かたてブログ

片手袋研究家、石井公二による研究活動報告。

ピクサー最新短編『LOU』を見て考えた、ジョン・ラセターの「落とし物、失くされた物、忘れ去られた物達」への視線

2017-07-25 22:34:32 | 番外

先日、映画好きが集まって楽しく語らう会で、「『カーズ3』が良かった」という感想を複数聞き、気になっておりました。なんとなくネットで検索したりしていると、同時上映の短編作品のポスターに目が留まりました。

『LOU』という作品らしいのですが、ここを見て下さい。

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緑色の片手袋が写ってるじゃありませんか!ディズニーピクサーは過去にも様々な作品に片手袋を登場させてきた経緯があります。

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気付いたのは昨日なんですが、今日の夜早速チェックしてきましたよ。『カーズ3』への興味から始まった話だった事も忘れて。

『LOU』のあらすじをWikipediaから引用しますと…

ある幼稚園の運動場の片隅に、忘れられたおもちゃが入った「忘れ物預かりボックス(Lost and Found)」があり、その中にはそれらが合体して成る不思議な生き物ルーが潜んでいた。休み時間中、運動場では園児達が各々に遊んでいたが、他人のおもちゃを奪い取っては自分のリュックに隠してしまう意地悪な少年JJが出現する

この画像を見て下さい。

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つまりこのタイトル、忘れ物預かりボックスに付けられた“Lost and Found”から取れてしまった文字を並べて『LOU』になってるんです。

で、結論から言うと短編にはポスターに描かれた片手袋は登場しなかったように思います。ソフト化されたら一時停止などを繰り返して改めて確認してみますが。

しかし、落とし物、失くされた物、忘れ去られた物達にまつわる物語を描いた点で、やはり過去のディズニーピクサー映画で片手袋が描かれた時と共通点がありました。

『ティンカーベル』に出てきた片手袋。

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この物語内では、妖精たちが人間の落とし物を利用して生活しています。これは種まき機として使用しているんですね。

『モンスターズインク』の片手袋。

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物語中盤に出てくるイエティの住処は、人間が落としたであろう物で溢れています。イエティも落とし物を利用して生きてるんですね。その中からマイクは片手袋を選んで、防寒具として利用しています。

これらはあくまで物語内の小道具として登場する訳だし、僕が映画を見る際も片手袋に注意しているから気づいた訳ですが、でもピクサー、そしてジョン・ラセター体制以降のディズニー作品は、テーマそのものが「落としもの、失くされたもの、忘れ去られたもの」である事が多い気がします。

まずその筆頭がピクサーの長編映画の歴史が始まった『トイストーリー』である事は言うまでもありません。理由はお分かりですよね?

『ウォーリー』の冒頭、人間がいなくなった地球でゴミの山をひっそりと整理しているウォーリー。その姿が映っただけで何故か涙が溢れてきます。

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『カールじいさんの空飛ぶ家』では、カールじいさんはもういなくなってしまったある人の思いに捉われ生きています。

『インサイド・ヘッド』に出てくるビンボン。この映画を見た時、多くの大人はかつて自分にもいた「空想の友達」の存在を思い出したのではないでしょうか?

そして今回の短編、『LOU』。そもそもタイトルが「なくなってしまったアルファベット」で作られてますし、物語自体も「失くしたものが自分を作り上げていたことに気づく」お話でした。

その後の本編、『カーズ3』もまさにもう忘れ去られていた人(車)達の物語なんですよね。

冒頭の映画好きの会で、「ジブリの後継者は誰なんだろう?」という話になりました。細田守監督とか湯浅政明監督の名前が上がるなか、とある方が「それは日本人である必要はないし、ジョン・ラセターがしっかり志を継いでくれてるんじゃないか?」という事を仰られまして。僕が全く思いつかなかった視点でありながら、膝を五千回くらい打ちたくなるご意見でした。

というのもちょうど『メアリと魔女の花』を見て、「ジブリの意思を継いでいくって、どういう事なんだろう?」と考えていた所だったのです。例えば、『となりのトトロ』公開時の糸井重里氏のコピー。

