■「加瀬英明のコラム」メールマガジン 2015年5月20日 02:02:51JST
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日本の理想を実現した大東亜会議とAA(アジア・アフリカ)会議
4月に、インドネシアのジャカルタにおいて、アジア・アフリカ会議60周年記念首脳会議が催された。バンドン会議、あるいはAA会議とも呼ばれた。
安倍首相が日本が引き続きアジアにおける平和の構築と、アジア・アフリカの成長に貢献してゆくと、演説したが、堂々としていた。
会議には、アジア・アフリカから約100の国と、地域の首脳が参集した。
第1回バンドン会議は昭和30(1955)年に、29ヶ国の代表が参加して開催された。日本がサンフランシスコ講和条約が発効して、独立を回復してから、はじめて出席した国際会議となった。
この時、私の父・俊一は政府次席代表として、会議に出席した。
私は高校3年生だった。父がインドネシアへ出発する前に、私に「今度の会議は重光(葵)と、わたしが苦労した大東亜会議につぐ、有色民族の2回目の歴史的な会議となるものだ」と、感慨深げに語った。
50年前のAA会議に当たっても、10年前の50周年記念会議、今回の60周年会議の時にも、日本のマスコミが大東亜会議を引き合いにだすことが、まったくなかった。残念なことである。
大東亜会議は昭和18(1943)年に、東京にビルマ、フィリピン、インド、タイ、満州国、中国(南京政府)の首脳が、一堂に会して催された、人類はじめての有色民族のサミットだった。
当時、東條内閣の外相だった重光葵と、政務秘書官として側近だった父が、東京・麹町の重光私邸で大東亜会議の構想を幾晩も徹夜して練って、首相に提案したものだった。
日本は開戦の御詔勅にあるように、「自存自衛」のために戦っていた。しかし、戦争目的が自衛のためというと消極的であるから、大東亜会議は日本の役割を歴史に残すために、アジアの諸民族を解放することを、宣明することをはかったものだった。
重光は敗戦後、A級戦犯として実刑判決を受け、日本が独立を回復した後に釈放されたが、鳩山内閣がAA会議の前年に成立して、外相に復帰した。
父は出発する前に、「重光に晴れ舞台を踏ませたかったのに、来れないのは何とも残念だ」といった。重光外相が首席代表となるところだったが、国会会期中だったために、首相と親しい実業家の高碕達之助経済審議庁長官が、起用された。
日本はインドネシアを敗戦の年の9月に独立させることを、決定していた。インドネシアは日本が連合国に降伏した直後の8月17日に、独立を宣言した。
第1回AA会議は、大戦が終結してからまだ10年しかたっていなかったために、反植民地感情が奔騰するなかで開催された。父もその熱気に、あらためて驚かされた。
会議が始まると、新興アジア・アフリカ諸国の代表たちが日本代表団の席にくると、日本が帝国主義勢力をアジアから駆逐して、民族解放をもたらしたことに対して、つぎつぎと感謝の言葉を述べた。
昭和31(1956)年3月8日に、重光葵外相が参院予算委員会で、「太平洋戦争によって、日本は東南アジア諸国の独立に貢献した」と述べた。
いま、岸田外相が同じ発言を行うことが、できるだろうか。
だが、日本が先の大戦を戦ったことによって、人種平等の世界が招き寄せられたのだった。
昭和天皇は敗戦の翌年に、側近者に対して先の戦争をもたらした原因について、つぎのように述べられている。
「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后(ご)の平和条約の内容に伏在してゐる。(大正8年のパリ講和会議において)日本の主張した人種平等案は列国の容認する処(ところ)とならず、黄白の差別感は依然残存し加(カリフォルニア)州移民拒否の如きは、日本国民を憤慨させるに充分なものであった。
かゝる国民的憤慨を背景として、一度、軍が立ち上つた時に、之を抑へることは容易な業(もの)ではない。(『昭和天皇独白録』)
平成12(2000)年に、拓殖大学が創立100周年を祝った。拓殖大学は明治33(1900)年に、海外で開拓に当たる人材を育成するために、創立された。
今上天皇が記念式典に、行幸された。その時のお言葉のなかで、「校歌には青年の海外雄飛の志とともに、『人種の色と地の境 我が立つ前に差別なし』と、うたわれています。当時、多くの学生が、この思いを胸に未知の世界へと、大学を後にしたことと、思われます」と、述べられた。
父・天皇の想いを、語られたにちがいない。
大東亜会議とAA会議は、日本の理想を実現したものだった。
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成27年(2015)5月19日(火曜日)通算第4544号
◆書評 ◇しょひょう ▼ブックレビュー ◎BOOKREVIEW◆
http://melma.com/backnumber_45206/
加瀬英明『大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか』
(ベスト新書、KKベストセラーズ)
インドもインドネシアも、日本の軍事作戦に支えられ、
次々と独立を達成し、深く日本に感謝した事実経過を知ろう
アジアの覚醒と解放、アジア諸国を武力で侵略し、植民地として、横暴な搾取を繰り返した、人種差別政策を実行した欧米列強に正面から挑戦した日本は、破れこそしたが多くのアジア諸国から感謝された。
ところが肝心の日本が自虐史観の罠に嵌り、そのことを自覚しないまま、アジアとりわけ中国と韓国に謝罪し続けてきた。その背後に、じつは米国があった。米国は知られて貰っては困る自らの犯罪が明るみに出ないためにも、中国・韓国の反日策動に同調し、日本を貶め続けることを黙認している。
都合の悪い諸事実とは、いまさら言うまでもないが、フライングタイガー、フランクリンルーズベルトの狂信的個性、廣島・長崎ばかりか東京大空襲など殺戮の数々。真相の隠蔽。。。。。。
「シェンノートは、蒋介石政権に戦闘機と、アメリカ陸軍航空隊の現役パイロットを、義勇兵として、偽装して派兵する案を、ルーズベルト政権に提出した。大統領はこの案をただちに承認した。これは、重大な国際法違反だった」(39p)。
こればかりではない。日系アメリカ人を拘束して砂漠の掘っ立て小屋に収容した。ドイツ人にそんなことはしなかった。明らかな米国の「憲法違反」で、人種差別だった。
捕虜となった日本兵を機関銃で殺戮したり、人道上の犯罪をアメリカ兵はくるったように各地で展開した。
こうした不都合が事実が山のようにあるが、戦後日本はこれらのことで米国に抗議したりはしなかった。まさか、捕虜を虐待するなどと、日本の伝統的武士道からは考えられないことだった。
結局、ルーズベルトの罠にはまった日本は対米開戦に誘導され、各地で日本兵は武士道精神を発揮して闘い、アメリカ兵を畏怖させた。
しかしアジア諸国は独立し、日本にふかく感謝した。こうした経過を加瀬氏は淡々と、乾いた文体で、歴史家の目をもって叙している。