河村市長が減税掲げ“新党” 4月26日(月) 10時41分配信 共同通信
http://news.mag2.com/main/45059/detail
名古屋市の河村たかし市長は26日、政治団体「減税日本」を設立、自身を代表として愛知県選挙管理委員会に届け出た。国政とは一線を画す地域政党で、同市で始まった市民税減税を全国に発信するのが狙い。参院選には候補者を擁立せず、名古屋市議選での過半数を目指す。河村市長は、減税の恒久化や議会改革などをめぐり市議会と激しく対立。支援団体は住民直接請求による議会解散の動きを加速させている。
http://news.mag2.com/main/45059/detail
名古屋市の河村たかし市長は26日、政治団体「減税日本」を設立、自身を代表として愛知県選挙管理委員会に届け出た。国政とは一線を画す地域政党で、同市で始まった市民税減税を全国に発信するのが狙い。参院選には候補者を擁立せず、名古屋市議選での過半数を目指す。河村市長は、減税の恒久化や議会改革などをめぐり市議会と激しく対立。支援団体は住民直接請求による議会解散の動きを加速させている。
河村たかし氏は「議員はボランティアでやるべし」というのが持論。
もう一度国会で大なたを振るってもらいたい一人と思う。
おりから民主党の事業仕分けが第2弾と称して公開で行われている。
先の選挙で議員定数の削減を公約に盛り込まれたと云うが、どこにいったのだろうか。
日本の議員歳費は外国と比べても非常な高額、現在の議員はこの年間3400万円を死守するため国政よりも選挙が気になってしようがないサラリーマンのようになっていないか。
【正論】日本財団会長・笹川陽平 国会は事業仕分けの聖域なのか 2010.4.23 02:31 産経
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100423/plc1004230233000-n1.htm
第2弾の事業仕分けが始まる。私はある程度評価する立場だが、第1弾は権力の行使が目立ち、今ひとつ国民に対する説得力を欠いた。政治の基である国会改革が抜けていたからである。国会改革は決して聖域ではない。まずは「隗(かい)より始めよ」である。
≪「私」を排する崇高さ見せよ≫
先の総選挙で民主、自民両党は議員定数削減を公約に盛り込んだ。新しい定数は、かつて自民党で検討された衆議院300、参議院100で十分と考える。定数削減で自ら血を流すことで、初めて国民の信頼を得ることができる。
国会議員の定数は衆議院480、参議院242。議員には月130万1千円の歳費、同100万円の文書通信交通滞在費、歳費手当(ボーナス)など年間3400万円を超す国費が支払われる。
公設秘書の手当や運転手付き車両、両院の事務局経費などを加えると歳出額は2008年度で1036億円に上る。
ほかにも政党助成法による政党交付金(319億円)や議員宿舎の整備・維持費などがあり、議員1人当たりに要する費用は年間3億円ともいわれる。その詳細をぜひ、明らかにしてもらいたい。
政治の基本は言うまでもなく国家の安全保障と国民の生活の充実である。国会議員には「公」のために尽くし、限りなく「私」を排する崇高さが求められる。時に国家国民のため“苦い薬”を処方しなければならないこともある。
≪「カネ」の悪循環を断ち切れ≫
しかし現実には与野党が耳当たりのいい公約をバラまき、国家財政を危険水域に追い込んだばかりか、国民の間に責任感よりも権利意識が肥大した悪(あ)しき社会風潮を生んだ。
破綻(はたん)寸前の国家財政を前にすれば財政再建に向けた負担増を国民に求める覚悟が必要である。安全保障を確立し、国際平和に貢献するには自ら血と汗を流す決意を国民に求めざるを得ないこともある。
