落葉松亭日記

ニュース・評論スクラップ、凡夫の日々雑感、山歩記など

天津爆発

2015年08月17日 | 世相
支那天津での爆発事故は、想像以上。
危険物倉庫の爆発がここまで広がるだろうか。
wikipediaにも登録される大惨事となっている。
天津は渤海湾の奧、其処から北西約100kmに首都北京がある。
天津爆発 数百人の消防隊員が犠牲か 疑惑の政府死者数発表  2015/08/16 02:08 大紀元
http://www.epochtimes.jp/2015/08/24349.html

天津の物流拠点である濱海新区で12日深夜、大規模な爆発が起き、多くの死傷者が出た。爆発現場の惨状は中国国内のみならず、世界にも衝撃を与えた。

政府の報道規制が敷かれ、被害状況を知ることができない中国国民は、インターネットで情報を共有し、写真や映像を独自に分析している。公式発表が少ないため、地元メディアも手探りで事故状況を報じている。一部は、最初の爆発で駆けつけた200~300人の消防隊員が、次に起きた爆発で死亡したと伝えた。

当局の情報を信じないネットユーザー

中国の国営新華社通信は13日夜、爆発で死者数は消防員17人を含めて50人に増え、負傷者720、うち70人が重体と報じた。14日の国営中央テレビ(電子版)によると、死者は5人増えて55人となった。

しかし、当局が発表した公式の数字は「現実から大きくかけ離れている」として、多くの市民が犠牲の規模に疑問を投げかけた。爆発の惨烈さを伝えるため、現場写真や動画を「証拠」として、ソーシャルサイトなどに公開した。

多くのネットユーザーはミニブログ・微博で「もうニュースを信じないで」「友人は、軍人から200~300人の遺体を運んだとの話を聞いた」「爆発現場付近にある一つの高層住宅、なかは死体だらけ!」「TNT火薬21トンに相当する爆発、しかも住宅地で、死者50人ぐらい? 信じるものか」「内部情報によると、少なくとも3000人(死者か負傷者か、具体的な説明はない)」など、当局の発表に猜疑的な姿勢を示した。

住宅街に近すぎる危険物の倉庫

爆発のあった倉庫を管理していた物流会社・瑞海公司は2011年に設立された。2013年に危険物の倉庫への変更登録申請を提出し、同年に当局の許可を受けた。周辺の団地の多くは2007年に建てられたものだ。

地図には、爆発した倉庫と通りを挟んで向かいに「啓航嘉園」がある。2011年に入居開始した比較的新しい団地だ。爆発現場からわずか300メートルしか離れていない。しかし、国が定める危険物の規制によると、保安距離は1000メートル以上だ。

ネットユーザー@深深的深白が簡易投稿サイトTwitterに載せた、濱海新区の住宅地と危険物管理倉庫を示す地図。赤い丸が倉庫で、青い丸が住宅地を示す。混在しているのがわかる。

消防隊員の死者数 少なすぎる公式発表

中国メディアの中新網によると、天津市消防本部が12日22時50分に通報を受け、9つの消防隊と35台の消防車、埠頭所属の3つの専門消防隊を出動させた。消防隊員らは23時6分に現場に到着。その後も、爆発は複数回起きた。

中国国外の華字メディア「明鏡郵報」は公安省消防局の情報筋の話として、9つの消防隊と3つの埠頭専門消防団の消防隊員らは全員死亡したと伝えた。一つの消防隊には通常、消防隊員20~30人、専門消防隊には15人以上が配属されるため、200~300人の消防隊員は爆発で死亡したと推測される。

消防隊員、危険物質と知らず放水 被害拡大へ

2014年に発行された地元の環境当局の受理書によると、爆発が起きた瑞海公司の倉庫は、炭化カルシウムや硝酸カリウム、硝酸ナトリウムなどの化学物質を保管するために設計されていた。炭化カルシウムは水に接触することができず、炭化カルシウムは水と反応して可燃性ガスのアセチレンを発生する。

