かたてブログ

片手袋研究家、石井公二による研究活動報告。

『勝手にふるえてろ』は片手袋的感覚に満ちた傑作だった!

2018-01-08 19:25:39 | 番外

映画『勝手にふるえてろ』を見てきました。

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信頼している筋の評判が異常に高かったですし、あの松岡茉優の初主演映画とあれば絶対に見逃す訳にはいきません。

今日は祝日の為午後から家族との予定もあったので、朝一でやってる映画館を検索。西新井大師のTOHOシネマズに向かいました。

ところが僕が下りたのは日暮里舎人ライナーの西新井大師西駅。そこから映画館までが異常に遠い!8:30からの回なので余裕を見て8:00には駅に着いていたのですが、歩いても歩いても映画館が見えないのです。

しかも例によって片手袋が次々登場。

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ようやく映画館が入っているアリオに到着し席に座った時には、予告編がちょうど終わる所でした。

(以下、ネタバレ含みます。)

あのですね、片手袋に先を阻まれながらようやく映画館に辿り着いた訳ですけども、本編が始まったら冒頭でいきなり松岡茉優が片手袋を拾って駅の落とし物入れに届けるシーンがあったんですよ!そう、フィクションとはいえ「ファッション類介入型落とし物スペース系片手袋」が生まれる瞬間が描かれていたのです。

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もう驚いて腰を抜かしました。画面に片手袋が登場する映画は沢山ありますが、片手袋を拾うシーンが出てくる作品は今までのところ『フレンチアルプスで起きたこと』くらいしかなかったので。

そして、ただ片手袋が出てくるだけでなく、『勝手にふるえてろ』は映画全体が片手袋的思想に貫かれている作品だったと思うのです(正気です)。

本作は、この世の中で誰にも相手されることなく取り残されてしまった(と感じている)松岡茉優演じる主人公のヨシカが、まるで放置型片手袋のように見えます。

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ヨシカは絶滅してしまった古代生物に興味を持ち、アンモナイトの化石を自分の分身のように愛でているのですが、その事自体何となく放置型片手袋に通じるな、と思います。

しかし本作は、そんな彼女が誰かの手によって再び拾い上げられる(“拾い上げられる”と書くと上下関係が生まれてしまうようでちょっと違うのですが)までの映画、とも言えるのではないでしょうか?

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※つまり介入型片手袋になるまで。

ヨシカは中学の時の同級生、イチの事を社会人になった今でも思い続けています(そのため、恋愛経験もない)。しかしヨシカが思い焦がれるイチは、あくまでヨシカの脳内で勝手に形作った都合の良いイチなのです(本当のイチの姿を見ていなかったことが後で判明する)。つまりヨシカはイチという他者ではなく、自己愛に縛られているのです。中学の時に秘めた思いが成就しなかったことにより自分の半分を奪われたヨシカは、常にもう片方の自分=イチを探し求めています。

冒頭、ヨシカが届けた片手袋が落とした人のもとに戻ってもう半分と出会えるかは、誰にも分かりません。人間の気持ちだって確実に相手に届く保証なんてどこにもありませんからね。落とし物入れの中で取り残された片手袋は、ヨシカそのものです。

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さて、彼女は自分の脳内の人物(つまり殆ど自分そのもの)に思いを寄せている訳ですから、ヨシカに好意を持って近づいてくる同僚が全く気に入りません。だって彼は自分とは何から何まで違う他者なんですから。

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※鏡像としての自分を求めるヨシカを見ていると、この片手袋を思い出しました。

で、ここからヨシカは映画を見ている僕達が胃が痛くなるほどの地獄を味わいながら、同じように見えて結局は距離があったイチを追い続けるのか、

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全く違う者同士で寄り添い支え合っていく事を選ぶのか、

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の選択を迫られる事になります。

で、この映画の凄いところはヨシカがその選択に答えを出してひと時の幸せが訪れてから、まだもう一展開ある所なんです。

僕、介入型の片手袋を「人間の優しさの象徴」としていつも紹介してますが、

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本当は全てが優しさだけではないと思うんですよね。

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中には拾った人のちょっとしたいたずら心が透けて見える介入型片手袋もあります。ヨシカは自分を拾い上げてくれた人間に一旦は心を開きますが、その人間の思いに不純なものが僅かながら垣間見えた瞬間、再び心を閉ざしてしまうのです。

