落葉松亭日記

ニュース・評論スクラップ、凡夫の日々雑感、山歩記など

西村眞悟氏『北海道博物館、奇妙奇天烈なり』

2015年05月06日 | 政治・外交
メルマガ「西村眞悟の時事通信」より
http://www.n-shingo.com/
5月3日憲法記念日、札幌に於ける講演会の模様。
北海道博物館の奇妙な展示。
札幌の憲法記念日と北海道博物館、奇妙奇天烈なり 平成27年5月5日(火)

 例年、五月三日の「憲法記念日」には札幌で、「自主憲法制定」が必要であるとの講演をすることになっている。
 それ故、本年も、三日と四日は札幌にいて、元航空幕僚長の田母神俊雄さんとともに、
 改憲を目指す「次世代に日本を繋ぐ会」主催の講演会に講師として出席した。

「憲法記念日」の翌日の五月四日の北海道新聞朝刊は、一面に「憲法記念日 各地で集会」と大書して、
「札幌でもデモや講演会」(見だし)のもとに護憲派、改憲派双方の団体が集会を開いたと、その様子を報道した。
 その内訳は、護憲派が詳しく報道されており、我々の講演会の様子は簡潔そのもの。
 しかし、要点!は、ズバリ、次の通り書いてあった。

「西村氏は『主権がないときに憲法は制定できない』と述べ、占領下で制定された憲法に正当性がないと主張した」

 これを見た主催者の一人は、「揚げ足取りをするのかな、と警戒していたが、左翼系の北海道新聞にしては、よく書いている」と言った。
 その通り、要点をよく書いている。優秀な記者である。
 それに反して、護憲派の集会のことは、分量が多くても全く書けていない。無能な記者である。
 ノーベル文学賞作家の何とか馬鹿三郎や札幌出身の精神科医や上智大のおかしい教授が、「戦争のための総ての法制に反対する」とか、「今の憲法さえ使いこなせていない政権に、改憲する資格はない」とか、「集団的自衛権行使は他国の戦争に入っていくことだ」とか述べたといくら報道しても、「なにを言うとるのか」訳が分からんではないか。

 ところで、我が日本で、「憲法」を考えるならば、まず第一に次のことを見つめるべきである。

 国家が存在すれば、そのあり方を決定づける根本規範も必ず存在する。
 従って、実質的な「憲法」、国家の姿・実態を決定する「憲法」とは、紙に書かれた文章のなかにだけ存在するのではない。
 「成文法主義」、即ち、「憲法」を紙に書こうとする動きは、つい最近の近代に欧米で起こった流行にすぎない。

 そこで確認しよう。
 我が国の根本規範は、我が国の肇(はじまり)から存在する。
 それは何か。
 天照大神の「天壌無窮の神勅」である。
 この神勅に従って、万世一系の天皇を戴く日本が現在に至っている。
 吉田松陰は、この神勅ある限り日本は永遠なり、日本の将来を悲観することは、神勅を疑うという罪を犯すものと述べた。
 三島由紀夫は、命より大切なものは、「天壌無窮の神勅」と「三種の神器」だと述べた。

 そうだ!
 バターン半島への日本軍の猛攻から部下を見捨てて敵前逃亡し、卑屈な復讐心を秘めてション便を漏らしながら日本に来て占領していたあのダグラス・マッカーサーが、日本を永遠に弱小国に留めおく為に部下に作文させた「日本国憲法」施行の日の五月三日こそ、日本の悠久の国の肇りから現在に連続している根本規範、天照大神の「天壌無窮の神勅」を、三島由紀夫の言うとおり、日本人の命より大切なものとして確認する日であらねばならない。

 さて、北海道を訪れれば、札幌よりも屯田兵の地であり、北鎮の最強師団となった帝国陸軍第七師団創設によってできた街である旭川と、比布や美瑛の上川地方を訪れるのを常としている。
 そして、ここに拡がる大地と山河を眺め、旭川神社の「兵村記念館」と陸上自衛隊の「北鎮記念館」を訪れれば、北海道とは何か、が実感でき、日本人の底力が伝わってくるのである。

 しかし、この度は北鎮師団の地には行けなかった。
 そこで、講演会主催者同志六名とともに、四月十八日に新しくオープンした「北海道博物館」を訪問した。
 驚いた、この博物館で、国民の北海道開拓の歴史を実感できると思いきや、ここは、旭川の「兵村記念館」とは全く正反対である。
 この「博物館」は、南方の「和人」が北方の「アイヌ民族」の地を侵略したことを刷り込む為の展示館であり、軍国主義日本の邪悪なアジア侵略が如何に北海道に及んだかを展示する「館(やかた)」であった。

