メルマガ「西村眞悟の時事通信」より
西村眞悟の時事通信 平成27年8月22日(土)
http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1128
八月十五日が過ぎて、あらためて平和を願え
喉元過ぎれば熱さ忘れる、と言われるが、 その「喉元」を「八月十五日」に置き換えれば、 日本の世相、つまり、マスコミとそれに乗る面々の軽佻浮薄ぶりがしみじみ分かる。
今年も八月に入れば、マスコミで連日、 「戦争の悲惨さと平和の尊さ」の証拠写真・証拠映像そして生き証人の体験談の特集番組が放映される。
広島と長崎の原爆忌の集会においては、 そこの市長が挨拶で、現在国会で継続中の安全保障に関する法案への反対意思を表明していた。
さらに、安倍総理の挨拶に対する「野次」があったようである。
では、この集会は何だ。
戦没者慰霊の集会か、 それとも反戦平和の反政府集会か。
そして、八月十五日が過ぎれば、 皆、付いていた狐が落ちたようにケロリとしている、と感じるのは小生だけだろうか。
つまり、「真の平和」を確保する為に何をすべきか!
この肝心要の決断を回避する為に、八月十五日が過ぎればケロリとしているのだ。
これでは、八月十五日までのマスコミの特集と各種行事は、 慰霊と平和を願うものではなく、 慰霊と平和を願うという口実のもとに盛り上がる「政治運動」ではないか。
一九七七年(昭和五十二年)九月、 欧州NATO諸国で、「反核運動」・「反ミサイル運動」が大勢の参加者を吸収して巻き起こった。
この時、西ドイツのシュミット首相を中心として、NATOは、 ソビエトがNATOに向けて実戦配備した中距離核弾頭ミサイルSS20に対抗して、 同じく中距離核弾頭ミサイルであるパーシング2を導入して、 ソビエトと「相互確証破壊の体制」を構築し、 ソビエトのSS20を抑止しようとしていた。
このNATOの動きに対して、巻き起こった大規模な欧州の反核・反ミサイル市民運動は、 ヒロシマ・ナガサキが体験した核の悲惨さを強調し、ヨーロッパの平和を維持する為に NATOのパーシング2配備を阻止しようとしたのである。
結局、NATOは、ソビエトのSS20に対抗してパーシング2を導入し、 その上で、ソビエトに対して、強烈な軍縮交渉を迫ったのだ。 その結果、ソビエトはSS20をヨーロッパ方面から撤去し、 ヨーロッパの核の脅威は除去された。
そこで言っておく。
ソビエト崩壊後に何が分かったのか?
それは、 あの時のパーシング2導入に反対してヨーロッパで巻き起こった反核・反ミサイル運動は、 実は、ソビエトがパーシング2導入を阻止する為に仕組んだものであった、ということだ!
同時期、我が国の原水爆禁止運動は、 ソビエトや中共の核兵器は非難せず、ただアメリカの核だけを非難していた。
そしてその当時、我が国は「スパイ天国」とソビエトのスパイから言われていたのである。
我が国も、NATO諸国に対する工作と同じ工作をソビエトから受けていないと誰が言えるのか。
ソビエトからの工作を受けた本人だけが否定するだけだろう。
そして、言う。
本年の八月十五日までのご存知のマスコミのキャンペーンも、終わってみれば、 現在参議院で審議中の安保法案に対する、 反憲法的・反平和的だという否定的な「政治的効果」を生み出しているのが明らかになっている。
それで喜ぶのは何処か!
一九七七年のヨーロッパで喜んだのはソビエトだった。
二〇一五年のアジアで喜ぶのは、中共ではないか!