最後にある登場人物が「なんでかは分からないけど君の事が好きだし、色々完全じゃないけど人間ってそういうもんなんだよ!」という心からの叫びを発します。僕もたとえ介入型片手袋が100%の善意で生まれたものではないとしても、それでも人間は見えないところで関わり合いながら社会を形成していくしかないんだ、と片手袋研究を通じて思っていますので、深く頷いてしまいました。とりあえずどんな理由があるにせよ、落ちている片手袋を拾い上げてしまうのが人間なんですよね。

何となくここまで書いてきた内容を読んだ方は「恋愛についての映画なんだな」と思われたでしょうし、実際その要素も大きいのですが、『勝手にふるえてろ』はもっと深く、人と人とが関わり合う、という事の恐ろしさ、愛おしさを両方描いた映画だと思います。劇中のヨシカの言葉を借りるなら、

「孤独とはこういうものか」

という事です。そして、それでもどうしようもなく他者を求めてしまうのは何故なんだろうか?という事です。

僕は映画から何かを受け取ると同時に、映画に自分を投影してしまうので(それこそヨシカ的)、何を見ても片手袋的視点になってしまうのですが…。『勝手にふるえてろ』は他にも細かな演出や小道具やセリフが本当に冴えまくっている素晴らしい作品でした。何より松岡茉優が遂にその実力を主演で思う存分発揮した一本として、この先もずっと残る作品だと思います。

片手袋は抜きにしても、皆さん、是非ご覧になってみて下さい!

P.S ヨシカはタモリ倶楽部が大好きなので、僕が出演した時の回も見ていて欲しい!


『七福神巡りと片手袋探しの記2018』

2018-01-05 22:48:40 | 番外

毎年新年に行っている「七福神巡り&片手袋探し」を1/3にやってきました。昨年は東京別視点ガイドさんがツアーとして企画して下さり、参加者の方々ととても楽しい時間を過ごしましたが、今年は例年通り家族行事としてやりました。

選んだ七福神も例年通り「谷中七福神」。東京最古の七福神巡りなんだそうです。

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ところでこのイベント、2014年から行っているのですが不思議なジンクスがありまして、

2014:片手袋七枚
2015:片手袋七枚
2016:片手袋四枚+両手袋三組
2017:片手袋七枚(東京別視点ツアー『片手袋GO』)

七福神めぐりが終わるまでに出会った片手袋が殆ど七枚…。2016年も片手袋と両手袋足せば七種類。今年も微かな希望を胸に出発です。

…ところが今年は一箇寺目、田端の東覚寺さんから二箇寺目の青雲寺に向かう時点で既に五枚の片手袋と出会ってしまったのです。

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※一箇寺目に向かっている際、既に一枚目が。

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※新聞配達の方がここに挟んでいるのかと思いましたが、どうやら介入型のようでした。

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沢山の片手袋と出会うのは嬉しいのですが、「七枚のジンクスは遂に破れたな」と何故か残念な気持ちにもなりました。

その後も順調に出会いまして、

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※野良猫で有名な谷中の夕焼けだんだんにて。

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四箇寺目の時点で早々に七枚を達成。ここから谷中墓地を通り上野桜木、不忍池と向かうルートでは、例年多くの片手袋と出会います。今年はもう、いかに多くの片手袋と出会えるか?に目標を設定しなおしました。

ところが!なんとここから谷中墓地の天王寺、上野桜木の護国院、そしてゴールの不忍池弁天堂まで、一枚の片手袋とも出会えなかったのです!

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と、いうことは…。今年の七福神も最終的に出会った片手袋は七枚でした!