ある消防隊員は中国メディア・南方週末の取材に対し、「水をかけてはいけない危険物質とは知らなかった。 現場で放ったのはすべて水やフォーム(泡消火薬剤 )」と語った。別の消防隊員は「最初に燃えたのは1つのコンテナ。10分ほど水をかけるとバリバリという音がして光り出し、爆発した」という。

写真:1000台以上の輸入車が瞬時に焼け焦げた(STR/AFP/Getty Images)
(翻訳編集・王君宜)

■世界第四位の天津港湾被害、世界経済への影響が深刻
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成27年(2015)8月17日(月曜日)通算第4629号
http://melma.com/backnumber_45206/

「天津812大爆発」。悲劇敵事故は大悲劇となり、未曾有の惨禍が重なる
ジョージ・ソロス、保有した中国株のほぼ全株を売却、将来に見切りを付けた


 悲劇は重なる。
 天津の大爆発は未曾有の惨事となり、8月16日に当局が発表した死者は112,行方不明95(そのうち85名が消防士)、不肖して入院中が722名であるとした。
 開催予定だった政治局常務委員会は中止となり、急遽、李克強首相が現場を視察した。
天津市書記の黄興国から説明を聞いた。爆発現場は遠くからみただけで主に犠牲となった消防士らの葬送会場を訪れ、「英雄だ」と遺族を励ました。

しかし「犠牲者は1400名、不明は700名」という現場の噂を在米華字紙「博訊新聞網」(8月15日付け)などが伝えている。2013年11月22日におきた青島の石油管爆発事故ですら、人口密集地ということもあったが、死者62名、重軽傷136名だったの。だから、天津の事故はもっと犠牲が多いはずだという。

 爆発した倉庫は中国に四十社ある危険物取り扱い許可を受けた特殊倉庫だが、天津ではなぜか、事故現場の「瑞海国債物流」という資本金1000万元(邦貨換算二億円)の小さな企業。株主は僅かふたりしかおらず「政府高官との特殊な関係」で運営される企業と判明した(『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』、8月17日)。

 また「有毒な化学材料は700トン、これは通常の基準の70倍」(台北タイムズ、8月16日)、消防士1000名の増援にくわえて、3000名の軍隊が派遣された。
 爆発のあった天津市糖古開発区にはトヨタなど日本企業が夥しく進出しており、被害甚大で操業停止に追い込まれている。

部品供給が中断している上、天津港の港湾機能が麻痺しており、輸出入港として「世界四位」の港湾が今後数ヶ月、使えない状態となると、生産開始はそれなりに遅延するだろう。  日本のメディアはトヨタなどの被害ばかりを伝えているが、世界経済の視点にたてば、世界第四位の港湾が麻痺したというニュースのほうが、深刻な意味をもつ。

 それこそ天津は工業区ばかりか北京へ物資を運送する生命線である。代替できる港湾は渤海湾に大連、旅順、営口、秦皇島、煙台、威海衛、青島などあるが、規模が小さく、また郵送コストが跳ね上がることは目に見えている。

 ▼すぐに行動に出たのはソロスだった
 悲劇は続く。
 8月13日、広東省東莞では地下鉄の工事現場で、300平方にわたって地盤が崩落、それも白昼の出来事で多くのヴィデオフィルムがネットに流れた。

 8月15日、陝西省の炭鉱で落盤事故、64名が生き埋めとなり絶望視される(上海日報、8月16日)。

 ネット銀行は「幽霊銀行」、預金が蒸発しても、どこに取り付けに行けば良いのか、分からない、多くの預金者は「ネット銀行が幽霊化した」と嘆いている、と英『ファイナンシャル・タイムズ』が伝えた(8月17日)。