さあ、八月十五日までのいつものキャンペーンも終わった。
従って、平和を確保し、これから戦争の悲惨を体験しないようにする具体的な方策を見詰めよう。
一九七七年、NATO(西ドイツのシュミット首相)は、 如何にしてソビエトの核の脅威を除去したのか。
それは、既に書いたように、ソビエトのSS20に対してパーシング2を導入し、 その上で、ソビエトに軍縮交渉を仕掛けたからだ。
その結果、ソビエトはSS20をヨーロッパから撤去した。
仮にシュミットが、反核・反ミサイル運動に参加して、ともに手をつないでデモをしておれば、 絶対に、ソビエトはSS20を撤去しなかったであろう。
反対に「我か勝てり」と喜んだはずだ。
このシュミットのパーシング2導入の決断は、古来からの鉄則の有効性を実証している。
その鉄則とは、 「平和を願うなら、戦争に備えよ」 である。
同志、諸兄姉!
平和を願うなら、戦争に備えよう!
断じて、中共を喜ばすな!
※パーシング2の「2」はローマ数字ですが、配信ソフトの都合上アラビア数字にしています。
八月十五日から始まった戦争がある
前回に続いて、八月十五日に関して書く。
我が国のマスコミの「戦争特集」という行事は、八月十五日で終わる。
そして後は忘れたようになる。
しかし、現実には、その日から、また戦争が始まっていた。
その戦争は、軍服ではなく礼服を着た戦争であった。
その主役である 昭和天皇と外務大臣重光葵に関して記しておきたい。
サイパンが陥落し本土への爆撃が予想されるようになった昭和十九年八月二十九日から 敗戦後の二十一年まで侍従長を務めた明治十三年生まれの藤田尚徳海軍大将は、 その間の陛下のお姿を次のように書いている。
「そこに発見したものは、上御一人の立場にたたされた陛下が、 戦争の終結と平和の回復のためにつくされた超人的な努力である。
国の存亡をかけた動乱の舞台に、ただお一人出通して楽屋へ下ることも許されず、 その間に陛下がひたすら念じられていたことは、勝利とか敗戦とかを越えた、 人間同志の信頼と、そこから生まれる平和の世界に、いかにしたら戻れるかという祈りである。」
「苦しみがあってもうったえるべき人のいない天皇、 グチのやり場もないのが日本の天皇の姿であった。
陛下は発言したくても、その意見を公になさることはなかったわけで、 戦争の責任についても、もちろん一言もお述べになったことはない。
ただマッカーサー元帥に対して、『一切の責任を自分で負う』と表明されただけであった。」
「昭和天皇実録」を概観すると、 藤田侍従長の言うとおり、昭和天皇の日常は超人的である
。 そのなかで、印象に残るのは、外地に展開する陸海軍の積極的作戦行動を中止させるためのご努力である。
八月十五日に、天皇は、辞表を提出した鈴木貫太郎総理に代わる首班を選ぶ作業を開始しつつ、 大元帥として、大陸命と大海令を発せられて外地に展開する陸海軍の作戦中止の命令を発し、 翌十六日には、皇族を宮中に呼び、各々、支那方面、関東軍方面および南方方面に赴いて各軍に停戦の聖旨を伝達をするように命じ、翌十七日に「陸海軍人に対する勅語」を発せられた。
また、天皇は、 外務大臣重光葵と参謀総長梅津美治郎に、 九月二日のアメリカ戦艦ミズーリ号での降伏文書調印を命ぜられるのであるが、 調印の前日に二人を呼んで、意に沿わぬ務めと思うが、国のために行ってくれと労っておられる。
外務大臣重光葵は、毎朝、教育勅語を朗読する人物であった。
昭和七年の天長節を上海で迎えた重光葵は、演壇で国歌君が代を歌っているときに爆弾を投げ込まれた。
その時重光は爆弾が投げられたのは分かっていた。
しかし、国歌斉唱中であったので動くのは不敬であると考え動かなかった。
そして、右足を付け根から吹き飛ばされて失った。
また、昭和十八年十一月、東条内閣の外務大臣であった重光は、 東京で大東亜会議を開催し「大東亜共同宣言」を発出している。
重光には、諸民族の共存共栄と人種差別撤廃を謳った「大東亜共同宣言」こそ、 白人だけの自由を謳っただけで、白人に支配されるアジア・アフリカの有色人種を顧みない「大西洋憲章」に遙かに優るものとも強烈な自負があった。
重光は、八月二十八日、伊勢に赴き、禊ぎをしてから、伊勢神宮に参拝し、一心に祈った。
「我が国を造りましたる大神に 心をこめて我は祈りぬ」