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「このへんないきものは、まだ日本にいるのです。たぶん」

巨神兵の存在そのもの。誰からも忘れ去られひっそりと空に浮かび続けるラピュタ。もう殆どの人が存在は知っていても実際に見たことはなくなってしまった魔女の力。バブル期に建造されたと思しきテーマパークの廃墟とシームレスに繋がる神様たちの異世界。

もしジョン・ラセターがジブリから何かを引き継いでいるのだとしたら、こういった「もうなくなったもの、なくなっていくもの」への視線である気がしてなりません。そしてジブリ映画をジブリ映画たらしめているものは、「飛翔」でも「おいしそうなご飯」でも「戦闘少女」でも「ファンタジー」でもなくて、意外にもこの視線だったのではないか?

そしてその視線があるからこそ、手描きアニメと正反対であるフルCGアニメであっても、ラセターが指揮を執るディズニーやピクサーの作品にはジブリと同じような誠実さを感じるのかもしれません。今回『LOU』を見て、あらためてそんな事を考えてしまいました。

ここまで来たらもう一歩。あとは片手袋そのものが主題となる作品が作られる日を待ち望んでおります。


『俺、満島ひかりが片手袋投げたらどんな顔するだろう(知らねーよ!)』

2017-07-19 22:12:00 | 番外

一か月以上前に公開され話題を呼んだMONDO GROSSO『ラビリンス』のPV。

満島ひかりが曲名の通りな香港の町中を怪しく彷徨うこのPV。曲も満島ひかりのダンスも独特の浮遊感があり、なんか中毒性があって何回も見てしまいますよね。ちょっとRadioheadの『Daydreaming』のPVを思い出しました。

さてこの『ラビリンス』、僕もここ一か月何回も見ていたんですが、とんでもない事に気づいてしまったのです。

ちょうど1:40くらいからのシークエンスを見て欲しいのですが、満島ひかりが商店の棚に並べられた何かに気づきます。

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そしてそれを手に取り、投げるのです!

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これ、何回も繰り返して見たんですが片手袋ですよ!気づいた時は腰を抜かしました!

こちらの映像ではこのシーンの別角度や(1:30くらいから)、このPVの撮影裏を見れるのですが…



世界的に有名な振付家の方と打ち合わせながら撮っている部分(当然振付がきちんとある踊りの部分)と、監督と話し合って割とアドリブ的な動きで撮っていく部分があったみたいです。

で、おそらく片手袋を放り投げたシーンはアドリブだったんじゃないかな?と。

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片手袋を見つけた瞬間の満島さんは、なんとなく「ん?」という感じが漂っていて、あらかじめこれを投げることが決まっていたようには見えないんですよね。

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それなのに投げ終わった後のこのチャーミング且つ妖艶な表情。満島さん、あんたスゲーよ!

全体的に迷宮に迷い込んだような不思議な感覚が漂うこのPVですが、この片手袋放り投げシーンがある事でそこに若干のユーモアもプラスされている気がします。先程のさう栄舞台裏映像の中でもこのシーンは取り上げられているので、製作者側も気に入っているんじゃないかな?と勝手に思ってます。

今回は「何故満島さんが片手袋を投げたのか?」とか「意図していたのか、偶発的なのか?」といった疑問に明確な答えは出せませんが、いずれにせよ満島ひかりさんは、

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『ギルダ』のリタ・ヘイワース、

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『アナと雪の女王』のエルサと並び、

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「世界三大片手袋放り投げ女性」に見事選ばれました!おめでとうございます!

それにしても、本当に思いもよらぬところで片手袋と出会うから、全く気が抜けませんよ。


『公的でも私的でもない曖昧な空間~田中元子さんと岸野雄一さんの対談から~』

2017-07-12 21:57:47 | 番外

昨日(7/11)、フェイスブックライブで配信された、建築評論家の田中元子さんスタディストの岸野雄一さんの対談が非常に面白かったです。

こちらからアーカイブを見ることが出来ます。

その内容は僕が片手袋や路上観察を通して見ている東京という町、そして地元の一住民として町内会などで担おうとしている役割などに深くかかわる内容でしたので、このブログに備忘録を書いておこうと思います。まとまりもなく非常に長い記事です。すみません。

