落葉松亭日記

ニュース・評論スクラップ、凡夫の日々雑感、山歩記など

快調・鶴竜

2012年03月19日 | 日常・身辺
大相撲大阪場所9日目。鶴竜(寄り切り)白鵬。
白鵬・鶴竜戦、TVがないので銭湯へ観に行った。
半年ぶりに見る鶴竜は、身体も大きくなった。
攻防はあったが、終始鶴竜が攻めていたように思う。
控えに座っている両者の顔、白鵬は先場所鶴竜に負けた相撲が頭の中に去来していたのではないか。
鶴竜は、集中にこれ努めている風情だった。快調な人は顔もいい。
昨日鶴竜に勝った稀勢の里はあっけなく、なすすべなく琴欧洲に寄り切られた。
安定するには何かが足りないんだよな。
一敗:白鵬、把瑠都、鶴竜
鶴竜、大関昇進をぐっと引き寄せたのではないだろうか。


縄文土器は世界最古級

2012年03月18日 | 歴史
日本文明は中国・韓国から渡来し発生したというのが、当方のような年代の習った歴史観だった。
発見された縄文土器の古さなど、近年の研究成果ではそうではなく、世界四大文明発祥の地よりも古いもののようである。
小さな島国日本、しかしその歴史の古さは人類史上最古級となれば、ちょっと嬉しい気がする。

青森県太平山元(おおだいやまもと)遺跡土器 1万6,500年前
ロシア沿海州 1万5,000年前
中国長江(揚子江)中流域の南部 1万8,000年~2万年前
南アジア、西アジア、アフリカでの最古 約9,000年前
ヨーロッパ 約8,500年前

にもかかわらず、中学校歴史教科書各社の表現には開きがあり、依然として中国・韓国の下流歴史観に基づくものが多いらしい。
■■ Japan On the Globe(740) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■H24.03.18
国柄探訪: 歴史教科書読み比べ(2)~ かけ離れた縄文人の自画像
 二つの教科書に描かれた縄文人の姿は、こんなにかけ離れている。

http://blog.jog-net.jp/
■遅まきながらツイッターを始めました。
==> ise_masaomi  https://twitter.com/#!/ise_masaomi

■1.「世界最古の土器」

 我が国の源流とも言うべき縄文時代で、扶桑社と東京書籍の歴史教科書を比べてみると、前者には明記されているのに、後者には書かれていない重大ポイントがある。
__________
(扶桑社) 今から1万数千年前、人々は、食物を煮炊きしたり保存したりするために土器をつくり始めました。これらの土器は、その表面に縄目の模様(文様、もんよう)がつけられることが多かったため、のちに縄文土器とよばれることになります。
これは世界で最古の土器で、縄文土器が使用されていた1万数千年前から紀元前4世紀ごろまでを縄文時代とよび、このころの文化を縄文文化といいます。[1,20]
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__________
(東京書籍) 今から約1万年前、氷河期が終わり、海水面が上昇したため、それまで大陸の一部であったところが島となり、日本列島ができました。
 そのころ、人々は土器をつくり始めましたが、その土器は、表面に縄目のような文様がつけられていることが多いので、縄文土器と呼ばれています。このため、このころの文化を縄文文化、この時代を縄文時代と呼びます。[2,p18]
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 扶桑社版によれば、「日本の縄文時代は1万数千年前に始まり、世界で最古の土器を作り出した」のに対し、東京書籍版では「約1万年に始まった」とし、「世界最古」という記述はない。

■2.日本の土器は世界最古?

 土器は、文明度を計る重要な目安である。旧石器時代には、人類は移動生活を送りながら、狩りや木の実の採取などで暮らしていた。道具と言えば石を砕いて作った石器ぐらいしかなかった。
 そこに土器が発明されると、煮炊きが可能となって様々な動植物を食料とすることができ、さらに食料の保存もできるようになる。それによって、人類は定住生活を営めるようになった。
 また土器は土をこねて作るので、模様をつけたり、火焔の形を作ったりと、芸術表現も可能となる。こうした生活の一大進歩を象徴しているのが、土器の登場なのである。
 その土器を世界で最も古い時代に作り出したということは、当時の世界でも日本列島は文明的には最先端にいた、ということになる。

 日本の土器が「最古」というのは、本当なのだろうか? 現在、世界最古と考えられている土器の一つが、青森県大平山元(おおだいやまもと)遺跡から出土したもので、約1万6500年前。これは模様のない無文土器だが、約1万4500年前ごろには、粘土ひもをはりつけた「隆線文土器」が生まれ、全国に広がっている。

 世界の他の地域では、南アジア、西アジア、アフリカでの最古は約9千年前、ヨーロッパが約8500年前で、これらに比べると、飛び抜けて古い。

 岡村道雄・元文化庁主任文化財調査官は、日本列島の土器は「質量ともに世界の他の時代や地域のものとくらべても際立っている」と述べている。[3,p55])

■3.「森の民」が、いちはやく土器づくりを開始した

 ただ日本海の対岸であるロシア・アムール川流域(沿海州)では約1万5千年前の土器が出土している[4]。さらに、近年の中国考古学の発展によって、2万~1万8千年前の土器が長江(揚子江)中流域の南部で見つかっている。
 したがって厳密には「世界最古」と言うより、中国南部や沿海州と並んで、「世界最古級」の土器、というべきであろう。
 これらの地域で先進的な土器作りが始まった理由を、環境考古学の国際日本文化研究センター教授・安田喜憲教授は、こう述べている。

__________
 最終氷期の東アジアには、北と内陸部の草原地帯、南と海岸部(JOG注: 日本海の両岸、すなわち日本列島と沿海州)の森林地帯という異質な2つの生態地域が明白なコントラストをもって分布していた。・・・
 最終氷期最盛期が終末に近づいた頃、「森の民」が、いちはやく土器づくりを開始し、世界にさきがけて定住生活に入ったということができるだろう。氷期から後氷期の気候変動のなかで、いち早く森林環境が拡大した中国南部において、土器は2万~1万8000年前の最終氷期最盛期後半に出現し、1万6500年前には日本列島北部から沿海州において土器づくりが始まった。[5]
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 この研究成果からすれば、定住生活と土器作りにおいては、中国南部から沿海州、日本列島にかけての地域は、世界の最先端を走っていた、ということができよう。

■4.「森の民」としての自画像

 ここで注意すべきは、この長江流域の「森の民」とは、1万年以上も後に草原地帯である黄河流域で中国文明を興した畑作牧畜の漢民族とは異なる、という点である。
 安田教授は、6300年前に長江流域で、巨大文明が誕生していたことを発掘調査で明らかにした。それは長江を利用して稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であり、漢民族による黄河文明よりも、千年も早い。この長江文明の祖先が、長江流域で世界にさきがけて定住生活に入った「森の民」だろう。