う~ん、なんなんでしょうか?この偶然。今までは「七福神に七枚(七種類)の片手袋。こいつは新年早々縁起が良いや!」なんて思ってたんですけど、さすがに五年も連続すると怖くなってきてしまいました。

まあでも、論理的に解明できることもあれば、怖くなるくらいの不思議な偶然に見舞われるのも片手袋研究の醍醐味。良くも悪くも例年と変わらない片手袋との付き合いが今年も始まったのだ、と考える事にします。

このイベント、またいつの日か参加を募ってやってみたいと思います。


『秋の葉山~マックス・クリンガーと片手袋の旅~』

2017-10-09 23:04:09 | 番外

今日は神奈川県近代美術館葉山に行ってきました。なんと今、「マックス・クリンガー版画展」を開催しているのですよ!

世の中には片手袋をモチーフにした作品が沢山ある事は何度も書いてますが、マックス・クリンガーの『手袋』という連作版画はその中でも(現在僕が確認出来た物の中では)最古の作品です。なんと1881年ですからね。

『手袋』は全10葉からなる作品ですが、僕が実物を見た事があるのは2葉目の『行為』だけでした。三年前の事です。

古い美術雑誌などを取り寄せて確認はしていたのですが、ようやく全作品実物を見られる機会がやってきたのです!葉山に向かう京急の車内で僕の胸は既に高鳴っておりました。

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ここにやってくるのは本当に久しぶりで、前回はヤン・シュヴァンクマイエル展の時でした。

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そして、いよいよですよ。緊張しながら展示室に足を踏み入れました。

ここで少し解説を。マックス・クリンガーは19世紀から20世紀の転換期に活躍したドイツの版画家です(画家・彫刻家でもあります)。シュルレアリスムを予感させるような幻想的な作品を多く残しています。

『手袋』は1881年の作品で、クリンガー自身と思われる男性が夫人の片手袋を拾い上げた事から展開する幻想的な全10葉の版画集です。

…というのがWEBや展覧会のチラシによく書かれているような解説なのですが、今回実物をじっくり何度も見た結果、「幻想的というよりはよく見るような片手袋だよな」という感想を持ちました。ちょっと具体的に書きます。

第一葉『場所』

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物語のはじまり。左から二番目がクリンガー。椅子に腰かけてこちらを向いているのが後に片手袋を落とす婦人。

第二葉『行為』

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ここで夫人が落とした片手袋を拾い上げるクリンガーが描写されますが、普段片手袋を撮っている僕とそっくり!

第三葉『願望』

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恐らく片手袋の持ち主である婦人への思いを募らせるクリンガーの図。僕、日々片手袋のことを考えてこんな感じですから。

第四葉『救助』

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ここから物語は飛躍していくのですが、荒波に浮かぶ片手袋を船に乗った男が銛で救おうとしています。船と片手袋を捉えた写真や、かつて釣りをしている時に片手袋を釣り上げてしまった事を思い出します。

第五葉『凱旋』

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片手袋が馬車を操っているように見える図。でもこれ、バイクのサドルに置かれた片手袋や、築地のターレーのハンドルに忘れられた片手袋を見るとき、まるで片手袋が運転手のように見える事ってあるんですよ。

第六葉『敬意』

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打ち寄せる波こそバラか何かですけど、画面左端の片手袋自体は良く見かける「放置型海辺系片手袋」ですよ。

第七葉『不安』

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寝てる時も片手袋にうなされる。僕の日常ですが、なにか?

第八葉『休息』

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手袋に囲まれる片手袋。落とし物スペース系の片手袋や、両手袋のそばにある片手袋を思い出します。「休息」というより「孤独」を感じますけどね。

第九葉『誘拐』

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得体のしれない鳥が片手袋を奪い去りますが、ずいぶん前に友人が送ってくれた写真をご覧ください。

第十葉『アモール』

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天使か妖精と片手袋なんですが、ディズニー映画『ティンカーベル』では妖精たちが片手袋を活用してましたっけ。