 かくて世界一の投機家ジョージ・ソロスは、中国の将来に見切りを付けた。
 保有したアリババ439万株、「百度」の30万株、ほかに三社ほどの中国企業株式合計300万株を売却していたことが分かった(ウォールストリートジャーナル、8月17日電子版)。



安倍首相「戦後70年談話」

2015年08月15日 | 政治・外交
安倍首相の「戦後70年談話」が発表された。
明治から昭和20年までが78年、戦後もそれに匹敵するほどの年数を経た。
いつまで戦後を引きずり、謝罪を続けるのか注目していた。
20年前のあの村山談話
中韓のお気に入りの文言は・・・
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。
私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。
と思われる。

今回の安倍談話では、例のキーワードはあるものの、村山談話のような直接的な表現は弱まっていると思われた。
いつまでも謝罪を続けるのではないと謳っている。
日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

 私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。

 そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。
未来志向につなげる苦心の作ではなかろうか。
これで靖国神社をお参りになれば満点であった。

一方、村山談話を体現する元総理も健在? 謝罪マニアと揶揄される。
■鳩山元首相、ひざまずき謝罪したことについて「慰霊のスタイル」
フジテレビ系(FNN) 8月13日(木)20時56分配信↓
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20150813-00000089-fnn-int
これを日本では土下座という。

いずれにしろ、どの国もとっくに戦後をふっきっている。
植民地支配を謝罪もしないし、侵略も謝罪しない。
原爆投下の謝罪も聞いたことがない。
喧しく云う中共は、ウイグル、チベットの現役侵略虐殺国、南シナ海で軍拡真っ最中だ。
もういい加減にしなければ・・・


「平和安全法制の必要性」

2015年08月14日 | 政治・外交
安保国会の審議は停滞しているらしい。
「戦争法案」「徴兵制導入」とか飛躍して、本質から外そうとする野党の質問が原因と思われる。
安保法案は何故必要か、メルマガ「鍛冶俊樹の軍事ジャーナル」より
鍛冶俊樹の軍事ジャーナル 第200号(8月14日)
http://melma.com/backnumber_190875/

平和安全法制の必要性

 昨日、憲政記念館で開かれた「平和安全法制の早期成立を求める国民フォーラム」の記者会見に賛同人の一人として参加した。

 そこで読み上げられた声明文はまことに秀逸な文章で、簡潔にして明瞭にいわゆる安保法制の必要性を説明している。以下、全文を掲載する。

国会に対し、わが国の安全保障を見据えた審議と、平和安全法制の早期成立を要望する

 現在、国会で行われている平和安全法案の審議は、集団的自衛権の限定的容認をめぐる政府見解の合憲性や過去の政府解釈との整合性など、憲法解釈論争に焦点がおかれている。
だが、最も重要なのはわが国周辺の安全保障環境の変化に着目し、現実的な審議をすることである。

 集団的自衛権の行使は、国連憲章五十一条によってすべての加盟国に認められた国際法上の権利である。日本にも当然、認められている。
ただ、わが国には自衛力を超える「戦力の不保持」を定めた憲法九条二項がある。
従って、行使に一定の限界を設け、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する」(九条一項)という国民の願いに合致する内容でなければならない。
 政府が新三要件で示した「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底からくつがえされる明白な危険のある場合」に限り、集団的自衛権の行使を容認するとの見解は、この意味で明らかに憲法の許容範囲内である。
また日本が主権国家として「固有の自衛権」を有し、「必要な自衛の措置」を取り得ることを認めた砂川事件最高裁判決の法理に照らしても、まったく問題はない。

 今、わが国周辺の安全保障環境は激変しつつある。

 オバマ米政権は内向き志向を強め、軍事費を大幅に削減する一方で、一昨年九月には「米国はもはや世界の警察ではない」と宣言した。
これに呼応するように、中国は国際法を無視した「力による現状変更」に拍車をかけ、南シナ海では、近隣諸国からの強い抗議をよそに七つの岩礁を埋め立て、三千メートル級の滑走路も建設した。

