加瀬英明氏のメールマガジンより
■「加瀬英明のコラム」メールマガジン 2015年10月6日
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人は志がなくなると小粒になる
私が日本ペンクラブの理事となったのは、昭和52年だったから、40歳のときだった。
ペンクラブの左傾化がひどかったので、2年後に脱会した。金日成主席の北朝鮮が天国で、朴正煕大統領の韓国が言論を弾圧していると非難する決議を行ったので、あまりにも馬鹿馬鹿しかった。
多士済済
あのころの文壇には、石川達三、丹羽文雄、芹沢光治良、井上靖、安倍公房、三島由紀夫、遠藤周作、吉行淳之介と、思い出すままにあげていっても、古い表現になってしまうが、一家をなしていた作家が少なくかった。
画壇についても、そうだった。壇は高く設けたところを意味しているが、文壇、画壇という言葉が廃れたのも、作家も、画家も、平準化してしまったからなのだろう。
政財界をみても、毀誉褒貶があるものの、存在感がある人物が多かった。
そういえば、人物とは非凡な人や、優れた人のことをいったが、このところそのような用途では、使われなくなっている。
この30年ほどか、日本が活力を萎えさせるのにしたがって、日常の会話のなかで「人が小粒になった」と、嘆かれている。
団栗の背競べ
似たようなもののことを、団栗(どんぐり)の背競べという。秋に入って樫に実をつける団栗は、秋の季題となっているが、団栗の里となった日本は、冬に入ろうとしているのだろうか。
人はさまざまな衝動に駆られて、生きている。喉が渇く、空腹を覚える。ある時は酒に酔いたい。本を読むのは暇を潰すとか、事実を知りたいとか、好奇心を満たしたいからだ。
絵心と人心
私はたまに絵を描くが、この夏も鎌倉の鶴岡八幡宮の雪洞(ぼんぼり)祭のために、絵筆をとった。
人は誰もが上手下手は別として、芸術家だといえる。自分を慰めるために絵を描いたり、詩を書くのは、自分を表現したいからだ。
自己表現は、自分がどのような存在なのか知りたい不安を、紛らわすために役に立つ。精神病の療法の1つとして、患者に絵を描かせることが行われるが、無意識に自分の中心を探し求めているのだ。
芸術の根源は神事から
芸術の根源は世界のどこでも、神事から始まっている。宗教祭祀と結びついていた。
日本でも音楽や踊りは、神々に奉納することから始まったし、どの民族についても同じことがいえる。西洋音楽は賛美歌から発した。はじめはただ声を合わせるオルガヌムから、複音楽であるポリフォニーへ発展した。
シェイクスピア劇の源流
シェイクスピア劇の源流も、教会で演じられた寸劇に求められる。シェイクスピアは16世紀から17世紀に活躍した。イギリスでは14世紀ごろから、祝祭日に聖書の物語をもとにしたコベントリー劇とか、ヘッジ劇と呼ばれた宗教劇や、艱難(かんなん)の末に神に救いを見出す、エブリマンという道徳的な寸劇が、教会で上演された。
芸術は人の心を表わすから、万国に共通している。
遠く離れた文化の間で、よく似ていることがある。私は中国を訪れたときに、新疆のウイグル族が織った絨毯を贈られたが、図案がアメリカ・インデアンの織物の柄を思わせる。チベットの曼陀羅は東方教会のイコンにみられる、キリストの後光の図柄に通じている。
心を打つ作品
絵であれ、彫刻、小説であれ、心を打つ作品は誰にでも訴える力を持っているから、普遍性を備えているものだ。どうしてなのか。
芸術には難解なものが少なくない、遊びだから楽しめさえすればよいが、作家というよりも、自称芸術家と呼ぶべき人たちの作品は、独り善がりのものだ。人は何か創ってみたいという衝動を感じるから、自分のためだけであってならないわけはない。