以上のようにほぼ全ての作品に、今まで出会った片手袋から思い当たる例が浮かんできたんですよね。

マックス・クリンガーが実際に片手袋を目撃してこの作品の構想が出来上がったのは間違いないと思います。しかし全十葉、それぞれのパターンの片手袋に出会ったはずもなく、やはり想像を広げて制作していったのだと思います。

それでも現実社会に似たような現象が見られるという事から得られるのは、「人間が想像し得ることは、現実に起こり得る」という結論で、クリンガーの作品を語る際に必ず出てくる「幻想的」というキーワードからはやや外れる感想となりました。

今回初めて『手袋』以外のクリンガー作品にも触れてみて思ったのは、幻想という突飛な空想世界を描いた作家というよりは、モチーフとして神話などを用いつつも人間が心の奥底で抱えている不安や暴力性と向き合った作家なのではないか?という事でした。

やはり実物を見られて本当に良かったです。

その後、葉山周辺の海岸を幾つか回り片手袋を探してみました。

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それほど多くはありませんでしたが、第五葉『凱旋』 のような片手袋に幾つか出会えました。

最後にたまたま訪れた海岸は、夕日が綺麗な事で有名だったらしく、大勢の人が写真を撮りに来てました。

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その中で僕だけは子供用の軽作業類片手袋を撮るのに夢中でしたけどね。

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今回「葉山女子旅きっぷ」というのを利用してブラブラしたのですが、これが異常にお得でした。

「品川・新逗子間往復運賃+逗子周辺のバス運賃+提携レストランでの食事(選択制)+提携店舗でお土産(選択制)」、これでなんと3,000円ですからね。

マックス・クリンガー展は11/5(日)までやってますし、皆様にもこの切符を利用した「秋の葉山片手袋旅」をお勧めします!


映画『パターソン』と片手袋的視線~パターン+パーソン=パターソン~

2017-09-07 00:55:06 | 番外

ジム・ジャームッシュ監督の『パターソン』という映画を見てきた。

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あらすじは以下の通り。

ニュージャージー州パターソンに住むバス運転手のパターソン(アダム・ドライバー)。彼の1日は朝、隣に眠る妻ローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)にキスをして始まる。いつものように仕事に向かい、乗務をこなす中で、心に芽生える詩を秘密のノートに書きとめていく。帰宅して妻と夕食を取り、愛犬マーヴィンと夜の散歩。バーへ立ち寄り、1杯だけ飲んで帰宅しローラの隣で眠りにつく。そんな一見変わりのない毎日。パターソンの日々を、ユニークな人々との交流と、思いがけない出会いと共に描く、ユーモアと優しさに溢れた7日間の物語。(公式サイトより)

本作は鑑賞後にジンワリといつまでも印象が残り続けるタイプの映画であったが、その良さを「何気ない日常の大切さを描いた秀作」とありふれた言葉で済ませられない何かがあった。その何かに片手袋研究家としての自分は大きく揺さぶられたのである。

本作の主人公は毎日毎日、同じような生活を規則正しく繰り返すバス運転手(このバス自体、同じルートを毎日ぐるぐると運行している)、パターソン。彼は人知れず自作の詩をノートに書き溜めている詩人でもあるのだが、この映画において詩、もしくは詩作をする上で重要な韻というものが非常に大きな意味を持っている。

おそらく監督はこの作品自体を一編の映像的な詩として編んだのだろう。

本作には複数の同じモチーフが繰り返し繰り返し登場する。双子、白黒、アボットとコステロ等々。しかしそれはまた、全く同じ姿形を取らず微妙に変化した状態で出てくるのだ。詩における韻が、響きは同じでありながら全く同じ単語の羅列ではないように。

思い返してみれば、この『パターソン』という作品をネットで知った時、パターソンという実在の町に住むパターソンという男の物語である事と同じくらい、主人公を演じるアダム・ドライバーがバスドライバーを演じている事が気になった。最初は偶然の一致かと思っていたのだが、鑑賞後はそれも監督の意図した事であるように思える。

この「少し違った形で何度も登場する」という手法は徹底されていて、主人公が大きな影響を受けているパターソン出身の実在の詩人、「ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ」の名前からして既に繰り返しなのだ。