 弊誌402号「日本のルーツ? 長江文明」では、この長江文明の民が、4200年前の気候の寒冷化で黄河流域から南下してきた漢民族に敗れ、一部は中国南部の少数民族となり、他の一部は台湾や日本に渡った、という安田教授の仮説を紹介した。[a]
 前節で紹介した安田教授の研究は、さらに遡って、我が国が縄文時代から、長江流域の「森の民」と密接な関係にあったという仮説を示している。
 縄文時代の日本列島が、長江流域や沿海州とともに、世界に先駆けて定住生活に入り、先端的な土器作りを始めた、という点は、日本人の自画像を描く上で、大切なポイントである。

■5.縄文人たちの高度な技術と文化

 縄文文明の先進性を物語っているのが青森県の三内丸山遺跡である。育鵬社版では口絵の見開き2ページで、イラスト、写真を使って説明している。説明文にはこうある。[1,p16]
__________
 これは、今から約5500~4500年前に青森県で栄えていた縄文時代の集落跡・三内丸山遺跡です。縄文人たちは、私たちが想像する以上に高度な技術と文化をもち、豊かな共同生活を営んでいました。
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 そこには、長さ32m、幅9mの大型竪穴住居や、高さ14.7mの櫓(やぐら)状の建物の復元写真、さらには北海道や長野、新潟から運ばれたひすいや黒曜石の飾り石などを写真で紹介している。
 縄文時代の人々が、毛皮をまとい、狩りをしたり、貝や木の実を採集して原始生活を営んでいた、というイメージはすでに過去のものとなっているのである。

■6.中国文明の後で、日本列島の原始生活イラスト

 一方、東京書籍版が描く縄文時代は、この過去のイメージから脱却していない。「2 文明の発生と東アジア世界」では、世界の文明の進展状況を以下の順で記述している。

・「新石器時代」 今から1年ほど前、土器や磨製石器を使うようになった。
・「文明の発生」 アジア、アフリカの大河のほとりで、国ができた。いわゆる中国、インダス、メソポタミア、エジプトのいわゆる四大文明。
・「中国の古代帝国」 殷の甲骨文字(3600年前)、秦の始皇帝陵の兵馬俑(へいばよう)(2200年前)、儒学、シルクロード経由の仏教。(なぜか、「紀元前後に朝鮮北部には高句麗が興る」と、とってつけたような記述もある)

 こうして中国文明の先進ぶりを詳しく紹介した後で、「3 縄文文化と弥生文化」の章で、ようやく日本列島が登場する。最初のイラストは、小さな竪穴式住居の周辺で毛皮をまとった人々が、土器を作ったり、小舟で魚取りをしている集落の様子だ。

■6.毛皮を着た原始人がどうして高さ15mの建物を建てられたのか?

 せいぜい3600年前から2千年前の中国文明を記述した後で、いきなり1万年前の日本列島の様子を、しかも原始生活の想像図で描く、という構成では、中国では文字を発明したり、儒学を興したりしていた時代に、日本列島では毛皮を着た原始生活をしていた、という誤解を中学生たちに与えかねない。
 前述のように、最新の研究成果によれば、日本列島は長江流域に続いて1万6500年前には定住生活に入り、土器を作り出していた。黄河流域で漢民族による中国文明が興るのは、その1万年以上も後の全く別時代のことである。
 さすがに三内丸山遺跡に関しては、1ページのコラムで紹介しているが、縄文時代の本文とは離れて、弥生時代の記述の後に出てくるのみで、しかも原始生活のイラストや記述との関連性はまるで語られていない。
 イラストに描かれた原始生活と、高さ15mもの建物が同じ縄文時代だと気がついて、毛皮を着た原始人が、どうしてこんな巨大な建物を建てられたのか、と疑問に思う中学生はごく少数だろう。

 逆に、この三内丸山遺跡のコラムは、本文の「弥生文化の成立」で、「大陸(おもに朝鮮半島)から渡来した人々によって」稲作や金属器が伝えられた、と述べたページの直後に置かれているので、これも中国・朝鮮から伝わった技術かと、勘違いする中学生も出てくるだろう。
 こんな不自然な記述順序では、先進的な中国文明が朝鮮を通じて、原始生活を送っていた日本列島に入ってきた、という誤った先入観を植え付けかねない。

 一方、育鵬社版は、年代順に「2 豊かな自然と縄文文化」で、縄文土器や三内丸山遺跡を述べた後に、「3 文明のおこりと中国の古代文明」に入っていく。これが自然な構成である。

■7.縄文人の後進性を強調する東京書籍版

 縄文人の生活に関しても、両者の記述ぶりは大きく異なる。東京書籍版はこう述べている。
__________
 縄文時代には、植物の栽培が始まりましたが、木の実やけものや鳥、魚や貝などが豊富にあったため、農耕や牧畜は、あまり発達しませんでした。人々は集団をつくり、たて穴住居に分かれて住みました。海岸や水辺には、食べ物の残りかすなどを捨てた貝塚ができました。[2,p18]
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 自然の食べ物が豊富にあったので、「農耕や牧畜は、あまり発達しませんでした」と否定的な表現をしている。この点は、時代を逆転させて、この前に「アフリカやアジアの大河のほとりでは、農耕や牧畜が発達し」と述べていたのと対比した記述であり、縄文人の後進性をことさらに強調している。

■8.縄文人の生活を生き生きと描く育鵬社版

 これに対して、育鵬社の教科書は、当時の人々の生活の有様を生き生きと描いている。土偶の写真とともに、以下のように述べる。
__________
 また、この時代の遺跡からは、神殿や、女性をかたどった土偶とよばれる人形(ひとがた)が見つかっています。土偶は、豊かな自然のめぐみや子孫繁栄などを祈るためにつくられたと考えられています。[1,p21]
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 縄文人の食生活についても、具体的に記述されている。
__________
 縄文時代の人々の生活は、魚介類をとったり、狩猟や採集を中心とするものでしたが、クリやクルミ、あわやひえなども栽培しており、原始的な稲作も始まっていました。また、干物や塩漬けなどの保存食や、木の実を原料とした酒をつくる技術をもっていました。こうした食料をたくわえる技術の進歩が、人々の定住化をうながしました。
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 さらに、季節ごとに、夏はイワシやカツオなどの漁労、冬はイノシシ、シカ、ウサギなどの狩猟、春や秋はゼンマイやクリなどの採集をしていた図を示し、「縄文人は、季節ごとの自然のめぐみに合わせて、規則的な生活を送っていた」と紹介している。

 このような記述のあとで、育鵬社版は、こう結論づけている。

__________
 人々が豊かな自然と調和して暮らし、約1万年間続いた縄文時代は、その後の日本文化の基盤を作りました。[1,p20]
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 東京書籍版が、縄文人を単に文明の遅れた原始人として、突き放して記述しているだけなのに対し、育鵬社版は、最新の研究成果に基づいて、高度な技術と文化を持ちながら、豊かな自然の中で調和して暮らしていた我が祖先の姿を、生き生きと描き出している。