実は四月に神田の美学校で『公的領域と私的領域の間で』という今回の配信と同じようなテーマで行われた、岸野さんのトークイベントにも伺いました。その時は町内会の成立過程など概略的なお話だったのですが、今回は「コンビニDJ」に代表される岸野さんが関わっておられるイベントの具体例について聞けました。

二時間ほどの対談の中で大きなテーマとして立ち上がってきたのは、主に二つだったように思います。それは「コミュニティ」と「公共性」という事です。田中元子さんによりますと、公共性というのは近年建築界でも(良くも悪くも)多用されるテーマだそうです。そしてその二つのテーマを考える上で、先程の美学校でのトークイベントのタイトルでもあった『公的領域と私的領域の間で』というのが共通のキーワードとして浮かんできたように思います。

そしてそれは、僕が個人的にここ数年ずっと考えてきたテーマでもありますし、僕の地元で様々なゲストをお招きし開いているまちづくり(これも使い方が難しい単語です)勉強会において、不思議なことに全然違う分野の方々が「都市の余白」や「都市の行間」という表現で同じことを述べて下さっているのです。

公的でも私的でもない曖昧な空間。都市の余白や行間。個人的には多くの人が現在の都市生活にある種の息苦しさを抱えているゆえに、そのようなキーワードが出てくるのだと思っていますが、僕の専門である片手袋研究や路上観察、そして町会での活動などを例に具体的に考えてみようと思います。

☆いつの間にか現れてくる曖昧な領域

ヨーロッパの町などは教会前の広場などが公でも私でもない曖昧な空間を担っているように思います(海外渡航経験が非常に乏しいので間違っていたらすみません)。

近年、様々な大学の建築学科の学生が僕の住んでいる町に勉強の一環として関わってくれているのですが、彼らが設計した住宅模型などを見せてもらうと、個人の住宅であってもあらかじめ町に開かれた曖昧な空間が設けられていることが非常に多いのです。というより、そのような空間の必要性を感じているからこそ、僕らの町に入り込んで実際のコミュニティ(この場合は町内会)ではどのようにそのような場を設けているのかリサーチしに来ているようです。

“公”園と言いながらキャッチボールも花火も犬の散歩も出来ない。道路で子供を遊ばせれば「道路族」として煙たがられる。家から一歩出れば常に公人としての振る舞いを求められる東京の現状では、やはりどこかで息苦しさが爆発してしまいます。

そういった問題への対処として、例えば建築の世界では都市計画としてあらかじめ公でも私でもない空間を確保する手段が講じられているのでしょう。しかし、ある建築学科の学生が教えてくれたのですが、「多目的スペースをあらかじめ設けると、そこは結局デッドスペースになってしまう」という問題があるそうで、建築に限らず行政など上からの指導で曖昧な空間を設けるのはなかなか難しいようです。

しかし実は、曖昧な空間というのは計画的に設けられる事もあれば、住民側から自然発生的に設けられる事もあるのではないでしょうか?そして我々はそれを上手に活用してきたのではないでしょうか?

僕は片手袋以外にも色々と撮っていますが、その中の一つに「バス停の椅子」があります。

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これはバス停という公的な空間に感じる不便さを、利用者や近隣の住民が自主的に改善したくて生まれるものです。おそらく法的にはアウトなのですが、利便性が勝るためになんとなくそのままになっている。つまり、公でも私でもない曖昧な空間なのです。

しかしこのバス停の椅子も、公と私を厳密に分けようという視線に晒されると、下の記事のようにたちまち問題化してしまうこともあるのです。

バス停ベンチ壊れソファに 横浜市は撤去方針

片手袋の落とし主を慮って通りすがりの人が目立つ場所に移動してあげる「介入型片手袋」にしても、ある意味では公的な場所を占拠している訳で、うるさい人がいればすぐに取り除かれてしまう可能性はあるのです。

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公でも私でもない曖昧な空間は、全てにピントを合わせずうすぼんやりと世界を眺めるときに生まれる死角にこそ現れるのでしょうし、そういう風に世界を眺めることで自分達自身が生きやすくなる知恵を元来我々は備えていたのではないでしょうか?