さらにこの映画は言葉同士だけに留まらず、言葉と小道具・背景・現象・も複雑に韻を踏んでいく。例えば主人公がマッチについて詩を編んでいる時、主人公が歩いている後ろの壁には「FIRE」の文字が落書きされている。また、少女が主人公に詠んでくれた自作の詩は、後に部屋に飾られた絵や実際の風景と呼応してくる。詩における韻がリズムを生み出していくように、この画面に映るあらゆる要素で韻を踏んでいくこのスタイルは、退屈な日常を描いているだけに思える本作に独特のリズムを与えていく。

しかし重要なのは、今まで書いてきたような本作で起こる不思議な現象の数々は、映画的技法を超えて、片手袋研究家の僕にはとても自然に理解できるものだったのだ。

僕が片手袋研究を12年間続けてきて思うのは、「興味が湧くと見えていなかったものが見えてくる」ということ。

ラーメンに興味がない人にはラーメン屋が見えない。しかし、興味が出てくると「町にはこんなにラーメン屋があったのか!」というくらい、ラーメン屋が見えてくる。その人がラーメン屋に気づく前から、ラーメン屋はそこにあった。

片手袋の話を聞いてくれた人が後日、「片手袋ってこんなに沢山あるんですね!」と言ってきてくれる事がある。

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冒頭、恋人から双子の話を聞かされた主人公の目は、双子をとらえられるように変化したのだ。日頃片手袋と「なんでまたこんなところに!」という出会い方を繰り返している僕からしてみると、双子があれだけ頻繁に登場しても何ら不思議はなかった。つまりこの映画内で形を変えて繰り返し登場するものは、主人公の興味の対象なのである。そして恐らくそれらが彼の創作の源泉となるものなのだ。

またマッチのことを考えている時に「FIRE」と書かれた壁を通り過ぎる、といった偶然もじつはよくあることなのだ。

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これは「ホウスイ」という倉庫の前で放水をしているおじさんに出会った時の写真だ。

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これは(ひな鳥からしてみれば)自動的に餌を運んできてくれる親鳥の下に書かれた「AUTO SEIRVICE」の文字。

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片手袋だって周囲の文字と呼応しているように見えることは多々ある。

僕自身、退屈な日常にちょっとした心の変化をもたらしてくれるこういう偶然をとても大事にしている。

そしてこの映画自体、僕にそういう偶然を呼び込んでくれるスイッチだったらしい。何故だか映画を見ている最中から「こんな映画を見た今日は、絶対に片手袋と会う気がする」と強く思っていた。そして案の定、銀座の町に片手袋は落ちていた。

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また、鑑賞後電車で読んでいたサニーデイ・サービスの単行本『青春狂走曲』に、まるで『パターソン』について書かれたような曽我部恵一の文章を見つけてしまった。

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『パターソン』はありふれた日常の中にある大切な瞬間を描いているのではない。永遠と繰り返すありふれた日常そのものに、ポエジーを喚起する源は散りばめられている。

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『パターソン』は我々なのだ。


村上春樹『アフターダーク』の片手袋、または片手袋的読み解き

2017-08-14 21:55:06 | 番外

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村上春樹の『アフターダーク』を読んでいたら、以下の文がありました。

「路上にはいろんなものが散乱している。ビールのアルミニウム缶、踏まれた夕刊紙、つぶされた段ボール箱、ペットボトル、煙草の吸い殻。車のテールランプの破片。軍手の片方。
(『アフターダーク』村上春樹、講談社文庫P.209)

軽作業類放置型道路系片手袋ですね。

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村上春樹が道路の落ちているもののラインナップに片手袋を入れている事が嬉しかったのですが、本作を読み終わってみると案外もうちょっと深い部分に片手袋が関わってる気がしました。

本作には片手袋だけでなく、手袋の描写が幾つか出てきます。他にも「姉妹や父子」「鏡の中と外」といったように、対になるものが多く登場します。そしてそれらは時に、

・そばにいたくても離れていってしまう
・離れたくても逃れられない

という相反する状況下に置かれています。僕が片手袋研究家だから特殊なんですが、こういう描写を見るとどうしても、道端に忘れられた放置型片手袋や、拾われた介入型片手袋を思い出してしまいます。