 東シナ海でも、日本との中間線上付近に十六基のガス田用のプラットフォームが確認され、軍事転用される危険もある。これらの海域はわが国にとって重要な海上輸送路であり、中国による軍事支配は、航行の自由を脅かし、国民生活を根底からくつがえすことになりかねない。
 また、北方四島を不法占拠しているロシアはクリミア半島を併合し、武力による露骨な領土拡張政策を推し進めている。

 北朝鮮は核開発を進め、日本海に向けて弾道ミサイルを何度も発射している。

 このような現状を見れば、平和安全法制の整備こそ急がれる。日米安保条約を緊密にし、抑止力を高めることが大事である。

 平和安全法案は戦争を抑止するためであり、「戦争法案」ではない。

にもかかわらず、「徴兵制に行き着く」などとあり得ない危機を煽るのは、無責任であり、非現実的である。
 国会において真にわが国の安全保障を見据えた審議を行い、一刻も早く平和安全法制を確立することを強く要望する。

平成二十七年八月十三日
            平和安全法制の早期成立を求める国民フォーラム
********************************

軍事ジャーナリスト 鍛冶俊樹(かじとしき)
1957年広島県生まれ、1983年埼玉大学教養学部卒業後、航空自衛隊に幹部候補生として入隊、主に情報通信関係の将校として11年間勤務。1994年文筆活動に転換、翌年、第1回読売論壇新人賞受賞。2011年、メルマ!ガ オブ ザイヤー受賞。2012年、著書「国防の常識」第7章を抜粋した論文「文化防衛と文明の衝突」が第5回「真の近現代史観」懸賞論文に入賞。
文庫新刊:「図解大づかみ第二次世界大戦」
http://www.kadokawa.co.jp/product/321502000376/
著書:
「領土の常識」(角川学芸出版)
http://www.kadokawa.co.jp/book/bk_detail.php?pcd=321212000089
「国防の常識」(角川学芸出版)
http://www.kadokawa.co.jp/book/bk_detail.php?pcd=201203000167
「戦争の常識」(文春新書)
http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784166604265
「エシュロンと情報戦争」(文春新書、絶版)
監修:
「イラスト図解 戦闘機」
http://www.tg-net.co.jp/item/4528019388.html
「超図解でよくわかる!現代のミサイル」
http://www.tg-net.co.jp/item/486298102X.html?isAZ=true
インターネット動画配信中:
「現代戦闘機ファイル」
http://www.nicovideo.jp/watch/1411697197
「よくわかる!ミサイル白書」
http://www.nicovideo.jp/watch/1383640409



戦後70年談話・マスゴミ指導の模範?解答

2015年08月12日 | 政治・外交
戦後70年談話など不要と思うが、安倍首相は出すと云ってしまった。
河野・村山談話など言及しなければ歴史の彼方に消えてゆく泡なのに。
その談話を中韓やその御用達マスゴミが手ぐすね引いてあれこれと指南をする図はマンガである。
以下の三つのキーワードを入れるべしという。
「植民地統治」「侵略」「おわび」も一つおまけに「反省」。
もういい加減、日本政府は自虐・謝罪のマゾヒストを止めなければいけない。
これ以上やると「変態」である。そうでなければ、馬鹿にされているのがわからない本当の「バカ」である。
(参考図書:黄文雄著「中国・韓国が死んでも教えない近現代史」)
朝日新聞は60年安保の愚をまた繰り返すのか? 【戦後70年】2015.8.10 07:10更新
http://www.sankei.com/politics/news/150721/plt1507210009-n1.html

【戦後70年首相談話】
 これは偶然の一致だろうか-。安倍晋三首相が今夏に発表する戦後70年談話をめぐる野党や一部メディアの言説は中国の主張と奇妙に符合する。これが中国による対日工作の“成果”だとすれば、ゆゆしき事態だと言わざるを得ない。