このような男である重光が、九月二日早朝に天皇から送られた義足をつけて横須賀沖に停泊するアメリカ軍艦ミズーリ号に向かったのである。
ミズーリ号は、八十九年前の嘉永六年、 ペリー艦隊の旗艦であるサスケハナが投錨していた同じ地点に投錨していた。
そして、その艦橋にはサスケハナが掲げていた同じ星条旗が掲げられていた。
午前九時半に、降伏文章調印を終えて帰路につくと、 同じ二日、連合軍総司令官マッカーサーは、日本国政府を介さずに直接次の三つの布告をしてきた。
一つ目は、連合軍総司令官の直接命令によって動くこと、
二つ目は、日本の裁判所を廃止してアメリカ軍の軍事法廷によること、
三つ目は、日本の通貨を廃止してアメリカの軍票によること。
要するに、マッカーサーは、我が国に軍政を施こうとしたのだ。
この三つの布告をみた重光葵は、午前中に、直接、横浜のニューグランドホテルに乗り込み、そこに滞在するマッカーサーに面会を求め、直談判の上、 我が国に直接軍政を敷くのは降伏文書に違反する。
我が国は、ドイツのように政府がなくなったのではない、我が国の政府は機能している、 我が国は、無条件降伏をしたのではない。
よって、三つの布告を撤廃されたし、と要求した。
九月五日、マッカーサーは、三つの布告を撤廃した。
まさに、重光葵の「礼服を着た戦闘」であった。
以上、八月十五日から始まった新たな戦いの、始まりのほんの一部を書かせていただいた。
この戦いの帰趨が、七十年たった現在のところ、「敗北」という判定をされても文句は言えない。
東京裁判史観の定着や村山富市談話などが「敗北」の証であろう。
しかし、マスコミの表層だけで判定できないのが我が日本である。
明治天皇が謳われたように、
「敷島の大和心のををしさは ことあるときそあらわれにける」
であるからだ。
しかも、「ことあるとき」は近づいている。
日本を信じよう。
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八月十五日が過ぎて、あらためて平和を願え
喉元過ぎれば熱さ忘れる、と言われるが、 その「喉元」を「八月十五日」に置き換えれば、 日本の世相、つまり、マスコミとそれに乗る面々の軽佻浮薄ぶりがしみじみ分かる。
今年も八月に入れば、マスコミで連日、 「戦争の悲惨さと平和の尊さ」の証拠写真・証拠映像そして生き証人の体験談の特集番組が放映される。
広島と長崎の原爆忌の集会においては、 そこの市長が挨拶で、現在国会で継続中の安全保障に関する法案への反対意思を表明していた。
さらに、安倍総理の挨拶に対する「野次」があったようである。
では、この集会は何だ。
戦没者慰霊の集会か、 それとも反戦平和の反政府集会か。
そして、八月十五日が過ぎれば、 皆、付いていた狐が落ちたようにケロリとしている、と感じるのは小生だけだろうか。
つまり、「真の平和」を確保する為に何をすべきか!
この肝心要の決断を回避する為に、八月十五日が過ぎればケロリとしているのだ。
これでは、八月十五日までのマスコミの特集と各種行事は、 慰霊と平和を願うものではなく、 慰霊と平和を願うという口実のもとに盛り上がる「政治運動」ではないか。
一九七七年(昭和五十二年)九月、 欧州NATO諸国で、「反核運動」・「反ミサイル運動」が大勢の参加者を吸収して巻き起こった。
この時、西ドイツのシュミット首相を中心として、NATOは、 ソビエトがNATOに向けて実戦配備した中距離核弾頭ミサイルSS20に対抗して、 同じく中距離核弾頭ミサイルであるパーシング2を導入して、 ソビエトと「相互確証破壊の体制」を構築し、 ソビエトのSS20を抑止しようとしていた。
このNATOの動きに対して、巻き起こった大規模な欧州の反核・反ミサイル市民運動は、 ヒロシマ・ナガサキが体験した核の悲惨さを強調し、ヨーロッパの平和を維持する為に NATOのパーシング2配備を阻止しようとしたのである。
結局、NATOは、ソビエトのSS20に対抗してパーシング2を導入し、 その上で、ソビエトに対して、強烈な軍縮交渉を迫ったのだ。 その結果、ソビエトはSS20をヨーロッパ方面から撤去し、 ヨーロッパの核の脅威は除去された。
そこで言っておく。
ソビエト崩壊後に何が分かったのか?