独り善がりであっても、精神病理学の分野で治療法として使っているから、悪いことではない。しかし、自分しか満足できない作品は、芸術と呼べない。自慰的で普遍性がない。
芸術は独創的なものであるべきだ。しかし、私は優れた作品は、個人のスタンドプレイではないと思う。優れた作品は、作者1人に属するものではないはずだ。
才能は無限の可能性をもつ
才能は不可抗力のようなものだ。持って生まれたものや、育った環境によって作られる。
このごろ流行している英才教育といった教育論では、どんな子供でも肥料さえやればよいように説かれているが、その子供がもとから秘めている才能を伸ばすのには役立とうが、どの子供にも効果があるものではなく、ほとんどの場合、親の自己満足のために、子供を苦めている。
優れた作家は内的な強い衝動に促されて、創作活動に取り組むと思う。だから受け身なのだ。才能が不可抗力であるのと、似ている。
個人は自分の中に個人的な意識されない意識と、1つの共同体に属していることから、目に見えない根のような、全員に共通している普遍的な意識を持たされている。日本人なら個人としての自我の他に、無意識の中に共同体の意識が植えつけられている。私たちは目に見えない糸によって、しっかりと結ばれている。
芸術はこのような普遍的な意識が、恵まれた作家を通して形になるものだと思う。いってみれば、火山のようなのだ。このような無意識の意識が、地下マグマのように燃え盛っており、才能のある個人が火口のように選ばれて、爆発するのだろう。
このように考えると、作者は部族的な代表なのだ。作家は媒体ということになる。優れた作品が、その時代の人々の心を強く捉えるから、作品はひとりだけのものではない。人々が共有しているものが、表現されている。
偉大な作品は時代精神を体現する
偉大な作品は時代精神を表している。思いつくままにあげれば、ドストエフスキーの『悪霊』は、リベラルなインテリの息子が悪霊に取り憑かれ、過激派になる物語である。その後にくるスターリン時代を、生々しく予言している。T・S・エリオットの詩の『荒地』は、現代人の精神を見事に描いている。
T・H・ローレンスの『チャタレー夫人の恋人』は、急速に都市化と機械化してゆく社会における、男女の新しい性を描いたものだ。作者はこの作品によって受難したが、書かねばならない衝動に駆られたのだろう。
ニューヨークの近代美術館の心
私はニューヨークの近代美術館を訪れると、マックス・ベックマンの絵の前で足を停める。第1次大戦後のドイツの表現派の巨匠だが、大戦による人間への幻滅から、グロテスクでサディスティックな絵を描いている。
このところ、日本で火山活動が活発になっているが、きっと優れた作家は地殻の弱い箇所に当たるのだろう。時代の要請に応えて、出てくるのだ。
かつて神話は、心にあった象徴的なものを表わしていた。神話は遠い過去に追いやられたが、現代のエピック――民族の姿を描いた叙事詩を創りだす人々が、同じ役割を果している。
優れた宗教家や、政治家についても、同じことがいえよう。なぜ、イエスは磔(はりつけ)になる危険まで冒して、愛を説いたのか。明治維新の若い志士たちは新しい日本を創ったが、日本が彼らを創ったのだった。
優れた作家の輩出は何か
この30年ほど、日本には優れた作家が現われない。宮沢賢治、小川未明、小林多喜二、安倍公房、三島由紀夫、小津安二郎、黒沢明といったような人々が出なくなってしまった。
私は都心の麹町に住んでいるが、利に聡い不動産屋の手によって、45、6階もある新しいビルが、つぎつぎと建つようになっている。人が小粒になったのは、このような巨大な建造物のためだろうか。
萩にかつて吉田松陰が教えた松下村塾の小さな日本家屋が、残っている。部屋が2つしかなく、畳が摩り切れているが、人間の体の大きさに適っている。
飽食の時代に入って人々が苦しむことがなくなり、共同体の意識が薄れたために、社会が真剣味を欠くようになったからに違いない。
