
2月のトリノ冬季五輪で惨敗した選手たちへの怒りはいまだに収まっていないようで、1時間にわたる話は会議ではなく、一方的な説教に終始した。言葉だけではなく、実際にJOCは国際大会への派遣選手をより厳選する方針を表明。北京五輪の前哨戦となる12月のドーハアジア大会では02年の釜山大会に比べ選手数を100人前後減らす姿勢を打ち出した。世界との差が大きい陸上などは15人近く削減され、アジア大会ならではの特殊競技、カバディやチェス、テコンドーなどは派遣ゼロを通告された。”
(スポーツ・ニッポン2006年6月10日)
前回の釜山アジア大会で、日本の陸上競技勢は、金メダル獲得数が過去最低の2個にとどまった。
この方針でいくと、釜山で入賞にも届かなかった種目、男子800m、走り高跳び、砲丸投げ、円盤投げ、女子やり投げは、日本新記録を更新しないとドーハに参加できないということだ。
他の種目でももはやお家芸でもなんでもない男子の長距離種目はかなり危ない。
今回のこの決定を、あるいは「英断」と評価する人もいるだろう。先のトリノ五輪で、メダルを期待された種目がことごとく「惨敗」に終わったことに対する怒りがいまだ覚めやらず、なのだろう。
しかし、この記事の筆者である藤山氏も、この方針を諸手を挙げて支持しているようでもなさそうだ。
“五輪は参加することにこそ意義があるという先人たちの言葉は重い。だが、トリノ五輪での国別メダル獲得率(派遣人数に対するメダル数の割合)が韓国27・5%、ドイツ18・71%、米国12・21%に対し、日本はわずか0・89%と言われれば、反論のしようがない。このまま日本のスポーツ界は「勝利至上主義」へと変化していくのかどうか。今後の成り行きを慎重に見守っていく必要がある。”
このコラムはこんな言葉で締めくくられている。何をそんなに慎重になっているのか?言わば、「世界で戦えない競技」に対する「リストラ通知」のようなものだからだ。もはや、日本国内でトップになっても、「世界」との実力差が歴然とした競技は、そこで道が閉ざされるのだ。
藤山氏のコラムでは、先に100年もの伝統を持つ早慶レガッタを取上げ、ボートのエイトの競技人口の減少と実力低下を危惧していた。この種目、30年前のモントリオール五輪で、大惨敗して以来、五輪に代表を送っていない。
マラソンについて、幅広い知識を持つ友人K氏とよく、ジョギングしながらマラソンや他のスポーツに関する雑談を交わすのだが、以前から
「日本が世界と戦えないスポーツは、滅びる。」
というのがK氏の持論だったのだが、これは僕にとっては「相容れない見解」だった。
「サッカーやて、W杯に日本が出るようになるまでは誰も見向きせんかったやろ。」
「誰もって、好きな人はマラドーナとかプラティ二とか見てたで。」
「野球も、WBCで日本が優勝してなかったら、誰も見向きせんなってたで。」
「そやろか。大して影響はなかったんやなかろか。あれに負けてたからいうて、甲子園が閑古鳥、にはなってないで、たぶん。」
僕がK氏の見解に肯かなかったのは、
「日本人が活躍していても、その事をマニア以外は誰も知らない競技やてあるで。」
というのが理由である。その代表の一つが、二輪のグランプリだ。(玉田誠の実家の印刷所は、僕の勤務先の取引先である。)
最近の例だと、荒川静香がトリノ五輪で金メダルを獲得した翌日、台湾で行われた24時間走の世界大会で日本人が男女アベック優勝したことを、ご存知の方がどのくらいいるのだろうか?