しかるに昨今、公を捨て私の利益のために国会議員のバッジを利用しているとしか思えない政治家が増えた。業としての政治家、政治屋の趣である。誰もが憎まれ役を嫌い、いい子になり過ぎ、政治家に求められる国の将来像を示し得ていない。国の明日より党の明日を優先する姿に「党利党略極まれり」の感慨すら覚える。
このような状況下で国民が候補者を選ぶのは難しく、無党派層や政治無関心層の増加を引き起こしている。加えて政治家としての資質や見識よりも知名度、人気を優先して進められる候補者選考が政治を余計、軽くしている。もちろん民主主義制度の下で、政治家としての見識より、国民に知名度が高い人が当選するのは日本に限った話ではなく、スポーツ、芸能人の立候補もやぶさかではない。
しかし当選後は「国家、指導者、政治家とは何ぞや」といった最低限の教養から憲法、安全保障、財政、外交、歴史に関する幅広い知識を身に付けるスキームが必要である。そうでなければ優秀な官僚を使いこなすのは難しい。
専門知識のない政治家が権力だけで官僚を羊の集団にしている現状は異常である。政治家が大局的見地から判断を示し、方向性を定めれば、以後の政策の実行は官僚の輔弼(ほひつ)に任せればいい。官僚制度の改革はもちろん必要だが、角を矯めて牛を殺すような現下の情勢は、かえって官僚のサボタージュを招くだけで国家の損失である。
政治のツケはすべて次代を担う若者にまわる。その若者が背を向けるような夢のない政治では国の将来はない。政治とカネの悪循環を断ち切るために政党助成法を定め、巨額の政党交付金を支出しながら、なお「政治とカネ」の問題で政治がストップしている現状はあまりに愚かである。国民が求めるのは政治の在り方であり、政党、政治家の覚悟、気概である。
≪除名や落選覚悟で良識見せよ≫
平成の大合併で1999年に3232を数えた全国の市町村は2010年、1727まで減少し、首長や三役、議員数が2万1千人減った。総務省によれば年1200億円の支出削減、職員の削減、施設の統廃合なども見込むと10年後には年間1兆8千億円の経費削減効果が見込めるという。国会だけが何ら血を流さないでいい理由はない。
戦前、立憲民政党の斎藤隆夫は帝国議会衆院本会議で日中戦争を批判する「反軍演説」を行い、衆議院議員を除名された。政治家に一片の良識あるならば除名覚悟、落選覚悟で国家の大綱を示してもらいたい。それこそが国民が求める政治家像であり、政治家の本分である。
戦前への反省からか、この国では戦後、政治を軽く見る風潮が続いた。政治の混迷はその結果でもある。かつて北欧の首相は娘に送った手紙に「多忙の中で深く考えもせず判断したことが国家の方針として動き出す。権力とは実に恐ろしいものだ」と書いた。
首相はじめ、すべての国会議員にこの言葉を深く受け止めてもらいたいと思う。大死一番、政治家の覚醒(かくせい)を求めてやまない。(ささかわ ようへい)
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100423/plc1004230233000-n1.htm
第2弾の事業仕分けが始まる。私はある程度評価する立場だが、第1弾は権力の行使が目立ち、今ひとつ国民に対する説得力を欠いた。政治の基である国会改革が抜けていたからである。国会改革は決して聖域ではない。まずは「隗(かい)より始めよ」である。
≪「私」を排する崇高さ見せよ≫
先の総選挙で民主、自民両党は議員定数削減を公約に盛り込んだ。新しい定数は、かつて自民党で検討された衆議院300、参議院100で十分と考える。定数削減で自ら血を流すことで、初めて国民の信頼を得ることができる。
国会議員の定数は衆議院480、参議院242。議員には月130万1千円の歳費、同100万円の文書通信交通滞在費、歳費手当(ボーナス)など年間3400万円を超す国費が支払われる。
公設秘書の手当や運転手付き車両、両院の事務局経費などを加えると歳出額は2008年度で1036億円に上る。