それは、 あの時のパーシング2導入に反対してヨーロッパで巻き起こった反核・反ミサイル運動は、 実は、ソビエトがパーシング2導入を阻止する為に仕組んだものであった、ということだ!
同時期、我が国の原水爆禁止運動は、 ソビエトや中共の核兵器は非難せず、ただアメリカの核だけを非難していた。
そしてその当時、我が国は「スパイ天国」とソビエトのスパイから言われていたのである。
我が国も、NATO諸国に対する工作と同じ工作をソビエトから受けていないと誰が言えるのか。
ソビエトからの工作を受けた本人だけが否定するだけだろう。
そして、言う。
本年の八月十五日までのご存知のマスコミのキャンペーンも、終わってみれば、 現在参議院で審議中の安保法案に対する、 反憲法的・反平和的だという否定的な「政治的効果」を生み出しているのが明らかになっている。
それで喜ぶのは何処か!
一九七七年のヨーロッパで喜んだのはソビエトだった。
二〇一五年のアジアで喜ぶのは、中共ではないか!
さあ、八月十五日までのいつものキャンペーンも終わった。
従って、平和を確保し、これから戦争の悲惨を体験しないようにする具体的な方策を見詰めよう。
一九七七年、NATO(西ドイツのシュミット首相)は、 如何にしてソビエトの核の脅威を除去したのか。
それは、既に書いたように、ソビエトのSS20に対してパーシング2を導入し、 その上で、ソビエトに軍縮交渉を仕掛けたからだ。
その結果、ソビエトはSS20をヨーロッパから撤去した。
仮にシュミットが、反核・反ミサイル運動に参加して、ともに手をつないでデモをしておれば、 絶対に、ソビエトはSS20を撤去しなかったであろう。
反対に「我か勝てり」と喜んだはずだ。
このシュミットのパーシング2導入の決断は、古来からの鉄則の有効性を実証している。
その鉄則とは、 「平和を願うなら、戦争に備えよ」 である。
同志、諸兄姉!
平和を願うなら、戦争に備えよう!
断じて、中共を喜ばすな!
※パーシング2の「2」はローマ数字ですが、配信ソフトの都合上アラビア数字にしています。
八月十五日から始まった戦争がある
前回に続いて、八月十五日に関して書く。
我が国のマスコミの「戦争特集」という行事は、八月十五日で終わる。
そして後は忘れたようになる。
しかし、現実には、その日から、また戦争が始まっていた。
その戦争は、軍服ではなく礼服を着た戦争であった。
その主役である 昭和天皇と外務大臣重光葵に関して記しておきたい。
サイパンが陥落し本土への爆撃が予想されるようになった昭和十九年八月二十九日から 敗戦後の二十一年まで侍従長を務めた明治十三年生まれの藤田尚徳海軍大将は、 その間の陛下のお姿を次のように書いている。
「そこに発見したものは、上御一人の立場にたたされた陛下が、 戦争の終結と平和の回復のためにつくされた超人的な努力である。
国の存亡をかけた動乱の舞台に、ただお一人出通して楽屋へ下ることも許されず、 その間に陛下がひたすら念じられていたことは、勝利とか敗戦とかを越えた、 人間同志の信頼と、そこから生まれる平和の世界に、いかにしたら戻れるかという祈りである。」
「苦しみがあってもうったえるべき人のいない天皇、 グチのやり場もないのが日本の天皇の姿であった。
陛下は発言したくても、その意見を公になさることはなかったわけで、 戦争の責任についても、もちろん一言もお述べになったことはない。
ただマッカーサー元帥に対して、『一切の責任を自分で負う』と表明されただけであった。」
「昭和天皇実録」を概観すると、 藤田侍従長の言うとおり、昭和天皇の日常は超人的である