 この反日館(やかた)には、開館以来数既に十万人以上の人々が訪れたようだが、展示物に関する説明文の中には、さりげなく反日の毒が盛り込まれている。
 これは左翼特有の手法である。
 その結果、ここを訪れた子供達は、入口で、マンモスやナウマン象の巨大な骨格を見上げて、 ワーと息を吞んでから中に誘導され、出てくる時には、自分達「和人」はなんとずるく強欲で、北海道を侵略して「アイヌ民族」に悪いことをしたと思い込んでいることになる。
 これ、南京の南京虐殺記念館を訪問した子供達が刷り込まれるであろう印象と同じだ。

 以下、その館の要所を説明しよう。
 まず、「アイヌ」の説明文と「アイヌの隣人たち」と書かれた大きな地図がある。
 その地図には、北海道全域が「アイヌ」の色に塗られ、その「隣人」は、樺太、沿海州、千島、カムチャッカ、シベリヤの一部に分布しているように塗られている。
 そして、「和人」と記載された地域は津軽海峡の南から日本列島全体となっている。
 色の違いによって「アイヌ」と「和人」は「隣人」ではなく別の地域であるように印象つけられる。
 そのうえで、今、北海道にいる「和人」は「アイヌ」の地を侵略した者と位置付けられる。
 アイヌの説明文は次の通り、
「アイヌは、日本の先住民族です。『アイヌ』とは、アイヌ語で人間という意味です。
アイヌ民族は、この北海道をはじめ、サハリン(樺太)、千島列島などを生活の舞台として、さまざまな文化をはぐくんできました。
 明治政府が北海道を日本の領土に入れ、開拓を進めるなかで、その生活や文化は大きな打撃を受けます。
しかし人びとの歩みはとだえることなく、いまにつながっています。」

また館の他の場所には次のような訳の分からない説明文がある。
「女性、アイヌ民族、在日韓国朝鮮人、障害者など、忘れられ後まわしにされてきた立場の人びとの権利の主張は、今どうなっているのでしょうか。」

 この二つの解説を総合すると、この館の主催者は、明治政府が「北海道を領土に入れ」るということが「女性、アイヌ民族、在日韓国朝鮮人、障害者」が打撃を受けたことの原因であると言いたいらしい。

 そして、奇妙なことに、この展示の近くに、村の子供やおじさんそして、かっぽう着姿の奥さんがた五十人ほどが、日の丸を持った二人の出征兵士を囲んだ写真が大きく展示されている。
 この写真の下にさりげなく書かれているこの写真の説明文は」次の通りだ。
 これで、この写真を掲げた意図を推測されたい。
「忘れちゃいけないのは、あの太平洋戦争。
これは十勝の幕別というところの写真なんだけど、私たちがいた村でも同じように兵隊さんを見送ったのよ。」

 そして、次のスペースの展示品は、発掘された縄文時代からの石器や土器そして土偶また刀剣となる。
 すると鮭の燻製や昆布の束や、熊の皮、鷲の剥製などが展示され「アイヌ民族から和人への交易品」と大きな説明文が書かれている。

 以後、うんざりするほど、「アイヌ民族」と「和人」という言葉が使われている。

 特有の文様の法被(はっぴ)の説明文は「アイヌ民族の木綿衣」とある。
 ほー、これも「民族」のものか、と思った。
 では、我が大阪の泉州では、秋祭りの法被ごとに「民族」がいるぞ。
 例えば「岸和田浜町民族の木綿衣」や「堺榎民族の木綿衣」だ。

 いよいよ明治以降のコーナーに来た。
 旭川の「兵村記念館」を上回る規模の開拓の努力が展示されていると思って近づいた。
 すると入口に次の説明文が掲げられていた。

  「20世紀はじめの日露戦争で、日本はロシアに勝利し、南満州に特権をえて、南樺太、朝鮮にも領土を拡大しました。『満州事変』につづく日中戦争のころには、北海道からも多くの人が『満州開拓』のために中国東北の農村にわたりました。また、北海道にも炭坑や土木事業のために朝鮮人が連れてこられました。
 戦争が長引きアジア太平洋に拡大したことが、アメリカによる原子爆弾の投下と日本の敗戦、連合国による占領につながりました。」

   これにはびっくりした。
 北海道は我が国の領土拡大基地で、その為に朝鮮人を連れてきたという設定だ。
 そして突如でてくる原爆投下は、この悪い日本の「和人」がもたらしたと思わせる。
   以後、予想通り「アジアの戦争と北海道」のコーナーである。
 小林多喜二の「蟹工船」、「不在地主」そして「党生活者」の三冊の原本が、ガラスケースのなかに展示されている。
 これで、この館の展示担当者が税金で生活する「党生活者」であることが分かる。