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物語の後半、幼いころに父親が一時期刑務所に入ってしまい離れ離れになった経験を持つ高橋が、このような独白をします。

「つまりさ、僕はそのときこう感じたんだよ。お父さんはたとえ何があろうと僕を一人にすべきじゃなかったんだって」
(『アフターダーク』村上春樹、講談社文庫P.214)

高橋は父親が刑務所から帰ってきてからも、何故か心の底から安心することは出来なくなってしまいます。

僕は落とした片手袋が再び手元に戻ってきた経験はないんですが、前から感じていることがあって。

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介入型片手袋が無事落とし主のもとに帰ったとして。一定期間、自分の手元から離れてしまった手袋に対して、持ち主は再び「自分のものだ」という感覚を持てるのか?なんとなく自分の知らない世界を見てきてしまった手袋に対し、違和感を抱くのではないか?

高橋が父親に抱いた違和感は、まさにこういった感情だったのではないか?そして、その感情に苦しめられているのは主人公であるマリも同じなんですね。

マリと姉のエリは幼少期、エレベーターに閉じ込められてしまう経験をしますが、その時に二人の距離は最も近くなる。しかし、それ以降その距離の近さを経験することは二度となく、二人の関係は壊れて行ってしまう。

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これ、以前目撃した例なんですが、わずか10mほどの距離を置いて、もともと一組だった手袋がそれぞれ介入型と放置型の片手袋になっていたんです。

もともと一組だった手袋が、片方は拾われて目立つ場所に置かれ、片方は地べたに放置されている。まるでマリとエリのようです。

しかし『アフターダーク』では、どうしても近づけない事とどうしても逃れられない事に善悪の区別を付けていないような気がします。中国人に付け狙われる白川、何かから逃げようとしているコオロギは不吉な未来を纏っていますが、マリがあの晩高橋やカオルに何故か出会ってしまったことは少しだけポジティブな変化をマリに与えているような気がします。高橋が父親に、マリが姉に近付けないことは同時に、彼や彼女に別の生き方を与えたようにも思える。

そして大事なのは、「片手袋が放置型か介入型か?」というのは僕がその片手袋に出会った瞬間の判断でしかないように(一つの片手袋が放置型になったり介入型になったりすることは間々ある)、人の一生において誰かと誰かの距離なんて変化し続けていくものだ、ということ。

この小説に時々挟み込まれる第三者的視線は、それを思い起こさせるためにあるような気がします。

「私たちの視点は架空のカメラとして、部屋の中にあるそのような事物を、ひとつひとつ拾い上げ、時間をかけて丹念に映し出していく。私たちは目に見えない無名の侵入者である。私たちは見る。耳を澄ませる。においを嗅ぐ。しかし物理的にはその場所に存在しないし、痕跡を残すこともない。言うなれば、正統的なタイムトラベラーと同じルールを、私たちは守っているわけだ。観察はするが、介入はしない」
(『アフターダーク』村上春樹、講談社文庫P.41-42)

他人の人生の緩やかな変化に僕が手を加えることはしたくないので、「出会った片手袋には触らない」というルールを自分に課しています。僕はあくまで観察者なのです。そんな心持を上記のような文章は完璧に言い表しています。

たった一か所片手袋に触れている事から想像を膨らませてしまいましたが、本作品には片手袋研究を考える上で重要なヒントがたくさん詰まっておりました。

なんとなく不吉で重苦しい作品ではあるのですが、読後感は意外にも爽やかな物でした。本当のところ、作者が描きたかったのは東京の夜の闇ではなく、『アフターダーク』、つまり夜明けだったのかもしれません。

そうそう。先程紹介した介入型と放置型、別々の運命を辿っていた手袋。放置型の方の片手袋があった場所を後日通りかかったら、

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介入型掲示板系に変化してました。片手袋の、人の辿る運命は複雑ですね。