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人は志がなくなると小粒になる
私が日本ペンクラブの理事となったのは、昭和52年だったから、40歳のときだった。
ペンクラブの左傾化がひどかったので、2年後に脱会した。金日成主席の北朝鮮が天国で、朴正煕大統領の韓国が言論を弾圧していると非難する決議を行ったので、あまりにも馬鹿馬鹿しかった。
多士済済
あのころの文壇には、石川達三、丹羽文雄、芹沢光治良、井上靖、安倍公房、三島由紀夫、遠藤周作、吉行淳之介と、思い出すままにあげていっても、古い表現になってしまうが、一家をなしていた作家が少なくかった。
画壇についても、そうだった。壇は高く設けたところを意味しているが、文壇、画壇という言葉が廃れたのも、作家も、画家も、平準化してしまったからなのだろう。
政財界をみても、毀誉褒貶があるものの、存在感がある人物が多かった。
そういえば、人物とは非凡な人や、優れた人のことをいったが、このところそのような用途では、使われなくなっている。
この30年ほどか、日本が活力を萎えさせるのにしたがって、日常の会話のなかで「人が小粒になった」と、嘆かれている。
団栗の背競べ
似たようなもののことを、団栗(どんぐり)の背競べという。秋に入って樫に実をつける団栗は、秋の季題となっているが、団栗の里となった日本は、冬に入ろうとしているのだろうか。
人はさまざまな衝動に駆られて、生きている。喉が渇く、空腹を覚える。ある時は酒に酔いたい。本を読むのは暇を潰すとか、事実を知りたいとか、好奇心を満たしたいからだ。
絵心と人心
私はたまに絵を描くが、この夏も鎌倉の鶴岡八幡宮の雪洞(ぼんぼり)祭のために、絵筆をとった。
人は誰もが上手下手は別として、芸術家だといえる。自分を慰めるために絵を描いたり、詩を書くのは、自分を表現したいからだ。
自己表現は、自分がどのような存在なのか知りたい不安を、紛らわすために役に立つ。精神病の療法の1つとして、患者に絵を描かせることが行われるが、無意識に自分の中心を探し求めているのだ。
芸術の根源は神事から
芸術の根源は世界のどこでも、神事から始まっている。宗教祭祀と結びついていた。
日本でも音楽や踊りは、神々に奉納することから始まったし、どの民族についても同じことがいえる。西洋音楽は賛美歌から発した。はじめはただ声を合わせるオルガヌムから、複音楽であるポリフォニーへ発展した。
シェイクスピア劇の源流
シェイクスピア劇の源流も、教会で演じられた寸劇に求められる。シェイクスピアは16世紀から17世紀に活躍した。イギリスでは14世紀ごろから、祝祭日に聖書の物語をもとにしたコベントリー劇とか、ヘッジ劇と呼ばれた宗教劇や、艱難(かんなん)の末に神に救いを見出す、エブリマンという道徳的な寸劇が、教会で上演された。
芸術は人の心を表わすから、万国に共通している。
遠く離れた文化の間で、よく似ていることがある。私は中国を訪れたときに、新疆のウイグル族が織った絨毯を贈られたが、図案がアメリカ・インデアンの織物の柄を思わせる。チベットの曼陀羅は東方教会のイコンにみられる、キリストの後光の図柄に通じている。
心を打つ作品
絵であれ、彫刻、小説であれ、心を打つ作品は誰にでも訴える力を持っているから、普遍性を備えているものだ。どうしてなのか。
芸術には難解なものが少なくない、遊びだから楽しめさえすればよいが、作家というよりも、自称芸術家と呼ぶべき人たちの作品は、独り善がりのものだ。人は何か創ってみたいという衝動を感じるから、自分のためだけであってならないわけはない。
独り善がりであっても、精神病理学の分野で治療法として使っているから、悪いことではない。しかし、自分しか満足できない作品は、芸術と呼べない。自慰的で普遍性がない。
