kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

能登へ行ったこと

2024年01月04日 | 日記
能登へ行ったのは、50年以上前。
実際の場所は覚えてないけど、いい所だったのになあ…と思い出す。

あるとき、友人から
「大学の中世史の先生が、能登での『市史』の責任者になっていて
資料整理のため、夏休み中の学生に仕事をさせている。
メンバーが足りないので、募集中」との話を聞いた。
扱うのは、江戸時代より前の古文書。
何の知識もないのに、ワタシも!と手を挙げ、参加した次第。

もちろん、出発前にはお勉強会があった。
いまだに忘れられない位、恥ずかしい読み間違いもした。
それでも若さゆえの厚かましさ、メンバーに紛れ込んで
七尾か羽咋に向かった(どちらだったのかも不明)

当時、地方公共団体の「調査」には
大学の研究者やその配下の学生・院生がかかわることが多かった。
日当はナシだけど、交通費・滞在費はあちら持ち。
丁重にもてなされて、お勉強になった。

当地では、大きなお寺での仕事だった。
コピー機がなかった時代、どっかの蔵の唐櫃(からびつ)にあったような古文書を、
読んで、書き写す仕事。
本職の学生さんたちは、きちんと読んで、きれいな字で清書していた😃

私はと言えば、読めもせず、書けもせずだったので
重要書類は回ってこなかった。
お祭りなどの行事の献立、だったかな?
鮑に栄螺、羹・膾などを、辞書片手に書き写した。
一文字がばらけてしまったかも😒

まあ、そんな仕事を10日ちょっと?。
一日が終わったら、宿泊所への帰り道に、銭湯へ寄ったこと、
(とても汚れてたと思う)
夕飯は毎日焼き魚が出て、端っこに茗荷が2~3個、丸焼きで添えてあったことは覚えている。
あとの記憶はサッパリ…。


それから何年か後、能登の輪島出身の人と話すことがあった。
「七尾(?)に行ったことがある😄」と言ったら
「お寺に行ったんじゃろう」と応えられた。
「どうして分かるの?」と聞いたら
「あそこは、寺しかない」との返事だった。

たくさんお寺があって、古文書がどっさり残っていたということは
地震も津波も、稀だったんじゃないか…。
少なくとも、三陸地方のように石碑や伝承は、なかったと思う。
(祭りの献立しか読めなかった私が言えることではない😥)

TVのニュース画面を見ると、とても悲しい。
夫には「何があっても避難はしない。布団かぶって寝てるだけよ」と
言い渡してある。
玄関には「避難完了、中は無人」の貼り紙をしておこう😠

わが家みたいな家族はどうさてれるかしら。
どうしようもなく、さびしいお正月😞

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