 中国政府の意向を露骨に反映させたのが、中国国営新華社通信の6月24日の社論だろう。
「植民地統治」「侵略」「おわび」を70年談話に盛り込むべき「3つのキーワード」として「回避することが許されない」と断じた。これだけでも内政干渉だといえるが、「3つのキーワードが残るかどうかは首相の歴史問題に対処する上での態度を試す尺度であり、アジアの平和と安定にかかわる」という結びの一節は恫喝(どうかつ)に近い。

 朝日、東京、毎日の3紙の社説は、中国の主張にほぼ沿っている。

 「植民地支配や侵略というかつての日本の行為を明確に認めなければ、村山談話を全体として受け継いだことにはならない」(朝日新聞)と、「村山談話を全体として受け継ぐといっても『植民地支配と侵略』に対する『反省』と『お詫(わ)び』という根幹に関わる文言を盛り込まなければ、談話を継承したことにはなるまい」(東京新聞)などはうり二つ。掲載日も1月27日と同じだった。

 同じようなことが55年前にあった。

 昭和35(1960)年、安倍首相の祖父である岸信介首相(当時)は職を賭して日米安保条約を改定した。米軍に日本の防衛義務さえなかった極めて不平等な旧条約に比べて、はるかに対等な条約に改定されたが、旧社会党や朝日新聞は「米国の戦争に巻き込まれる」と激しく批判した。

 だが、社会党はもともと「不平等条約改正は日本外交に与えられた大きな使命」(元委員長の浅沼稲次郎氏)と安保条約改定を声高に求めていた。これが途中で方針を一転し、労組や学生を扇動して安保闘争を繰り広げた。

 背景には旧ソ連の対日工作があった。ソ連は次々に工作員を送り込み、与野党やメディアと接触、日本人が受け入れやすい「中立化」を唱えて安保改定を阻止すべく動いた。

 対日工作の責任者としてソ連共産党中央委員会国際部副部長などを務めたイワン・コワレンコ氏はソ連崩壊後に回顧録を残し、民主統一戦線を作るべく政界や労働界を奔走したことを赤裸々に明かしている。

 回顧録では、浅沼や石橋政嗣、土井たか子ら歴代社会党委員長を「ともに仕事をして実り多かった愛すべき闘志たち」と称賛。メディア工作も自ら手がけ、朝日新聞幹部らとの深い関係を築いたことを誇示した。

 あれから55年。ソ連は崩壊したが、共産党の一党独裁を維持しつつ世界第2位の経済大国・軍事大国となった中国は、旧ソ連に代わって日本の政財界やメディアに工作網を張り巡らせている。戦後70年談話や安保法制を対日工作の主要テーマとしても何の不思議もない。(峯匡孝)



西村眞悟氏「八月二日、バシー海峡戦没者慰霊祭と梅沢裕騎兵少佐一周忌」

2015年08月07日 | 歴史
西村眞悟の時事通信 平成27年8月5日(水)
八月二日、バシー海峡戦没者慰霊祭と梅沢裕騎兵少佐一周忌

八月二日、 台湾のバシー海峡に面した最南端の潮音寺で、 大東亜戦争において、バシー海峡に水没した十万人以上、もしくは二十万人、ともいわれる日本軍将兵の慰霊祭が行われた。
同日、大阪の天王寺区にある鶴林山性厳寺において、 大東亜戦争において沖縄県座間味島守備隊長、梅澤裕帝国陸軍騎兵少佐の一周忌の法要が行われた。

この日、私は、バシー海峡において、 この蒼い穏やかな見渡す限りの海に没した十万余の将兵の霊に祈り、 同時に、遙か大阪の天王寺で一周忌法要が行われている梅沢裕騎兵少佐の霊に祈った。

