NHKラジオ第2 古典講読「西行をよむ」を聞いています。
7月1日は、「第13回『旅の歌』其の一」でした。
備前の話だったので、メモしておきます。
------------------
はじめに、西行のこと
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。
武士の家に生まれ、23歳で出家。名前は、西方浄土に因む「西行」が、後世の人に定着している。
「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠み、願い通りに生を終えた。
その生き方が、藤原定家・松尾芭蕉をはじめ、広く後世の人々の共感をよんでいる。
<関連人物の生没年>
同時代の人物
西行 1118年~1190年 享年73
平清盛 1118年~1181年 享年64
藤原定家 1162年~1241年 享年74
(『小倉百人一首』の選者。56年にわたる克明な日記『明月記』を残した)
そして500年後
芭蕉 1644年~1694年、享年50
------------------------------
以下は、ラジオで聞いたこと。
西行は生涯に4回、大きな旅をしたことの記録がある。
東方 みちのくの旅が2回
西方 中国四国方面へが2回
西行の旅はすべて修行の旅。
笠をかぶり、笈(おい)を背負っている。
(江戸時代になると、四角い笈が丸い風呂敷き包みに変わる)
松の木の下に休み、富士山を見ている、日本画の「富士見西行」の型が出来上がった。
------------------------------
むかし見し松は老木(おいき)になりにけり
我年へたる程も知られて 『山家集』
<意味>
昔見た松はすっかり老木になってしまった。長寿の松がすっかり古木になっているのだから、私がいかに年を取ったかもおのずと知られよう。
詞書(ことばがき)
以前、西国へ修業して旅していた折、児島の八幡という所に参篭(寺社にこもって祈願すること。おこもり)した。
年を経てその神社を訪れると、長寿のはずの松がすっかり古木になっているように見えたので、詠んだ。
------------------------------
この「児島の八幡」がどこであるかについて、地元では意見が分かれている。
1つは、瀬戸大橋の北側、水島インターの近く、倉敷市曽原(そばら)の清田(きよた)八幡神社。
西行腰掛石があって、歌碑が2基ある。
1つは平成になってから建てられた新しいもの。
古い方の歌碑は、腰掛石の横に、ひっそりと残されている。
もう一つは、郡(こおり)の弁天島近くの宗形(むなかた)神社。
(曽原より北側に、直線距離で15キロ離れている)
それから、玉野市八浜(はちはま)町、八浜八幡宮
(弁天島から4キロくらい、児島湾寄りに南下した所)
------------------------------
<私が調べたこと>
(地図を表示したいのですが、やり方が分かりません(-_-)。
興味ある方はGoogleマップなどで確かめてください。
下記3か所は、近距離にあります)
「八幡」の所在地は、3か所とも「旧・児島郡」。
清田八幡神社
所在地:倉敷市曽原1124
曽原の旧自治体名は、児島郡郷内村曽原。
1959年合併して児島市になり、1972年倉敷市に編入された。
八浜八幡宮
所在地:玉野市八浜町八浜1092
八浜の旧自治体名は、児島郡八浜町八浜。
1955年、八浜町は玉野市に編入された。
宗形神社
所在地:岡山市南区郡2978
郡(こおり)の旧自治体名は、児島郡甲浦村郡(こおり)。
1951年、甲浦村は岡山市に編入された。
------------------------------
ラジオの講師は、
「西行が訪れた頃、児島は島だった。
現在は地続きになっているが、『西行が訪れた八幡の宮は当地だ』と、
倉敷市と玉野市と岡山市に、それぞれ歌碑があるのは興味深い」
と語っていました。
「興味」ですか、ね…。
児島郡内の町村が、どんな事情で倉敷市・玉野市・岡山市に編入されたかは調べていません(面倒そうで…)が、地理的に近い場所が、「昭和の大合併」のような方針で分散した結果でしょうよね。
西行が訪れたのは1168年、西行51歳の時。850年も前のことです。
干拓で有名な児島湾の地形は、特に変化が大きい。
時代は変わり、価値観も変わっています。
「ここの八幡だ!」と特定する必要あるのかな?