 多感な中学生時代に、どちらの教科書で自画像を学ぶかによって、人格形成上でも、大きな違いが出てくるだろう。

(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(304) 日本のルーツ? 長江文明
 漢民族の黄河文明より千年以上も前に栄えていた長江文明こそ、日本人のルーツかも知れない。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h15/jog304.html

b. JOG(134) 共生と循環の縄文文化
 約5500年前から1500年間栄 えた青森県の巨大集落跡、三内丸山遺跡の発掘は、原日本人のイメージに衝撃を与えた
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h12/jog134.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 伊藤隆他『新しい日本の歴史─こんな教科書で学びたい』★★★、育鵬社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594064019/japanontheg01-22/br>
2. 五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み

3. 岡村道雄『日本の歴史01 縄文の生活誌』★★、講談社学術文庫、H20
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/406291901X/japanontheg01-22/

4. asahi.com、H21.10.03「日本の土器、世界最古なの?」
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200910030143.html

5. 安田喜憲「長江流域における世界最古の稲作農業」、『ARDEC』、H16.3
http://www.jiid.or.jp/files/04public/02ardec/ardec29/key_note3.htm



姫路市 増位山

2012年03月16日 | 散歩・山歩き
3月14日(水) 快晴
姫路市・増位山(259m)
寒く雲の多い天気が続いていたが、この日は移動性の高気圧におおわれ快晴となった。
朝は氷点下の冷え込みだったが、昼間は風もなく早春のハイキング日和。
姫路以西方面へ行くときはいつも高速道路を行ったが、今日はのんびりと西神戸から加古川、姫路へと県道65号線を往復した。









ホームページ・スライド↓
http://karamatsutei.web.fc2.com/h24/0314masuiyama.htm


温家宝の爆弾

2012年03月15日 | 政治・外交
中共全人代最終日後、温家宝首相が「最後」の記者会見を行った。
「人民主義者、庶民的、温爺さん」と親しまれている温家宝首相だが、その内容は守旧派にとっては攻撃的であったという。
氏の民主化行程は広東省の「鳥炊村の民主選挙がモデル」と述べたそうだ。
中共政府の独裁が如何に強いものであっても、人民の改革意識が強ければいつか民主化は成るものと思う。
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成24(2012)年 3月15日(木曜日)
通巻第3586号 
http://www.melma.com/backnumber_45206/

 政治改革に失敗すれば、中国はふたたび文革の悲劇に直面する
 温家宝首相、最後の記者会見で党内の守旧派をあからさまに攻撃


 凄まじい内容の記者会見なのである。
 ところが日本のメディアを読む限り、その空気はまるで伝わらない。産経は解説面でくわしく権力闘争の闇を照射したが、日経は小さく温首相会見の要点をまとめているだけ。
読売と朝日が薄重慶市党書記批判と同市副市長だった王立軍の取り調べ厳格化に言及した温首相会見を報じているが、大きな見出しでもない。

 対照的に英誌フィナンシャルタイムズ、米紙ヘラルドトリビューンは一面トップ記事。とくにFT紙は、「温首相、守旧派を攻撃(attack)」という語彙を用いている。

 何があったか?
 全人代最終日(3月14日)に記者会見に応じた温家宝首相の「独演」と「「毒舌」は三時間以上も続いた。
 会場には内外記者団がぎっしりとなたtなった。

「政治改革が進まなければ中国は文革の悲劇に再度、見舞われるだろう」と彼は警告した。「とくに党と国家の制度改革」と曖昧な表現が示唆するのは「民主化」のことである。胡耀邦の名前をださなかったが、温の心中には胡耀邦がある。

「四人組を排除し、改革開放に努力してきたと雖も、依然として封建的制度が残存しており、このまま改革を加速しなければ、あの文革の悲劇がやってくる」
 この温の発言が意味するところは党幹部の腐敗、汚職、そして貧富の差の拡大が民衆に共産党への怨念を植え付け、やがては鋭角的対立から社会騒擾へ発展する危険性を指摘したのだが、一種の予言とも取れる。


▼しかし「改革」を獅子吼しても党内は失笑するだけ

そして重慶書記が繰り広げた「毛沢東万歳」「革命かを唱え」というアナクロな政治キャンペーンを温家宝首相は明瞭に非難した。「生産と分配が不公平であり、誠意と信頼を欠いており、経済改革はいくぶん進捗したかも知れないが、汚職と腐敗はなくならず、このため政治改革が遅れている」。

 「王立軍事件は厳格に取り調べる」とも発言した。
これも薄き来への牽制という解説が多いが、じつは薄き来の失脚があきらかな状況なのに、全人代に薄書記が登壇し、にこにこ笑い、そのうえ会期中に記者会見に応じて「悪い部下を使った」などと責任を転嫁した。
人民大会堂の壇上では徐才厚(上将。軍事委員会副主任。江沢民派)と意図的な握手をして、まだ党内高層部では薄を庇護する勢力があることを見せつけた。
そのことへの牽制球を温発言には含まれた。

 「民主化はは、どういう行程か?」との問いに「鳥炊村の民主選挙がモデル」と賞賛し、暗に広東省書記の王洋を擁護したが、具体的な党改革のプログラムや、リーダーシップ改革の内容には触れず、「いずれ歴史が結論を出すだろう」と温家宝は記者会見を結んだ。

 とはいえ、党内で温家宝首相の立場は孤立しており、あるいは喧しい「カイカクヤ」と疎んじられ、「いつも五月蠅(うるさ)いことをほざくジィさん」としか認識されていない。これも悲劇である。だから悲劇は倍加する。

全人代閉幕 温首相が“最後”の会見 政治体制改革に改めて意欲 2012.3.14 21:32
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120314/chn12031421330003-n1.htm

 中国の第11期全国人民代表大会(全人代=国会)第5回会議は14日、北京の人民大会堂で刑事訴訟法改正案などを採択して閉幕した。来年3月で退任する温家宝首相は閉幕後の“最後”の記者会見で、改めて政治体制改革に強い意欲を示した。

 温首相は「永遠に人民とともに歩む」と宣言し、任期中に発生した経済や社会の問題の責任は自分にあるとの考えを示した。その上で、「成し遂げていない仕事がある」と述べ、志した改革の停滞に遺憾の意を示した。

 経済発展に伴い、中国国内では汚職や貧富の格差、党・政府に対する不満が膨らんでいる。現状では経済的成果を失うとの危機感を持つ温首相は「文化大革命の誤りや封建的な影響は完全には払拭されていない」などと述べ、政治改革の必要性を強調した。

 さらに、次世代指導者の一人と目されてきた薄煕来氏が党委書記を務める重慶市の王立軍副市長が米総領事館に駆け込んだ事件について、「真剣に事件の教訓をくみ取らなければならない」と述べ、薄氏を牽(けん)制(せい)した。