数年前、バシー海峡を見渡す台湾最南端のギャランピー岬の岩場を降りて、 海面と同じ高さのぎざぎざの岩礁に立った。 そして、底の知れない海を眺めた。 かつて十数万の日本軍将兵を呑み込んだ海は、蒼く鏡のように穏やかに南に見渡す限り広がっていた。
私は、目を瞑り「海ゆかば」を謳った。 歌が終わりに近づく時に、突然、私の足に波がぶつかり、その飛沫が顔にかかった。
鏡のような海に急に波が立ち私に当たりに来たのだ。

歌を終え海を見詰めると、もとの静かな蒼い海だった。不思議だった。
私は、今も、あの波は、将兵の霊が「海ゆかば」に応答してくれたものだと思っている。
何故なら、バシー海峡の海に吞まれるように沈んでいった十万を超える戦没者は、 今まで知られることもなく忘れられつつあったからだ。

昭和十九年八月十九日、午前四時五十分、 最大の陸軍特殊輸送船(揚陸母艦)「玉津丸」(長さ140メートル、9590トン)は、 台湾からフィリピンのマニラを目指してバシー海峡を航行中、 アメリカ海軍の潜水艦から左舷中央部に二発の雷撃を受けて十分間で沈没した。
乗り込んだ将兵四千八百二十人のうち、生存者は六十五名で、四千七百五十五名が戦死した。

十二日間の漂流の末に奇跡的に生き残った静岡の独立歩兵第十三聯隊の中嶋秀次上等兵は、 戦後復員してから、バシー海峡で水没していった戦友の慰霊を生涯の目的として働き始めた。 そして、遂に、生還から三十七年が経過した昭和五十六年(一九八一年)八月に、 バシー海峡で水没した多くの将兵の遺体が流れ着いた台湾最南端のバシー海峡を見下ろす丘に、 私財をなげうって潮音寺を建立し、 平成二十五年(二〇一三年)八月、九十二歳の生涯を閉じた。

梅澤裕帝国陸軍騎兵少佐は、 陸軍士官学校五十三期、昭和二十年、沖縄県座間味島の守備隊長となり同島に赴任すると、 アメリカ軍上陸を直前に控えて、 住民から集団自決用の小銃、爆薬等の提供を要求される。
梅澤隊長は、住民代表に、自決用の武器等の提供を拒絶して、 自決をしてはならんと諭して帰した。
しかし、住民は、集団自決を決行してしまう。
これは、近くの渡嘉敷島でも同じであった。

終戦直後、地元のマスコミは、 「沖縄戦記、鉄の暴風」を編纂発行して、軍命令による住民の集団自決と報道する。
昭和三十三年、朝日新聞は、「週刊朝日」で、梅澤少佐が、住民に集団自決を命じたように報道する。
昭和四十五年、作家の大江健三郎は現地に赴くこともなく、「沖縄ノート」(岩波新書)を出版して、 梅澤少佐が、住民に自決を命令したと書く。
そして、大江がノーベル文学賞作家となったので、梅澤少佐の自決命令説が「真実」として定着しはじめる。

その後、梅澤少佐は、戦友や住民の慰霊を続けていたが、このまま、大江等の軍の自決命令説が定着すれば、 国家と軍、そして、戦友さらに何より住民の名誉が著しく毀損されたままになることを憂い、 これを阻止するために、平成十七年、 「沖縄ノート」を書いた大江健三郎を名誉毀損で訴える。
 裁判所は、「集団自決の軍命令の証拠なし」と認めるも、 「軍の関与は否定できない」との、訳の分からない理由で訴えを棄却する(最高裁も同じく棄却)。

平成二十六年八月六日、梅澤裕少佐、死去、享年九十七歳。
葬儀において、 櫻井よしこ氏は、「梅澤さんの濡れ衣は完全に晴れた」との弔電を寄せ、 葬儀委員長の南木隆治氏は 「南京大虐殺の虚構も、従軍慰安婦強制連行の虚構も、集団自決命令の虚構も、 総て虚偽であることが明らかになった」との弔辞を述べた。