 さらに「小樽湖高等商業学校生徒雪中教練」の写真が掲げられ、次を見ると「取締の対象になった反戦言動」の一覧表が出てきて、「半島人逃亡関係綴・昭和十七年分」が展示され、戦時下のゲシュタポによる暗黒の強権支配時代を暗示させる。

 極めつけは、とうとう「9・7 自衛隊違憲判決を!」と赤字で書いた古い布の襷が古文書のように展示されている。
 その襷を中心に、「戦争反対 全面講和」の旗を掲げた写真、「日米安保と基地問題」の解説文と写真、「矢臼別演習場の2013年の誤射事件略図」さらに、「ナイキ基地計画・防衛庁のたくらみ」という見出しの共産党の機関誌「ほっかい新報」、とくれば、もう分かるやろ。
 この館、おかしい。
 おまえら、党生活者よ、税金で、公の場を利用するな、党費でやれ。

 展示の最後のところで、笑うしななかった説明文が二つあったのでご紹介する。
 ご自由に判断されたい。

「中川郡チロット原野計画図」の地図の下に次の解説の一文があった。
「まっすぐな道路が直角に交わる北海道の農村の景観は、『上から』強い力が働いたことを物語ります」

 次は、矢臼別地方の航空写真の説明文の最後に挿入してある一文。
「航空写真からは、第1、4飛行場の形がよく見えます。
戦争と現在がふしぎにつながっていると思いませんか?」
だとよ。

 この館を出てから、北海道の同志の一人が言った。
 「和人は悪い奴ですねえ」彼らはそれからしばらく、お互いに和人と言い合っていた。
 そういえば、道ですれ違う人は、皆、「和人」であった。

 このままいけば、もうじき、北海道庁や札幌市は公文書で、国民を「和人」と呼ぶことになるかもしれない。
 南の沖縄もけったいなら、北の北海道もけったいだ。

 明日は、旭川神社の「兵村記念館」で実感したことを書くことにする。


明治維新以来、日本人は真の開拓者であった 平成27年5月6日(水)

 昨日に続き、北海道を報告する。
 報告の起点は、北海道の帝国陸軍第七師団創設の地である旭川そして上川地方だ。
 この地が如何にして現在の地になったのかを目の当たりに見れば、「北海道」が分かる。「北海道」が分かると言うことは、「日本人」が分かるということだ。
 日本人こそ、真の開拓者だ。
 では、それを目の当たりに見る場所はどこか。
 旭川神社にある「兵村記念館」である。

 「兵村記念館」を訪れて、最も印象に残ったものは、一枚の写真だ。
 その写真には、背丈の二倍ほどもある巨大な切り株が無数に乱立する中に佇む人びとが写っていた。

 その切り株は、その大地が巨大な樹木の密集する大森林だったことを示している。
 佇む人びとは、その大森林の中に入植した人びとである。
 彼らは、雪が降り積もった真冬に、その大木を切り倒して雪の上を滑らせて運んだ。
 写真は、春が過ぎて雪が融けて大地が現れたときの光景だ。
 そして、佇む人びとは、太陽が届くようになった地面を耕し始めるとともに、残った切り株を掘り出すという重労働を延々と続けた。

 入植して地面に太陽が届くようになるまで、さらに耕して収穫できるまで、一体、この人達は、何を食って働いていたのだろうか。

 伊予からの人びと(伊予団)、讃岐からの人びと(讃岐団)そして近江さらに群馬からの人びとが、力を合わせて、人が耕し住める大地になった比布町鎮守、比布神社の鎌田告人宮司が「兵村記念館」に案内してくれたのだが、はじめに入植した人びとは、数年たって初めて周りに山があることを知ったのだと説明してくれた。
 このようにして、今の旭川、上川の大地が生まれていった。
 若い女性の観光客に愛される美瑛の町も景観も、このようにして生まれたのだ。

 昨日の時事通信で、公務員でありながら札幌の「北海道博物館」を私物化して、無垢な子供達に「和人」としての反日意識を刷り込もうとしている者達の書いた説明文を紹介した。
 矢臼別の航空写真の説明はこうだった。
   「航空写真からは、第1、4飛行場の形がよく見えます。
    戦争と現在がふしぎにつながっていると思いませんか。」

 馬鹿、アホかお前は、では、旭川の航空写真を説明せよ。
 そもそも旭川は、屯田兵と第七師団創設によってできた街なのだ。
 「ふしぎにつながっている」どころか、もともとここは軍と不可分一体だ。
 そして、ここに第七師団がなければ、日露戦争で旅順要塞の203高地は陥落せず、我が国は敗北だった。
 さらに大東亜戦争で、千島樺太どころか北海道全体が、スターリンの支配下に入っていたのだ。