 全人代では来年度予算案や最高人民法院(最高裁)、最高人民検察院(最高検)の活動報告も承認されたが、腐敗問題が改善されていない現状を受け、いずれも反対や棄権などの批判票が20%前後に上った。(北京 川越一)

腐敗と汚職、持ち逃げ
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成24(2012)年 3月14日(水曜日)
通巻第3584号 <3月13日発行>
http://www.melma.com/backnumber_45206/
 どんなことにも驚いたりはしませんが。しかし、これは驚愕の事実!
 中国国会議員の57%は外国籍パスポートを所有、財界人は77%です


 博訊新聞網(3月12日付け)が次の衝撃の報道をしている。
 全人代委員のうち、57・47%が外国パスポートを所有している。政治協商会議のメンバーは76・77%だという。
 博訊新聞は、この数字さえ『控えめ』であり、党高官のうち、局長以上の85%が外国パスポートを保有していると伝えた。

 江沢民の『三個代表論』以後、ブルジョアジー、実業家、財界人にも党籍を認め始めた中国共産党は、党の高官が海外に不動産、預金を持つことはいまや常識、子供を欧米へ留学させている。

党高官のうち3000名は既に逃亡し、公式発表で1000億ドルが海外へ持ち出された。公式発表の三倍が常識の中国であるからに、およそ3000億ドル以上が外貨準備から消えているという推測がなりたつ。
同紙は2010年推計で、海外へ逃亡したカネは2378億人民元(およそ3兆円)と推計した。
 
 冒頭の数字は中国共産党紀律委員会のデータとされ、また全人代議員のポストは、1500万人民元(およそ二億円)で『買える』(中国では高官のポストを買うのは常識)。

政協メンバーは交際費(買収を含め)が2500万元(3億3000万円)が相場なそうな。


どこまで沈むのか

2012年03月12日 | 政治・外交
春分まであと一週間、今日は雪が舞い寒い一日。
石原さんは「この国はタイタニックと同じになる」とハッパをかける。
船腹に大きな穴があいて冷たい海水が入ってきているのに、閣僚は「へらへら笑っている」らしい。
石原都知事「この国はタイタニックと同じになる」 政治再構築の必要説く 2012.3.11 20:58
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120311/stt12031120590002-n1.htm

 石原慎太郎東京都知事は11日、東京・元赤坂の明治記念館で開かれた式典「日本人の原点『祈りの日』」で講演し、日本の既成政党に対し「自民党は大嫌いだし、民主党は話にならない。応援団長をしているたちあがれ日本も、ちっとも立ち上がれない」と不満を示した。その上で「年を取りすぎて愚痴ばかりになっているが、本気でこの国を考えないとダメだ。この国は下手してタイタニック号と同じになる」と述べ、新たな政治の枠組みが必要との考えを示した。

 また、「今年は日本だけでなく世界中が厄介な問題を抱える」として、地球温暖化や欧州経済危機、イランの核開発をはじめとする中東情勢などの問題が日本にも波及すると指摘した。

石原、亀井両氏が会談 「民主みたいな口先だけとは違う」 2012.3.11 20:16
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120311/stt12031120170001-n1.htm

 東京都の石原慎太郎知事と国民新党の亀井静香代表は11日夕、都内のホテルで会談した。新党構想で意見交換したとみられる。
 亀井氏は会談後、記者団に対し「(石原氏は)『行動しなければ意味がない』とさかんに言っていた。彼とは同志だ。民主党みたいに口先だけで何もやらないのとは違う」と強調した。

閣僚たちは「へらへら笑うな!」と一喝された由
ヤンキー先生、緊張感ない首相・閣僚を一喝「へらへら笑うな!」 2012.3.9 22:29
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120309/plc12030922330016-n1.htm

 「あまりにも態度が悪すぎる! 何を笑っているのか!」-。「ヤンキー先生」こと自民党の義家弘介氏が9日の参院決算委員会で、野田佳彦首相や閣僚を一喝する場面があった。
 義家氏は同僚議員が質問している間の閣僚の態度を問題視。「真剣な質問にへらへら笑ったり、隣の閣僚と話したり。日本の現状はそんなに甘くはない!」と訴えた。
 「そうだ!」「決算をやれよ!」との怒号が飛び交う中、注意された閣僚はシュンとした様子だった。


wikipedia より


歯止めなし対中支出

2012年03月08日 | 政治・外交
中国ハルバ嶺の遺棄化学兵器処理事業はあの河野談話の主・河野洋平氏が深く関わった。
これらの化学兵器は遺棄したものではなく、日本軍が武装解除されたとき中国軍やソ連軍に「引き渡された」もの。「兵器引継書」「引渡兵器目録」も国内の山形県シベリア資料館や防衛省に保存されている。

政府は『引き渡したことを明確に証明する書類は依然、見つかっていない』と言い続け、延々とこれからも事業を続けるという。
これまで、この事業が縮小、建設見送りされた時期があったにもかかわらず復活し、依然として続くのはなぜだろうか。
すでに861億円…際限なき対中支出に歯止めを 2012/03/03 09:55
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/diplomacy/547962/

 【土・日曜日に書く】
 ◆処理事業を10年再延長
 旧日本軍が中国に遺棄したとされる化学兵器の処理事業で、日中両政府は先月16日、化学兵器禁止機関(OPCW、本部=オランダ・ハーグ)に対し、処理期限を10年後の平成34(2022)年まで再延長することを申請し、受理された。

遺棄化学兵器処理、10年間再延長
【産経抄】2月18日
 この事業は化学兵器禁止条約(CWC)に基づき、12年9月から始まった。当初は発効から10年の19年が完了期限だったが、5年間延長され、それでも完了の見通しが立たないための再延長だ。
 これまでに4万8千発の遺棄化学兵器を発掘し、3万6千発の廃棄を終えた。しかし、大量に遺棄されたとされる吉林省ハルバ嶺には、まだ30万~40万発が残っているといわれる。
 今回の日中間の合意には、ハルバ嶺での廃棄計画を3年以内に作成することも含まれているが、このペースだと、事業がいつ完了するかのメドは全く立っていない。日本はすでにこの事業に861億円を投じ、24年度予算案にも208億円を計上している。際限のない中国への税金の支出が延々と続くことが懸念される。

 ◆河野洋平氏が深く関与

 この遺棄化学兵器の問題には、宮沢喜一内閣の官房長官で村山富市内閣の外相を務めた河野洋平氏が深くかかわっている。
 化学兵器禁止条約は、イペリット、ホスゲンなどのいわゆる“毒ガス”兵器の開発、製造、貯蔵、使用の禁止を目指したものだが、中国の強い希望で「廃棄条項」(第1条3項)が盛り込まれた。世界で化学兵器の遺棄を認めている国はなく、事実上の「日本専用条項」ともいわれた。
 終戦時、旧日本軍はほとんどの化学兵器を中国軍や旧ソ連軍に引き渡しているはずで、「遺棄」には当たらないとの見方が政府内にあった。しかし、河野氏は旧日本軍が引き渡したことを証明する書類がないとして、中国に有利な処理策を推し進めた。