だいたい、僕が高校、大学と7年間やってきた弓道のような、五輪の種目でない競技は、この先、競技人口が減っていくのではないか。将来は古典芸能か無形文化財になってしまうかもしれない。
しかし、もはや時代はK氏の言う方向に動き始めてしまった。五輪やワールド・カップ、そして陸上競技や水泳や柔道などが「世界××」との名称でテレビ局にとっての重要なコンテンツ(古い言葉で言えば、目玉商品)となった今、高視聴率を稼ぐには、日本選手の活躍が不可欠なのだ。日本人が勝てない種目は、誰も見向きされない。見向きされなければ、競技に関わる支援も得られない。
もはやこれが現実だ。18年前には
「トップ以外はビリと同じ。」
というマラソン・ランナーのレース後の発言が「失言」扱いされたのに、今や敗れた選手が笑顔を見せることが非難の的だ。WBCでの韓国戦の後のイチローの不機嫌な表情や「屈辱」という発言が快哉を浴びていたのも、この10年で日本人のスポーツに対する価値観が変わったのかもしれない。
負けても負けても応援されるのは、地方の競走馬くらいのものだ。
話を戻すが、24時間走り続ける競技で日本人が優勝したのに、何でほとんど報道されないのだろうなあ。優勝した関屋良一さんという人は、ギリシャのスパルタスロンでも優勝している人なのだが。
K氏には悪いが、「世界で戦えなくても、滅びない」競技もある。今の時期、こんな事を言えば嫌がられそうだが、サッカーだ。あっては欲しくないことだが、もし、クロアチアにもブラジルにも敗れてしまった場合、
「ワールドカップに出ても、勝てなければ意味がない。4年後に南アフリカにまで行って恥かくくらいなら、最初からアジア予選も欠場しろ。」
という意見がサッカー協会の幹部から出るだろうか?これを「暴論」と言うのなら、JOCの強化本部長の発言も同じじゃないか?
強化本部長の発言について、現場の指導者からの反論は、まだ目にしていないが、アジア大会でさえこうなのだから、北京ではもっと厳しい目で見られそうだ。たとえ参加A標準記録を出しても、派遣が見送られそうな選手も出てくるだろうし、以前にも書いたが、男子マラソンも2人で十分、と言われそうだ。
今は、藤山氏の言われるように、「成り行きを慎重に見守っていく」時だろう。
そのアジア大会の代表派遣について、JOCが方針を明らかにした。以下はスポニチのサイトのコラム「藤山健二の五輪主義」からの引用である。
“陸上、水泳など各競技団体の強化担当者が一堂に会した平成18年度コーチ会議が先週、都内のホテルで行われた。主催したのは日本オリンピック委員会(JOC)で、200人を超す出席者を前に福田富昭選手強化本部長が激しい口調でゲキを飛ばした。
「国民の税金で日の丸をつけて、日本代表としてオリンピックに行って、それで40、50位で“楽しんだ”とはどういうことか。遊びや観光気分の選手は必要ない」
「4回も5回もオリンピックに出たということは、ちっとも自慢にはならない。出てもメダルが獲れなければ何の価値もない」
2月のトリノ冬季五輪で惨敗した選手たちへの怒りはいまだに収まっていないようで、1時間にわたる話は会議ではなく、一方的な説教に終始した。言葉だけではなく、実際にJOCは国際大会への派遣選手をより厳選する方針を表明。北京五輪の前哨戦となる12月のドーハアジア大会では02年の釜山大会に比べ選手数を100人前後減らす姿勢を打ち出した。世界との差が大きい陸上などは15人近く削減され、アジア大会ならではの特殊競技、カバディやチェス、テコンドーなどは派遣ゼロを通告された。”
(スポーツ・ニッポン2006年6月10日)
前回の釜山アジア大会で、日本の陸上競技勢は、金メダル獲得数が過去最低の2個にとどまった。
この方針でいくと、釜山で入賞にも届かなかった種目、男子800m、走り高跳び、砲丸投げ、円盤投げ、女子やり投げは、日本新記録を更新しないとドーハに参加できないということだ。
他の種目でももはやお家芸でもなんでもない男子の長距離種目はかなり危ない。
今回のこの決定を、あるいは「英断」と評価する人もいるだろう。先のトリノ五輪で、メダルを期待された種目がことごとく「惨敗」に終わったことに対する怒りがいまだ覚めやらず、なのだろう。
しかし、この記事の筆者である藤山氏も、この方針を諸手を挙げて支持しているようでもなさそうだ。