。 そのなかで、印象に残るのは、外地に展開する陸海軍の積極的作戦行動を中止させるためのご努力である。
八月十五日に、天皇は、辞表を提出した鈴木貫太郎総理に代わる首班を選ぶ作業を開始しつつ、 大元帥として、大陸命と大海令を発せられて外地に展開する陸海軍の作戦中止の命令を発し、 翌十六日には、皇族を宮中に呼び、各々、支那方面、関東軍方面および南方方面に赴いて各軍に停戦の聖旨を伝達をするように命じ、翌十七日に「陸海軍人に対する勅語」を発せられた。
また、天皇は、 外務大臣重光葵と参謀総長梅津美治郎に、 九月二日のアメリカ戦艦ミズーリ号での降伏文書調印を命ぜられるのであるが、 調印の前日に二人を呼んで、意に沿わぬ務めと思うが、国のために行ってくれと労っておられる。
外務大臣重光葵は、毎朝、教育勅語を朗読する人物であった。
昭和七年の天長節を上海で迎えた重光葵は、演壇で国歌君が代を歌っているときに爆弾を投げ込まれた。
その時重光は爆弾が投げられたのは分かっていた。
しかし、国歌斉唱中であったので動くのは不敬であると考え動かなかった。
そして、右足を付け根から吹き飛ばされて失った。
また、昭和十八年十一月、東条内閣の外務大臣であった重光は、 東京で大東亜会議を開催し「大東亜共同宣言」を発出している。
重光には、諸民族の共存共栄と人種差別撤廃を謳った「大東亜共同宣言」こそ、 白人だけの自由を謳っただけで、白人に支配されるアジア・アフリカの有色人種を顧みない「大西洋憲章」に遙かに優るものとも強烈な自負があった。
重光は、八月二十八日、伊勢に赴き、禊ぎをしてから、伊勢神宮に参拝し、一心に祈った。
「我が国を造りましたる大神に 心をこめて我は祈りぬ」
このような男である重光が、九月二日早朝に天皇から送られた義足をつけて横須賀沖に停泊するアメリカ軍艦ミズーリ号に向かったのである。
ミズーリ号は、八十九年前の嘉永六年、 ペリー艦隊の旗艦であるサスケハナが投錨していた同じ地点に投錨していた。
そして、その艦橋にはサスケハナが掲げていた同じ星条旗が掲げられていた。
午前九時半に、降伏文章調印を終えて帰路につくと、 同じ二日、連合軍総司令官マッカーサーは、日本国政府を介さずに直接次の三つの布告をしてきた。
一つ目は、連合軍総司令官の直接命令によって動くこと、
二つ目は、日本の裁判所を廃止してアメリカ軍の軍事法廷によること、
三つ目は、日本の通貨を廃止してアメリカの軍票によること。
要するに、マッカーサーは、我が国に軍政を施こうとしたのだ。
この三つの布告をみた重光葵は、午前中に、直接、横浜のニューグランドホテルに乗り込み、そこに滞在するマッカーサーに面会を求め、直談判の上、 我が国に直接軍政を敷くのは降伏文書に違反する。
我が国は、ドイツのように政府がなくなったのではない、我が国の政府は機能している、 我が国は、無条件降伏をしたのではない。
よって、三つの布告を撤廃されたし、と要求した。
九月五日、マッカーサーは、三つの布告を撤廃した。
まさに、重光葵の「礼服を着た戦闘」であった。
以上、八月十五日から始まった新たな戦いの、始まりのほんの一部を書かせていただいた。
この戦いの帰趨が、七十年たった現在のところ、「敗北」という判定をされても文句は言えない。
東京裁判史観の定着や村山富市談話などが「敗北」の証であろう。
しかし、マスコミの表層だけで判定できないのが我が日本である。
明治天皇が謳われたように、
「敷島の大和心のををしさは ことあるときそあらわれにける」
であるからだ。
しかも、「ことあるとき」は近づいている。
日本を信じよう。