 札幌の「北海道博物館」に巣をつくっている反日野郎、軍とつながりがあるのは、当たり前じゃ、文句あるか。

 大東亜戦争のペリリュー島での戦闘でも明らかなように、アメリカ軍は一師団の六割が死傷すれば「全滅」と判断して前線から後方に引き上げさせる。
 それ故、アメリカの第1海兵師団は、六割が死傷して「全滅」し、島から撤退した。
 しかし、日露戦争の旅順要塞攻撃では、第七師団は一万五千の兵が千名になっても、「師団」として、最後の奉天まで戦闘を継続した。
 旅順での満州軍参謀長児玉源太郎大将と、第七師団長大迫尚敏中将の会話は次の通り。
 「大迫さん、北海道の兵は強いようじゃのう」
 「強うございました。一万五千の兵が千名になりました」

 何故、北海道旭川の第七師団は戦い続けたのか。
 「この戦いに負ければ、日本は亡びる」
 と兵士一人一人が知っていたからである。まさに救国の為に戦い続けた。
 第七師団は第三軍の隷下にあり、彼らは、第三軍司令官乃木希典大将のもとで戦った。
 それ故、先年、乃木希典大将の浪曲をうなれば日本一の松浦四郎若さんに頼んで、比布神社、旭川神社、美瑛神社そして護国神社において、乃木希典を謳っていただいた。
 各神社の宮司のお力で、多くの氏子の皆様が集まっていただいた。
 涙を流す人も多かった(鎌田宮司や私も含む)。四郎若さんは、さすがに喉がかれていた。

 さて、冒頭に、報告の起点は旭川、と言った。従って、ここを起点にして次ぎに続ける。
 昨年の十月、そして本年の四月に行った、サイパン、テニアン、そして、パラオのことだ。
 サイパンとテニアンを訪れたとき、道の回りはみなジャングルだった。
 しかし、そのジャングルの中に、神社があり発電所や製糖工場跡があり、また学校跡があった。
 ある廃墟になった発電所は、今も一番頑丈な建物であり、大型台風が来れば、今も人びとの避難所として使われている。
 これは何を語っているのか。

 その時、遙か南のサイパンで、北海道旭川の「兵村記念館」の切り株の中に人びとが佇む光景を思い出したのだ。
 日本人は、北海道と同様に、熱帯のジャングルを切り開いて畑を造り、街を造り、現地の人びとが学ぶ学校を造り、現地の人びとが働ける産業を興した。
 サイパンでは、全島を一周する鉄道を敷いて機関車を走らせていた。
 そのレールがジャングルの中で、成長する木に一メートルほどの高さまで持ち上げられているのを見た。

 何故、この日本人が開拓した土地がジャングルに戻ってしまっているのか。
 それはアメリカ軍が、日本人が戻れないようにするために街や畑や工場をジャングルの中に沈めたからである。アメリカ軍は、わざと成長が早い「タガン・タガン」というシダ植物の種を空中散布してジャングルに戻してしまった。
 それで今は、現地の人びとの職場である地場産業がなくなり、アメリカの生活保護費に頼るただ観光だけの島になっている。

 パラオの開発も日本人がした。
 現在、パラオ共和国の人口(約二万人)の九割近くが住むコロールの昭和十年代の地図を見れば、整然たる市街地である。日本国内の田舎の城下町のようだ。日本人は、ここでも現地の子供が学べる学校をつくっている。
 この昔の地図で見る日本統治時代のコロールは、戦後アメリカが五十年以上も統治した後の姿である今よりも、よい市街地だ。

 このように、北海道の旭川と、日本時代のサイパンやパラオの符合に気付いたのであるが、さらに思えば、日本人は、朝鮮でも台湾でも満州でも、そこで学校を造り産業を興しそこを豊かにした。
 さらにブラジルのアマゾンでも、同じようにそこを住みよい働ける大地に開拓していったのだ。
 日本人の行くところは、そのように開拓される。

 アメリカ人は、アメリカ西部を開拓したと言われる。
 しかし、日本人の開拓とは違う。彼らの開拓とは、原住民のインディアンを駆逐してその土地を奪うことであり、ゴールドを求めて殺到することであった。
 イギリス人は、インドで、現地のインド人の学校をつくるという発想があったのか、オーストラリアで原住民のアボリジニの学校をつくろうとしたのか。
 オランダ人は、インドネシアで現地の農業を潰してオランダが欲するのもだけを作らせた。
 彼ら白人の開拓は植民であり、現地の富を奪うことが目的だった。

 以上、十九世紀から二十世紀を顧みるとき、日本人こそ、天地に恥じない真の意味の開拓者だった。
 このこと、北海道旭川の「兵村記念館」を起点として教えられた。
 諸兄姉、是非、比布神社と旭川神社、旭川護国神社そして美瑛神社を訪れられたし。