ほかにも政党助成法による政党交付金(319億円)や議員宿舎の整備・維持費などがあり、議員1人当たりに要する費用は年間3億円ともいわれる。その詳細をぜひ、明らかにしてもらいたい。
政治の基本は言うまでもなく国家の安全保障と国民の生活の充実である。国会議員には「公」のために尽くし、限りなく「私」を排する崇高さが求められる。時に国家国民のため“苦い薬”を処方しなければならないこともある。
≪「カネ」の悪循環を断ち切れ≫
しかし現実には与野党が耳当たりのいい公約をバラまき、国家財政を危険水域に追い込んだばかりか、国民の間に責任感よりも権利意識が肥大した悪(あ)しき社会風潮を生んだ。
破綻(はたん)寸前の国家財政を前にすれば財政再建に向けた負担増を国民に求める覚悟が必要である。安全保障を確立し、国際平和に貢献するには自ら血と汗を流す決意を国民に求めざるを得ないこともある。
しかるに昨今、公を捨て私の利益のために国会議員のバッジを利用しているとしか思えない政治家が増えた。業としての政治家、政治屋の趣である。誰もが憎まれ役を嫌い、いい子になり過ぎ、政治家に求められる国の将来像を示し得ていない。国の明日より党の明日を優先する姿に「党利党略極まれり」の感慨すら覚える。
このような状況下で国民が候補者を選ぶのは難しく、無党派層や政治無関心層の増加を引き起こしている。加えて政治家としての資質や見識よりも知名度、人気を優先して進められる候補者選考が政治を余計、軽くしている。もちろん民主主義制度の下で、政治家としての見識より、国民に知名度が高い人が当選するのは日本に限った話ではなく、スポーツ、芸能人の立候補もやぶさかではない。
しかし当選後は「国家、指導者、政治家とは何ぞや」といった最低限の教養から憲法、安全保障、財政、外交、歴史に関する幅広い知識を身に付けるスキームが必要である。そうでなければ優秀な官僚を使いこなすのは難しい。
専門知識のない政治家が権力だけで官僚を羊の集団にしている現状は異常である。政治家が大局的見地から判断を示し、方向性を定めれば、以後の政策の実行は官僚の輔弼(ほひつ)に任せればいい。官僚制度の改革はもちろん必要だが、角を矯めて牛を殺すような現下の情勢は、かえって官僚のサボタージュを招くだけで国家の損失である。
政治のツケはすべて次代を担う若者にまわる。その若者が背を向けるような夢のない政治では国の将来はない。政治とカネの悪循環を断ち切るために政党助成法を定め、巨額の政党交付金を支出しながら、なお「政治とカネ」の問題で政治がストップしている現状はあまりに愚かである。国民が求めるのは政治の在り方であり、政党、政治家の覚悟、気概である。
≪除名や落選覚悟で良識見せよ≫
平成の大合併で1999年に3232を数えた全国の市町村は2010年、1727まで減少し、首長や三役、議員数が2万1千人減った。総務省によれば年1200億円の支出削減、職員の削減、施設の統廃合なども見込むと10年後には年間1兆8千億円の経費削減効果が見込めるという。国会だけが何ら血を流さないでいい理由はない。
戦前、立憲民政党の斎藤隆夫は帝国議会衆院本会議で日中戦争を批判する「反軍演説」を行い、衆議院議員を除名された。政治家に一片の良識あるならば除名覚悟、落選覚悟で国家の大綱を示してもらいたい。それこそが国民が求める政治家像であり、政治家の本分である。
戦前への反省からか、この国では戦後、政治を軽く見る風潮が続いた。政治の混迷はその結果でもある。かつて北欧の首相は娘に送った手紙に「多忙の中で深く考えもせず判断したことが国家の方針として動き出す。権力とは実に恐ろしいものだ」と書いた。
首相はじめ、すべての国会議員にこの言葉を深く受け止めてもらいたいと思う。大死一番、政治家の覚醒(かくせい)を求めてやまない。(ささかわ ようへい)