“五輪は参加することにこそ意義があるという先人たちの言葉は重い。だが、トリノ五輪での国別メダル獲得率(派遣人数に対するメダル数の割合)が韓国27・5%、ドイツ18・71%、米国12・21%に対し、日本はわずか0・89%と言われれば、反論のしようがない。このまま日本のスポーツ界は「勝利至上主義」へと変化していくのかどうか。今後の成り行きを慎重に見守っていく必要がある。”
このコラムはこんな言葉で締めくくられている。何をそんなに慎重になっているのか?言わば、「世界で戦えない競技」に対する「リストラ通知」のようなものだからだ。もはや、日本国内でトップになっても、「世界」との実力差が歴然とした競技は、そこで道が閉ざされるのだ。
藤山氏のコラムでは、先に100年もの伝統を持つ早慶レガッタを取上げ、ボートのエイトの競技人口の減少と実力低下を危惧していた。この種目、30年前のモントリオール五輪で、大惨敗して以来、五輪に代表を送っていない。
マラソンについて、幅広い知識を持つ友人K氏とよく、ジョギングしながらマラソンや他のスポーツに関する雑談を交わすのだが、以前から
「日本が世界と戦えないスポーツは、滅びる。」
というのがK氏の持論だったのだが、これは僕にとっては「相容れない見解」だった。
「サッカーやて、W杯に日本が出るようになるまでは誰も見向きせんかったやろ。」
「誰もって、好きな人はマラドーナとかプラティ二とか見てたで。」
「野球も、WBCで日本が優勝してなかったら、誰も見向きせんなってたで。」
「そやろか。大して影響はなかったんやなかろか。あれに負けてたからいうて、甲子園が閑古鳥、にはなってないで、たぶん。」
僕がK氏の見解に肯かなかったのは、
「日本人が活躍していても、その事をマニア以外は誰も知らない競技やてあるで。」
というのが理由である。その代表の一つが、二輪のグランプリだ。(玉田誠の実家の印刷所は、僕の勤務先の取引先である。)
最近の例だと、荒川静香がトリノ五輪で金メダルを獲得した翌日、台湾で行われた24時間走の世界大会で日本人が男女アベック優勝したことを、ご存知の方がどのくらいいるのだろうか?
だいたい、僕が高校、大学と7年間やってきた弓道のような、五輪の種目でない競技は、この先、競技人口が減っていくのではないか。将来は古典芸能か無形文化財になってしまうかもしれない。
しかし、もはや時代はK氏の言う方向に動き始めてしまった。五輪やワールド・カップ、そして陸上競技や水泳や柔道などが「世界××」との名称でテレビ局にとっての重要なコンテンツ(古い言葉で言えば、目玉商品)となった今、高視聴率を稼ぐには、日本選手の活躍が不可欠なのだ。日本人が勝てない種目は、誰も見向きされない。見向きされなければ、競技に関わる支援も得られない。
もはやこれが現実だ。18年前には
「トップ以外はビリと同じ。」
というマラソン・ランナーのレース後の発言が「失言」扱いされたのに、今や敗れた選手が笑顔を見せることが非難の的だ。WBCでの韓国戦の後のイチローの不機嫌な表情や「屈辱」という発言が快哉を浴びていたのも、この10年で日本人のスポーツに対する価値観が変わったのかもしれない。
負けても負けても応援されるのは、地方の競走馬くらいのものだ。
話を戻すが、24時間走り続ける競技で日本人が優勝したのに、何でほとんど報道されないのだろうなあ。優勝した関屋良一さんという人は、ギリシャのスパルタスロンでも優勝している人なのだが。
K氏には悪いが、「世界で戦えなくても、滅びない」競技もある。今の時期、こんな事を言えば嫌がられそうだが、サッカーだ。あっては欲しくないことだが、もし、クロアチアにもブラジルにも敗れてしまった場合、
「ワールドカップに出ても、勝てなければ意味がない。4年後に南アフリカにまで行って恥かくくらいなら、最初からアジア予選も欠場しろ。」
という意見がサッカー協会の幹部から出るだろうか?これを「暴論」と言うのなら、JOCの強化本部長の発言も同じじゃないか?
強化本部長の発言について、現場の指導者からの反論は、まだ目にしていないが、アジア大会でさえこうなのだから、北京ではもっと厳しい目で見られそうだ。たとえ参加A標準記録を出しても、派遣が見送られそうな選手も出てくるだろうし、以前にも書いたが、男子マラソンも2人で十分、と言われそうだ。
今は、藤山氏の言われるように、「成り行きを慎重に見守っていく」時だろう。
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