芸術は独創的なものであるべきだ。しかし、私は優れた作品は、個人のスタンドプレイではないと思う。優れた作品は、作者1人に属するものではないはずだ。
才能は無限の可能性をもつ
才能は不可抗力のようなものだ。持って生まれたものや、育った環境によって作られる。
このごろ流行している英才教育といった教育論では、どんな子供でも肥料さえやればよいように説かれているが、その子供がもとから秘めている才能を伸ばすのには役立とうが、どの子供にも効果があるものではなく、ほとんどの場合、親の自己満足のために、子供を苦めている。
優れた作家は内的な強い衝動に促されて、創作活動に取り組むと思う。だから受け身なのだ。才能が不可抗力であるのと、似ている。
個人は自分の中に個人的な意識されない意識と、1つの共同体に属していることから、目に見えない根のような、全員に共通している普遍的な意識を持たされている。日本人なら個人としての自我の他に、無意識の中に共同体の意識が植えつけられている。私たちは目に見えない糸によって、しっかりと結ばれている。
芸術はこのような普遍的な意識が、恵まれた作家を通して形になるものだと思う。いってみれば、火山のようなのだ。このような無意識の意識が、地下マグマのように燃え盛っており、才能のある個人が火口のように選ばれて、爆発するのだろう。
このように考えると、作者は部族的な代表なのだ。作家は媒体ということになる。優れた作品が、その時代の人々の心を強く捉えるから、作品はひとりだけのものではない。人々が共有しているものが、表現されている。
偉大な作品は時代精神を体現する
偉大な作品は時代精神を表している。思いつくままにあげれば、ドストエフスキーの『悪霊』は、リベラルなインテリの息子が悪霊に取り憑かれ、過激派になる物語である。その後にくるスターリン時代を、生々しく予言している。T・S・エリオットの詩の『荒地』は、現代人の精神を見事に描いている。
T・H・ローレンスの『チャタレー夫人の恋人』は、急速に都市化と機械化してゆく社会における、男女の新しい性を描いたものだ。作者はこの作品によって受難したが、書かねばならない衝動に駆られたのだろう。
ニューヨークの近代美術館の心
私はニューヨークの近代美術館を訪れると、マックス・ベックマンの絵の前で足を停める。第1次大戦後のドイツの表現派の巨匠だが、大戦による人間への幻滅から、グロテスクでサディスティックな絵を描いている。
このところ、日本で火山活動が活発になっているが、きっと優れた作家は地殻の弱い箇所に当たるのだろう。時代の要請に応えて、出てくるのだ。
かつて神話は、心にあった象徴的なものを表わしていた。神話は遠い過去に追いやられたが、現代のエピック――民族の姿を描いた叙事詩を創りだす人々が、同じ役割を果している。
優れた宗教家や、政治家についても、同じことがいえよう。なぜ、イエスは磔(はりつけ)になる危険まで冒して、愛を説いたのか。明治維新の若い志士たちは新しい日本を創ったが、日本が彼らを創ったのだった。
優れた作家の輩出は何か
この30年ほど、日本には優れた作家が現われない。宮沢賢治、小川未明、小林多喜二、安倍公房、三島由紀夫、小津安二郎、黒沢明といったような人々が出なくなってしまった。
私は都心の麹町に住んでいるが、利に聡い不動産屋の手によって、45、6階もある新しいビルが、つぎつぎと建つようになっている。人が小粒になったのは、このような巨大な建造物のためだろうか。
萩にかつて吉田松陰が教えた松下村塾の小さな日本家屋が、残っている。部屋が2つしかなく、畳が摩り切れているが、人間の体の大きさに適っている。
飽食の時代に入って人々が苦しむことがなくなり、共同体の意識が薄れたために、社会が真剣味を欠くようになったからに違いない。