昔の偉いお坊さんが児島に来た時、『山家集』に載っているあの歌を詠んだ、で構わないと思いますがねえ。
各地に伝承が残る人物として、弘法大師の空海(774年~835年)と、天神様の菅原道真(845年~903年)がいます。
各地で大切にされている伝承は、引き継がれている事実が「ありがたい」ことだと思います。
「ほんとかな?」なんて疑うよりも、守り継いでいく方が温かい気持ちになれますし。
7月1日は、「第13回『旅の歌』其の一」でした。
備前の話だったので、メモしておきます。
------------------
はじめに、西行のこと
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。
武士の家に生まれ、23歳で出家。名前は、西方浄土に因む「西行」が、後世の人に定着している。
「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠み、願い通りに生を終えた。
その生き方が、藤原定家・松尾芭蕉をはじめ、広く後世の人々の共感をよんでいる。
<関連人物の生没年>
同時代の人物
西行 1118年~1190年 享年73
平清盛 1118年~1181年 享年64
藤原定家 1162年~1241年 享年74
(『小倉百人一首』の選者。56年にわたる克明な日記『明月記』を残した)
そして500年後
芭蕉 1644年~1694年、享年50
------------------------------
以下は、ラジオで聞いたこと。
西行は生涯に4回、大きな旅をしたことの記録がある。
東方 みちのくの旅が2回
西方 中国四国方面へが2回
西行の旅はすべて修行の旅。
笠をかぶり、笈(おい)を背負っている。
(江戸時代になると、四角い笈が丸い風呂敷き包みに変わる)
松の木の下に休み、富士山を見ている、日本画の「富士見西行」の型が出来上がった。
------------------------------
むかし見し松は老木(おいき)になりにけり
我年へたる程も知られて 『山家集』
<意味>
昔見た松はすっかり老木になってしまった。長寿の松がすっかり古木になっているのだから、私がいかに年を取ったかもおのずと知られよう。
詞書(ことばがき)
以前、西国へ修業して旅していた折、児島の八幡という所に参篭(寺社にこもって祈願すること。おこもり)した。
年を経てその神社を訪れると、長寿のはずの松がすっかり古木になっているように見えたので、詠んだ。
------------------------------
この「児島の八幡」がどこであるかについて、地元では意見が分かれている。
1つは、瀬戸大橋の北側、水島インターの近く、倉敷市曽原(そばら)の清田(きよた)八幡神社。
西行腰掛石があって、歌碑が2基ある。
1つは平成になってから建てられた新しいもの。
古い方の歌碑は、腰掛石の横に、ひっそりと残されている。
もう一つは、郡(こおり)の弁天島近くの宗形(むなかた)神社。
(曽原より北側に、直線距離で15キロ離れている)
それから、玉野市八浜(はちはま)町、八浜八幡宮
(弁天島から4キロくらい、児島湾寄りに南下した所)
------------------------------
<私が調べたこと>
(地図を表示したいのですが、やり方が分かりません(-_-)。
興味ある方はGoogleマップなどで確かめてください。
下記3か所は、近距離にあります)
「八幡」の所在地は、3か所とも「旧・児島郡」。
清田八幡神社
所在地:倉敷市曽原1124
曽原の旧自治体名は、児島郡郷内村曽原。
1959年合併して児島市になり、1972年倉敷市に編入された。
八浜八幡宮
所在地:玉野市八浜町八浜1092
八浜の旧自治体名は、児島郡八浜町八浜。
1955年、八浜町は玉野市に編入された。
宗形神社
所在地:岡山市南区郡2978
郡(こおり)の旧自治体名は、児島郡甲浦村郡(こおり)。
1951年、甲浦村は岡山市に編入された。
------------------------------
ラジオの講師は、
「西行が訪れた頃、児島は島だった。
現在は地続きになっているが、『西行が訪れた八幡の宮は当地だ』と、
倉敷市と玉野市と岡山市に、それぞれ歌碑があるのは興味深い」
と語っていました。
「興味」ですか、ね…。
児島郡内の町村が、どんな事情で倉敷市・玉野市・岡山市に編入されたかは調べていません(面倒そうで…)が、地理的に近い場所が、「昭和の大合併」のような方針で分散した結果でしょうよね。
西行が訪れたのは1168年、西行51歳の時。850年も前のことです。
干拓で有名な児島湾の地形は、特に変化が大きい。
時代は変わり、価値観も変わっています。
「ここの八幡だ!」と特定する必要あるのかな?
昔の偉いお坊さんが児島に来た時、『山家集』に載っているあの歌を詠んだ、で構わないと思いますがねえ。
各地に伝承が残る人物として、弘法大師の空海(774年~835年)と、天神様の菅原道真(845年~903年)がいます。
各地で大切にされている伝承は、引き継がれている事実が「ありがたい」ことだと思います。
「ほんとかな?」なんて疑うよりも、守り継いでいく方が温かい気持ちになれますし。