 日本は宮沢内閣の5年1月、この条約に署名し、村山内閣の7年9月に批准した。さらに、小渕恵三内閣の11年7月に締結された遺棄化学兵器処理に関する日中覚書は、日本が処理費用をすべて負担し、将来の事故も日本が補償するという内容だった。

 ◆引き渡した文書を発見

 だが、その後、旧日本軍が中国軍や旧ソ連軍に化学兵器を引き渡したことを証明する資料が、月刊誌「正論」編集部やジャーナリストの取材で次々と見つかった。
 山形県のシベリア資料館に、中国で日本軍が武装解除された際に引き渡した化学兵器を含む武器・弾薬類を詳細に記した「兵器引継書」が600冊残っていた。
 防衛省の防衛研究所には、日中両政府が化学兵器の「あか筒」や「みどり筒」を台湾で中国軍に引き渡したことを記した「引渡兵器目録」が保管されていた。
 終戦後、中国大陸で旧日本軍が化学兵器を引き渡したことを示す「支那方面艦隊引渡目録」など3点の文書が防衛研究所に保管されていることも明らかになった。

 化学兵器をめぐる訴訟でも、化学兵器が旧日本軍製でないとする証拠が示された。


 1974、82、95年に中国・黒竜江省で起きた遺棄化学兵器による3件の事故をめぐる訴訟で、1審・東京地裁は国に1億9千万円の支払いを命じた。国側は、うち1件の事故原因となったイペリット入りのドラム缶が旧日本軍のものより一回り大きく、旧日本軍製にはないアルファベット文字の表記があることを突き止め、平成16年4月の控訴審第1回口頭弁論で、「旧日本軍の兵器とする証拠は十分ではない」とする控訴趣意書を提出した。

 ほかにも同種の訴訟が継続しているが、この訴訟は中国人原告の敗訴が確定している。
 18年2月の衆院内閣委員会で、当時の内閣府遺棄化学兵器処理担当室長は「正式に中国やソ連に化学兵器が引き渡されたという文書が発見されれば、基本的な枠組みが変わってくる」と答弁した。

 しかし、政府は今も、「引き渡したことを明確に証明する書類は依然、見つかっていない」と言い続けている。
 遺棄化学兵器処理事業で日本が中国に払い続けなければならない費用は、償還が前提の円借款と異なり、無償援助に近い。しかも、総額は皆目、見当がつかない。
 処理事業が予想以上に困難であることが分かり始めた17年ごろ、「処理事業が長期化すれば、1兆円規模の巨大プロジェクトになる」「第2のODA(政府開発援助)になるのではないか」との指摘もあった。その懸念が現実のものとなりつつある。際限のない中国への支出に歯止めをかけるため、事業の見直しが急務である。(論説委員・石川水穂)


批判すると「お呼び」がない

2012年03月05日 | 政治・外交
原発事故で政府を批判してきた武田教授。
アキ菅から原子力関係専門委員の辞令(2012年9月まで)を貰っていたそうだが、昨年も今年も一向にお呼びがないという。
「政府の委員会に出ている人は御用学者だけ」ということの証明?
(不謹慎ではあるが)オモロイことになってまんなぁ。
武田教授のホームページより
http://takedanet.com/2012/03/post_30dc.html

御用学者の生き証人

日本は体裁上は「民主主義」ということになっているし、すべての手続きは「民主的」に行われていると考えられています。そもそも、自由民主党という自由と民主を掲げた党が長い間、政権を担い、さらに2年余前にはついに「民主主義」だけを標榜した民主党という政権ができました。

もっとも、北朝鮮と一般的に言われる国は「朝鮮民主主義人民共和国」というのがたかし正式名称ですが、国会議員の選挙も主席を決めるのも「人民」がそれほど関与せず、3代にわたって世襲が行われています。
北朝鮮は情報が制限されていて、民主的国家ではないと批判する人もいますが、日本も似たような国家になったのではないかとも思います。特に原発関係の情報の操作はかなり露骨でしたし、今でも「1年1ミリなんて、法律にあるの?」などと環境省が言っている始末です。

民主党は、「消費税の増税はやらない、沖縄基地は県外に移転する、高速道路料金や高校無料化などの公約」をかざして選挙に圧勝しましたが、公約のほとんどすべてを実施せずに政権の座に着いているのですから、「2009年の総選挙はなかった」と考えた方がよい状態です。

主たる公約の他にも尖閣諸島事件では情報を公開しなかったし、原発事故に至っては恐怖政治とでも言える状態が続いています。岩手県の児童の尿の検査では、給食をとっていた児童の方が給食を食べなかった児童よりかなり尿中のセシウムが多かったようです。
さらに、アメリカから原発前後の会話記録が大量に公表されても、日本では「事故直後の議事録はとっていなかった」ということになるなど、民主的手続きとはまったく言えない状態が続いています。

でも、どうも日本国民は「それでよい。民主主義でなくてもよい」と思っているような感じもするのが残念です。いわゆる有識者やマスコミの論調は「1年1ミリという被曝限度はもともと低すぎた。もっと被曝しても良いのだから、規則を破っても良いし、騒ぐ方が問題だ」ということに終始していますし、政府の言う「助け合う」、「風評被害」などの言葉をそのまま使っています。

有識者の方の本当の心の中は推し量れません。これまでレントゲン一つとるのにも警戒させていた医学関係者は福島の児童が1年20ミリ(胸のレントゲン400回分)になっても「適切」という判断をしていますし、従業員の被曝を平均1年1ミリに自主規制していた電力会社関係者も声を上げません。

私は実に奇妙な日本になったものだと思いますが、現実にそれを多くの知識人が支持しているというのはどういう理由でしょうか? 選挙公約を破っても問題ない、情報秘匿があっても民主主義だ、国の基本施策(被曝を避ける)は状況によって変えることができる・・・本当に多くの人がそう思っているのでしょうか?
・・・・・・・・・
日本は「民主主義」ではなく「官僚主義」ではないだろうかと疑います? かつて王様が支配しているように見えて、実は去勢された特殊な人たち「宦官」が宮廷の実験を握り、国を支配していた時代と似ているように感じます。

実は私は森首相の時代から原子力関係の専門委員の辞令をずっともらってきました。そして2012年9月14日まで菅首相直々の辞令をいただいています。これまで毎年、少なくとも6回ぐらいは委員会にでて意見を述べていました。
でも、2011年3月12日に福島第一原発の事故が起こり、私が政府の対応に批判を始めるから、すでに1年を経とうとしていますが、原子力委員会からはお呼びは来ません。原発があのような状態になったのだから、これまで批判的な発言があった私のような委員を呼んでその意見を聞くのが適当と思いますがお呼びはないのです。
実は私が菅首相からいただいた辞令について官僚は、「ああ、あれ。武田さんの辞令は形式的に首相の任命になっているだけで、地位は低いのだからいちいち首相にお伺いを立てることなどしませんよ.事務方で処理するだけです。」と言うでしょう。

