kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

建礼門院の右京大夫

2024年01月09日 | 日記
NHKラジオの『古典講読』で『平家物語』を聞いたのは、10年以上前。

岡山の林原美術館で、所蔵する『平家物語絵巻』(全36巻)の展覧会をやっていた頃で、興味を持って聞いた。
講師の*井陽子さんの解説は、分かりやすく親しみが持てた。
途中で、彼女は大人気タレントの母親だと気づき、何気なくブログに書いたら、突然アクセスが急騰した。
こんなことは私が書いちゃダメだと思い知らされた。

『古典講読』は、それ以前から聞いている。
今は、『建礼門院右京大夫集』で、『平家物語』と同時代。
現在の私たちが身に沁みこまされている感覚(家族制度・親子や夫婦の愛・差別は悪など)からは離れた上で、普遍的に存在する真実を読み取るのが、文学の面白さなんだと思う。


建礼門院は、高倉天皇の中宮。平清盛の次女で、名は徳子。
高倉天皇の退位により、建礼門院と呼ばれたが、本文では初めから建礼門院と書かれている。
その建礼門院に「右京大夫」という女房で仕えていたのが「建礼門院の右京大夫」。

壇ノ浦で全滅した平氏だが、徳子は助けられ、尼となって京都・大原の寂光院で過ごした。
その建礼門院に、右京大夫として仕えたのち、
晩年、人生を詠んだ歌などで回想したのが『建礼門院右京大夫集』である。


1月6日の放送分、私の聞き書き。

徳子が男御子を出産したころの記述だった。
御子(後の安徳天皇)は治承2年(1178年)11月12日に生まれ、
同年12月15日に東宮となる。
治承4年(1180年)で月22日、数え年3歳で即位。
政治は外祖父・平清盛が取り仕切った。
しかし、治承5年(1181年)閏2月4日、平清盛は病死。
寿永2年(1183年)源義仲の入京に伴い、平家は追われて都落ち。
寿永4年(1185年)4月、壇ノ浦の戦いで平家は敗北し、滅亡。
安徳天皇も入水し、数え年8歳(満6歳4か月)で崩御。

天皇の母・徳子も身を投げたが助けられ、
尼になって、京都・大原の寂光院で過ごした。
数えの31歳で、逝去は、壇ノ浦の28年後だった。

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