そして片手袋に限らず路上観察の楽しみはまさに、公である筈の場所に素知らぬ顔でいつの間にかニュルリと侵入している私的な表現にこそあると思います。

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(路上園芸も恐らく厳密には法的にアウトなのだろう)

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(何故か掲示板に張られていたロースハム)

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(その楽しみは時に、ただのいたずらスレスレのものだってあるかもしれない)

岸野さんが関わっているレコードコンビニも、過去に様々な問題が立ち上がったのであろう事は、配信を見ていて感じました。しかし、主催者だけでなくお客さん側も曖昧な空間を守るために必要な態度を徐々に身に付けていったのでしょう。岸野さんが公の場ではレコードコンビニの正確な場所を口にされないのも、曖昧な空間を維持する為の工夫であるように思います。

本来は言語化しなくても様々な形で維持されていた曖昧な空間ですが、何事も線をビチッと引きたがる昨今では、やはり何らかの戦略も必要になってくるでしょう。

☆閉じたコミュニティと開いたコミュニティ

岸野さんと田中さんの対話の中で面白い例が挙げられていました。

全面ガラス張りの開放的なカフェの中で、音楽のライブが開かれていてお客さんが手拍子をしているのが外からも見える。一見開かれているように思えるが、物凄く閉じた空間に見えてしまい加わろうとは思わない。

ありますよね、こういう時。

一番最近のまちづくり勉強会で、東大の建築学科の学生が発表してくれました。彼は先述の公でも私でもない空間の研究として、祭礼時の神酒所や直会会場が各町会においてどのように確保されているか?を調べていました。

僕なんかも町会活動をやっていて思うんですけど、閉じていて近寄りがたい組織と思われがちな町内会において、やはり祭礼は重要なんですよね。普段顔を見ないような人でも、祭りの時だけはお神輿を担いだりちょっとした手伝いを負担してくれたりする。

都心であっても少子高齢化は深刻な問題ですし、大震災も経験しましたから、やはりもしもの時のことを考えると、出来るだけ開かれたコミュニティを作っておきたい訳です。

で、先程の学生の発表事例の中に、路上で地べたに座って直会を開いている例があったのです(実はうちの町会もややこれに近い)。これなんかは究極的に開かれている訳ですが、祭りの時だけ顔を出した人からしてみればむしろ入りづらくて閉じているように思えるかもしれない。

別に町会側だって意図的に閉じようとしているわけではないのですが、結果的にそうなってしまう場合もある。ここが難しいのです。

僕が岸野雄一さんの様々な活動を追いかけていて素晴らしいな、と感じるのは、“ここにいる人”と同じくらい“ここにいない人”を意識している所なんです。言い換えれば「連帯が生み出す新たな分断」「参加する自由と参加しない自由を等しく見る」とでもいいますか。

田中さんが、「ほとんどの苦情は“私は声をかけられていない”という疎外感からきている」というような事を仰ってました。

だからやっぱり開かれたコミュニティとは、(全員が満足した状態は無理だとしても)一部の人が強烈に繋がるのではなく、沢山の個が楽しんでいて緩やかに繋がっている状態、なのかな?と。

で、その為に必要なのは「公共」とか「コミュニティ」というマジックワードを用いる前に、一つ一つの企画の面白さ、居心地の良さを追求していく事が大事なのでしょう。

僕達の町会ではその為に、毎年必ず行われる祭礼などとは別に、「ストリートウエディング」や「夏休み子供野外映画会」なんかを仕掛けています。

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(この時は岸野さんがプロデューサーを務める海藻姉妹さんに音楽をお願いしました)

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(子供向けではありますが、幅広い年代が一堂に会する事を狙っていたりします)

ただ岸野さんも仰ってたけど祭りやイベントが生み出す忘我の感覚は危険と隣り合わせだろうし、「楽しそうだから」という事自体に反発を感じる人もいるので、やはり色々難しいですね。

で、田中さんが最後の方に仰っていた「町会とかが崩壊した後のコミュニティ」という課題。これは僕も、「これだけ少子高齢化が進んでしまうと、町会という単位で様々な問題に取り組むのはいずれ難しくなってくるだろうな」と実感しています。

で、その後に立ち上がってくるコミュニティの可能性を、僕は片手袋に見出している部分があるんです。

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「手袋を落とす。それを拾ってあげる」

そういうちょっとした善意の連鎖が、全然会った事もない者同士の間で当たり前に成立している。「都会は冷たい」なんて簡単に言ってしまいがちですけど、本当にそうなんでしょうか?