実は昨年は委員会にまったく呼ばれませんでした。私は「政府を批判したのだから委員会からは呼ばれないのは当然だ」と思っていましたが、これこそは「武田が御用学者ではない証拠」でもあり、「政府を批判すると委員会から呼ばれない」という実例であり、「政府の委員会に出ている人は御用学者だけ」ということの証明でもあるのでしょう。
{政府の委員会は官僚の都合の良い人だけが選ばれる}ということになると、これは民主主義とは言えません。民主党の議員も当選したら国民との公約を破り、官僚側についているのですから、「日本人総官僚の下僕」となっているのは明らかです。

でも、もっと重要なことは、日本の有識者が「それでよい」と考えていることです。つまりこれまで「選挙に行きましょう」と呼びかけている人は悲憤慷慨しているはずなのですが、それはうわべだけのことだったようです。
(平成24年3月3日)武田邦彦


「中国人が南京大虐殺をどう歪曲しているのか」

2012年03月05日 | 政治・外交
冷静な中国人ジャーナリストもいる。
中国のブログに掲載された記事とのこと、中共当局の検閲にあわなかったのだろうか。
◎中国人が南京大虐殺をどう歪曲しているのか、とくと見てみよう―
2012年03月03日13時18分 提供:Record China
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=59266&type=

2012年3月2日、中国のジャーナリスト、王錦思(ワン・ジンスー)氏は「中国人が南京大虐殺をどのように歪曲しているのか、とくと見てみよう」と題した記事を中国のブログサイトに掲載した。以下はその内容。

河村たかし名古屋市長が堂々と「南京事件はなかったのではないか」と発言し、中国各界から怒りと抗議が噴出している。だが、実は中国人自らが南京大虐殺を歪曲していることは、ずっと見過ごされてきた。まずはこうしたやり方を直さなければ、われわれが日本人を責め立てることはできない。

新中国成立後、最初に南京に建てられたのは、蒋介石に処刑された20万人の共産党員を祀る「雨花台烈士記念館」だ。南京大虐殺記念館が建てられるのは、その30年後になる。
いわゆる「文化大革命」の時代には国民党に虐殺された革命烈士への追悼がブームだった。


当時、中国人は広島の原爆犠牲者に祈りを捧げに行ったが、誰も南京大虐殺の犠牲者を弔おうとはしなかった。
紅衛兵は「南京大虐殺は『国民党を殺した』もの」だと言い、遺跡を破壊し尽くした。
学術界でも、南京大虐殺の研究はタブーだった。
そんな中、立ち上がったのが南京大学歴史学部の高興祖(ガオ・シンズー)教授だ。

1972年、鈴木明氏が「『南京大虐殺』のまぼろし」などの文章を発表。
1982年6月、文部省が教科書の記述を改めさせる。
これに刺激を受け、中国の学者たちがようやく南京大虐殺研究を正式に申し出た。
1983年、南京大虐殺記念館の建設案が浮上、1985年に完成。

だが、初期の研究は民族感情が入り込み過ぎていて、とても研究と呼べるものではなく、「民衆に偏った歴史観を植え付けることになる」と警鐘を鳴らす学者もいた。
2007年、台湾の教科書から「南京大虐殺」の文字が消える。

中国人は、侵略行為を否定する日本に対し、常に感情論で反撃してきた。
例えば、日本人が犠牲者の数を30万ではなく20万ではないかと問えば、「30万より少なければ、虐殺がなかったというのか?」「1人でも殺していれば殺人だ」などと巧妙に回答をはぐらかす。

だが、戦後間もないころ、日本の戦犯の公判でレイプされた女性が出廷した時には傍聴席から笑い声さえ聞こえてきた。南京大虐殺をテーマにした映画を放映した時には観客から「看護士がレイプされるシーンが短すぎる、肌の露出も少ない」と苦情が上がったほどだ。

1985年~1997年、南京大虐殺記念館の参観者は延べ580万人、日本人は延べ18万人に上った。
なので、日本人が南京大虐殺を全く知らないという言い方は誤りである。
2002年、筆者が記念館に向かう途中に乗ったタクシーで、地元の運転手は「あの時30万人殺してもらってよかった。そうでなければ、今の南京はもっと人が多かった」と言っていた。

日本の旧軍人や中高生が記念館でひざまずいて大泣きする姿をしばしば見かけるが、中国人がそうしているのをあまり見たことがない。泣けないのであれば、せめて笑うべきではないと思うのだが、中国人の参観者が笑っているのを見たのは1度だけではない。

広島には「被爆者白書」があり、犠牲者の数も25万3008人と正確な数字が出ているが、南京大虐殺で名前が分かっている犠牲者は3000人ほどしかいない。
広島は1946年から毎年8月6日に追悼式典を行っているが、南京で追悼式典が始まったのは1985年。
広島には毎年首相が出席しているが、南京では市長さえも毎年来るか来ないかといった感じだ。

2001年12月13日、筆者は南京の追悼式典に出席したが、他の参列者はまるで縁日にでも来ているかのようにガヤガヤとうるさく、悲しみなど微塵も感じなかった。そこにいる全員が涙を流す必要もないが、せめて静粛にできなかったのか。筆者はその後、2度と記念館には行っていない。行くなら雨花台と決めている。

無数の血や涙が流れた南京にも平和が戻ってきた。そして、彼らは日本語を学び、日本資本を受け入れ、世界に向かって突き進んでいる。(翻訳・編集/NN)

●王錦思(ワン・ジンスー
) 吉林省出身、北京在住のジャーナリスト。北京大学でメディア学を専攻。日中歴史問題や抗日戦争史を研究課題としている。著書に「日本行、中国更行」。11年3月に日本で「中国『反日』活動家の証言」を出版。

※本記事は筆者の承諾を得て掲載したものです。

参考
■鈴木明著「『南京大虐殺』のまぼろし」
http://www.ne.jp/asahi/unko/tamezou/nankin/mabolosi/index.html


歴史の嘘

2012年03月04日 | 歴史
「私は嘘をついたことは御座いません」「それが嘘じゃないか」という笑い話がある。
近現代史では、証言や証拠が少なからず存在するにもかかわらずそれに反する嘘がまかり通る場合がある。
「嘘も100回云えば真実になる」とばかりに繰り返して「まことしやか」になったものがあるのかも知れない。中共の抗日記念館や先日の河村市長発言にあった「南京大虐殺」や韓国の「従軍慰安婦」もその一つだろう。
近隣国が嘘を云うのは「日本を貶め外交カードにして優位に立ち、何らかの利得とする」「政府の無能力から人民の目をそらす」などの目的がある。