平成二十五年八月に、九十二歳で亡くなった中島秀次さん 平成二十六年八月に、九十七歳で亡くなった梅澤裕騎兵少佐 お二人は、大東亜戦争の終結から亡くなるまで、 生涯に亘って共に、たった一人で、戦友の慰霊を続けられ、 日本人の精神性と人の魂の崇高さを我々に示し続けて下さった。

このお二人の 中嶋秀次さんが生涯をかけたバシー海峡戦没将兵の慰霊祭と 梅澤裕さんの一周忌の法要が、 八月二日という同日に、 バシー海峡と天王寺の性厳寺で各々行われたことに感慨深いものがある。

嗚呼、戦いの日々を生き抜き、戦後も六十年間以上、戦後の風潮としての自虐史観と一線を画し、 黙々と戦友同胞への誠を貫いて生きた勇者が、各地で次々と戦友のもとに帰って行く。
そして、あと十年も経てば、我々は、総ての勇者とこの世で会えなくなる。

最後に、 「戦後70周年記念、2015年バシー海峡戦没者慰霊祭」のために、 日夜無私の働きを続けられ、 意義深い歴史的な実現を果たされた若き日本と台湾の男女の実行委員会の皆様に、 心よりお礼を申し上げます。

日本と台湾は、目に見えない絆で結ばれている。
日本と台湾は運命共同体である。
日本と台湾が団結すれば、東アジアの平和が確保され幸せな文明圏が誕生する。
勇者は日々、天に帰って行くが、勇者の魂を受け継ぐ君たちがいる。

お問い合わせ:西村眞悟事務所
TEL:072-277-4140 E-mail:sakaioffice@n-shingo.com
http://www.n-shingo.com/
亡父(1999年他界)も同時期、輸送船に乗せられ南方に向かっていた。
父の記録には「軍は本船団の半数が目的地に到着することを以て成功と思う」と云われたとある。
九隻三列、二十七隻の船団で進み、船団の中央に乗船していたため撃沈を免れた。
しかしその後あのボルネオ死の行軍に加わわり終戦まで辛酸をなめることになった。
亡父の戦争体験↓
http://kansai.me/tdym/ww2nd/WWII_2.htm#2-2


【山】富山県立山町 立山

2015年08月06日 | 散歩・山歩き
 山歩記・立山・称名滝
 山歩記・立山周回


8月4,5日 立山を歩いてきました。
立山は、以下の三山の総称と云われています:
雄山(おやま、3,003 m)、大汝山(おおなんじやま、3,015 m)、富士ノ折立(ふじのおりたて、2,999 m)

室堂ターミナル(標高2450m)から周回約9km、私の脚で休憩含めて9時間所要しました。
3000m級を歩くのは初めてです。そのせいか何となく体がふらつきました。
富士ノ折立から「大走り」を下り、キャンプ場を経て室堂に帰りました。
雄山までは、地元の小学生が夏休みの課外授業か、先生に引率されて登っていました。頂上の雄山神社で彼等とご祈祷を受けました。
もちろん一般の登山者もさすがに多く、臨時バスが出るほどの盛況です。

途中難所がありましたが、なんとか最終バスに間に合いました。
駐車している富山地鉄「立山駅」の近くの暑さは、神戸とそう変わらず、もう一泊して黒部のトロッコに回る予定を欲張っていましたが、疲労も相当あり、亀谷温泉で汗を流した後、夜通しかかって帰宅しました。
途中のサービスエリアで、何度か仮眠をとったので、なつかしきアパートに着いたのは朝になっていました。

詳細はまた「山歩記」に残すつもりですが、とりあえず涼しそうな写真をご紹介します。

8月4日(火) 称名滝 落差350m 毎秒3tonの流量




8月5日(水) 立山周回



一ノ越へ向かう小学生達


立山カルデラ全景


雄山神社


大汝山


富士ノ折立


内蔵助カール


「大走り」を下る


運良く立山のシンボル雷鳥に遭遇


みくりが池