「南京大虐殺」などのウソを見破る二つの方法。 2012/03/04
Japan On the Globe(739) 国際派日本人養成講座 メルマガより
http://blog.jog-net.jp/
■1.河村たかし名古屋市長の「南京大虐殺」否定発言

 名古屋市の河村たかし市長が2月20日、同市役所を表敬訪問した中国共産党南京市委員会の劉志偉常務委員らとの会談で、旧日本軍による「南京大虐殺」について「通常の戦闘行為はあったが、南京事件はなかったと思っている」と発言した。
 その根拠として、河村市長は、終戦時に父親が南京市にいたことを挙げて「事件から8年しかたってないのに、南京の人は父に優しくしていただいた」と指摘した。「南京で歴史に関する討論会をしてもいい。互いに言うべきことを言って仲良くしていきたい」とも述べた。

 これに対し、中国南京市は「河村市長は南京大虐殺の史実を否定、南京人民の感情を著しく傷つけた」として、名古屋市との交流を当面中止すると発表した。
 両者の姿勢は対照的である。河村市長は父親の体験を根拠として、「南京事件」はなかった、と主張しているのに対し、南京市の方は根拠も示さずに「史実」と決めつけている。
 さらに河村市長は「互いに言うべきことを言って仲良くしていきたい」とオープンな議論を前提とした友好を望んでいるのに対し、南京市の方は河村市長の主張自体が「感情を著しく傷つけた」として、議論そのものを拒否している。
 そもそも相手の主張に対して、自分の「感情が傷つけられた」などと非難するのは、単に議論を拒否して、自分の言うとおりにしろ、と言うのと同じである。中国の方が根拠も挙げずに「南京大虐殺」を主張して、日本国民の「感情を著しく傷つけた」ことはお構いなしだ。こういう姿勢から、真の友好が生まれるはずがない。

■2.中韓の自己正当化のための歴史

 近年、我が国は中国の「南京大虐殺」や韓国の「慰安婦問題」など、近隣諸国の歴史攻撃にさらされてきたが、「言いたいことがあっても我慢して、心から謝れば、許してくれる」という日本的な美徳が通用しない相手である事は、誰の目にも明らかになりつつある。
 やはり、相手の非難に対して、歴史事実がどうであったかを徹底的に反論する必要がある。その意味で、河村市長の「南京で歴史に関する討論会をしてもいい。互いに言うべきことを言って仲良くしていきたい」という発言は、国際常識に則った姿勢である。

 歴史のウソを政治宣伝に使うという手段は、古今東西を問わず、広く行われてきた。特に中国の歴代王朝は自らを正当化するために、前王朝の歴史を悪し様に書くことを伝統としてきた。
 現在の共産党政権も「日本軍の侵略から中国人民を解放した」ことを、正当性の根拠としており、そのためにも「南京大虐殺」のように日本軍の悪逆非道ぶりを言い立てる必要がある。

 中国文明の伝統を濃厚に受け継いでいる韓国も同様で、日本帝国主義から国民を解放したことを正当性の根拠としている以上、日本統治が立派であったなどとは、口が割けても言えない。政権末期になると、かならず「慰安婦問題」や「日帝(日本帝国主義)36年の搾取」を言い立てて、国民の不平不満を反日の方向にそらし、支持率を維持しようとする。

 中韓とも、歴史とは自政権の正当性を主張するためのカードであるから、彼らの歴史とは、史実を追究することを目指す近代的な歴史学などとは、似て否なるものである。[a]
 したがって、いくら学問的に論破しようとしても、相手が聞き入れるはずもない。しかし、まずは日本国民自身が彼らの主張の荒唐無稽さを十分に理解して、彼らの歴史攻撃をはねかえすだけの世論を持つ必要がある。本稿では、そのためのノウハウを二つ紹介したい。

■3.「脳裏再現性の原則」

 長浜浩明氏は『文系ウソ社会の研究』で、戦後左翼が語ってきた様々なウソを列挙し、そうしたウソの見破り方として、イザヤ・ベンダサンが『日本教について』で説いた原則を紹介している。その第一が「脳裏再現性の原則」である。ベンダサンによれば、
__________
「事実」を述べる場合は、語られた言葉のどこかに「明確な写生的表現」が含まれているのが当然で、それがないのは異常だと言うことは確かに言えます。[1,p239]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 人間が外部から得る情報の80%以上は、視覚を通じてだという。したがって、本当に本人が見聞したことなら、それを視覚的な光景として表現できるはずである。逆に脳裏に再現できない光景というのは、ウソである可能性が高いということになる。
 長浜氏は、この原則を「南京大虐殺」で自らも悪逆の限りを尽くしたと主張する自称「元陸軍一等兵」東史郎が『わが南京プラトーン-一召集兵の体験した南京大虐殺』に記述した内容に適用している。それは次のような一節である。

__________
 日本軍の分隊長が支那人を郵便袋に入れ、ガソリンをかけて火をつけ、冷やしてやると言って手榴弾を結わえて沼に放り込み爆死させた。[1,p236]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この分隊長・橋本光治氏が登場して、東を名誉毀損で訴えたことで裁判となり、この記述が法廷で吟味されることとなった。裁判の結果、「本に記載されている虐殺行為を裏づける客観的証拠も、描写を真実として信ずる理由もない」として、法廷は東らに罰金50万円の支払いを命じた。

■4.「彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った」

 東は裁判の途中でも、TVに登場して、こう語った。[b]
__________
(ナレーションが東の日記を読み上げる)
 どこからか、一人の支那人(放送ママ)が引っ張られてきた。彼を袋の中に入れ自動車のガソリンをかけ火をつけようというのである。彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った。

(東) ガソリンぶっかけて、ガソリンというのをね、たった一リッターかけても、ブワッと広がるんです。
ボーッと飛び上がりおった。飛び上がって、転がるわけね。・・・
「おい、そんなに熱ければ、冷たくしてやろうか」と言うと、手りゅう弾を2発、袋の紐に結びつけて沼の中へほうりこんだ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 東の証言で、その状況が脳裏に再現できるか、という観点から、長浜氏はこう述べる。
__________
 先ず郵便物を人に押込んでガソリンで火をつけた後、どの様にして手榴弾を結びつけたのか。結びつけてから安全装置を外したのか、燃えさかる中でそんなことができる筈がない。
 この郵便袋を池に投げ込んだというが、燃えさかり、手榴弾を結びつけられ、人の入った郵便袋を素手で投げ込んだのか、想像すらできない。[3,p241]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 長浜氏の主張をヒントに、もう少し想像してみよう。郵便袋にガソリンをかけて火をつけたら、炎が「ブワッと広が」って、近づくことすら危険だろう。その中の人間が「飛び上がって、転がる」。それを押さえ込み、手榴弾を結びつけるだけで、大やけどしてしまうはずだ。
 また人間なら少なくとも50キロはあろう。水中とは言え、手榴弾を爆発させるなら、危ないから少なくとも10メートルほどには遠くに投げなければならない。スーパーマンならいざ知らず、普通の人間がどうやったら、50キロもの人間入りの袋を、しかも燃えさかっている状態で、何メートルも投げることができるのか。
 そもそも、この分隊長は、自分が大やけどをしたり、手榴弾の爆発で大けがをする危険を冒してまで、なぜこんな手の込んだ遊びをしなければならないのか。
 どうにも脳裏で再現することが不可能な光景である。判決で「描写を真実として信ずる理由もない」というより、「描写をウソとして信ずる理由ばかり」と言うべきだろう。

■5.「機銃掃射し、銃剣で刺し、石油をかけて殺し」

 もう一つの例を取り上げてみよう。東京裁判では「南京大虐殺」で26万人以上が虐殺されたと判決を下したが、その根拠の一つが次の証言だった。[c]

__________
 敵(日本)軍入城後、まさに退却せんとする国軍、および難民男女老若合計5万7048人を幕府山付近の四、五ヶ村に閉じ込め、飲食を断絶す。凍餓し死亡する者すこぶる多し。
 1937年12月16日の夜間に至り、生き残れる者は鉄線をもって二人を一つに縛り四列に並ばしめ、下関・草鞋峡に追いやる。しかる後、機銃をもってことごとく掃射し、さらにまた、銃剣にて乱刺し、最後には石油をかけて焼けり。焼却後の残屍はことごとく揚子江中に投入せり。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 機銃掃射し、銃剣で刺し、石油をかけて殺し、さらにその屍を揚子江に投入するなどという手間のかかることを、なぜ日本軍はしなければならないのか。
 そもそもこの証言者は、こういう虐殺シーンに立ち会いながら、どういう風に生き延びたのか? 日本兵に見えない透明人間として現場を見ていたというなら、分かるが。
 これも前節の例と同じで、脳裏に思い浮かべることのできない光景である。

■6.「数字補強の原則」

 もう一つのウソを見破る方法として、ベンダサンが挙げているのが「数字補強の原則」である。脳裏に情景が浮かばないのに、日時・時間・距離・金額その他の数字が異常に正確なものは、数字によって信憑性を補強しようとしており、その数字を子細に検討すれば、「必ず数字に矛盾が出てくる」とベンダサンは言う。[3,p240]
 この証言でも「5万7048人」という数字が出てくるが、「四、五ヶ村」もの広域に閉じ込められた人数を、しかも「凍餓し死亡する者すこぶる多し」という危機的な状況の中で、どうしてこんなに正確に数えられるのか? それも、村の数ですら「四、五ヶ村」としか、数えない人間が。

 この証言書は書面として提出されただけで、証言者に対して弁護 側が反対尋問する機会は与えられなかった。アメリカ人弁護士は、 「本人を出廷せしめて、直接反対尋問することは、(英語を話す国 民においては)常識である」と批判している。
それが出来なければ 「見たこともない、聞いたこともない、またどこにいるかも分から ない人間の証言を使って審理することになる」という。

 東京裁判で26万余名の虐殺があったとする判決の根拠の一つが、この「見たこともない、聞いたこともない、またどこにいるかも分からない人間」の証言した「5万7048人」なのである。

■7.遺体埋葬数の不思議

 もう一つ、26万余の犠牲者があったとする根拠のうち、大きなものは、南京市崇善堂という慈善団体が犠牲者112,266体の埋葬を行ったという資料である。
 その詳細数値が期間毎に出ており、これを一日平均埋葬数として算出すると、以下のようになる。

   ・1912年12月   506体/日
   ・1913年 1月    49
   ・    2月    87
   ・    3月    77
   ・    4月 8,060

 事件直後の1912年12月こそ、一日あたり506体もの遺体を埋葬しているが、その後、49体、87体、77体と減少している。3月までの記録では、埋葬場所も記録されており、合計で7,548体であり、ここまでは理解できる。ただ戦闘での死者もありうるから、当然のことながら、埋葬数=虐殺数ではない。
 それが事件後、5ヶ月目にして、一挙に日当たり8,060体と百倍にも急増している。場所は城外というだけで、記載がない。弁護側は、日本軍が清掃した後で、5ヶ月も経ってから、合計10万4718体もの死体が残っているはずがない、と主張している。
 この記録も、証人を喚問して、弁護側が反対尋問をかけたら、すぐにウソがばれたはずだ。「南京大虐殺30万人」とは、こんな数字から出てきているのである。

■8.中国に「南京大虐殺」カードを捨てさせるには

 中国の言う「南京大虐殺の犠牲者30万人」の根拠とは、この程度の子供騙しなのである。そして、中国政府はそれを知りつつも、今後も「南京大虐殺」という外交カードが有効である限り、それを使うことをやめないであろう。

 この外交カードを無効にするためには、まずは日本国民の中で、中国の言う「南京大虐殺」がどれほどいい加減で、根拠のないものであるかをよく認識する必要がある。そして河村市長のような発言が出た場合に、広範な国民的世論でしっかり支持をし、中国側が友好行事の中止などと揺さぶりをかけても、「どうぞご勝手に」と無視する姿勢が必要である。
 逆に、日本の政治家や外交官が、目先の「日中友好」を求めて、「南京大虐殺」を史実として認め、すぐに謝ってしまおうとしたら、それに対する轟々たる世論の非難を浴びせかけなければならない。政治家や官僚が、国家国民の名誉よりも、自己の保身や功業を優先すれば、当然、その報いを受けなければならない、というのが、民主政治の正道である。
 日本国民がこのような確固たる世論を確立して、中国が「南京大虐殺」は外交カードとして効力を失った、使っても損をするだけだ、と悟った時、彼らはその使用をあきらめるであろう。要は日本国民の自覚の問題なのである。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■ a. JOG(445) 「反日」は中・朝・韓の屋台骨
 中国・北朝鮮・韓国が「反日」を必要とする3つの理由とは。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog445.html

b. JOG(587) TBSの懲りない面々
 なぜ偏向報道・捏造報道が繰り返されるのか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h21/jog587.html

c. JOG(015) 先入観を打破する定量的検証を  南京事件犠牲者数の定量データを分析すれば、中学生でも嘘が見破れる。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog015.htm


名古屋城

2012年03月03日 | 散歩・山歩き
所用で名古屋に行きました。
始めて名古屋城を訪れました。先の戦争の空襲で焼け落ちたそうですが、美しく再建されています。
本丸御殿も復元工事中でした。展示室で3Dコンピュータグラフィックス動画の本丸御殿を見ました。
立体眼鏡をかけて見るのも初めてでなかなか面白いです。






金ぴかのしゃちほこ




石垣の刻紋





展示物・昔の書店 奧からちょんまげの手代さんが出てきそう