大げさでなくちょっとした、顔も名前も知らない他人だからこそ、発揮される善意もあるのだとしたら?

そういったものこそ、住んでいる場所などに捉われない、新たな形のコミュニティの礎になるのかもしれません。

長々と書いてしまいましたが、とにかく僕の戯言とこじつけは置いといて、岸野さんと田中さんの対談自体が物凄く面白いのです。もう途中でディスプレイに飛び込んで議論に混ぜて貰いたいくらいでしたよ!皆様も是非ご覧になってみて下さい!

最後にもう一度リンクを。

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最後にもう一つだけ重要なことを。

以上のように長々と書きましたが、僕が片手袋に惹かれ、片手袋を研究し続けているのは、「〇〇に役立つから」「〇〇を考える上でリンクしてくるから」という理由や目的を設定しているからではありません。

あくまで「なぜか片手袋に惹かれてしまう」という自分でも解読不能な欲求が沸き起こってしまうのが先に立っています。

そうして撮影や研究を続けていくうちに、興味を持っている他の分野とリンクしてくる事が多々あるのです。

むしろ目的や狙いがあって始めたことは、意外に長続きしないものです。


『いま、ここにいる』展を見てきました

2017-07-07 20:20:20 | 番外

先日、東京都写真美術館で開催中の『いま、ここにいる』展を見に行ってきました。

きっかけとなったのは、先日の『別視点ナイト』をご覧になった方のつぶやきでした。なんでも、「植木鉢やゴムホース、おまけに片手袋の写真まである!」との事。『別視点ナイト』でも話をさせて頂きましたが、町で出会う片手袋を記録するのとは別に、絵画や映画などあらゆる創作物の中に登場する片手袋を収集するのも僕の大事な役割の一つ。

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この展覧会のことは全然知らなかったので、慌てて恵比寿に向かいました。

『いま、ここにいる』展の趣旨はHPで読んで頂くとして、問題の片手袋が登場する作品は、安村崇氏の『日常らしさ』という連作の中の一枚でした。

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これがその写真です(※画像はこちらのサイトから転載させて頂きました)。

安村氏の実家の風呂場の何気ない風景。おそらく作者が手を加えたのではなく、本当に日常的にこのような風景が繰り返されているのでしょうね。

湯かき棒に乗せられたピンクのゴム片手袋。一見すると

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このような「介入型棒系片手袋」に見えますが、僕はおそらく違うと思います。多分これはお風呂掃除の際に使用したゴム手袋を乾かしているのでしょう。そうだとすると、

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たまに見かけるこのような「植木の上などに引っかけられている片手袋」に近いと思います。多分土の入れ替え時などに使用した軍手を洗って乾かしているんですね。

こちらのサイトの作品解説には、「世界の「裂け目」を露わにするそのユニークなまなざしは…」 とありますが、やはり人の手の形をした手袋が片方だけ現れた瞬間、どんな景色も普段とは違う異質なものに感じられ、世界の裂け目が表出してくるような感じに襲われてしまいます。

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安村氏の片手袋写真はその裂け目が、実家という極めて日常的な空間にすら現れることを教えてくれます。

いや~、こんな素晴らしい片手袋作品を見逃さずに済んでよかったです。創作物の中の片手袋は、僕がありとあらゆる創作物をチェックすることが不可能な以上、見逃してしまう可能性も大きいのです。こればかりは集合知に頼るしかありません。

皆様も、「〇〇に片手袋が登場するよ!」という情報がありましたら教えて頂けると幸いです。

ちなみに『いま、ここにいる』展は、恵比寿の東京都写真美術館で今週日曜(7/9)まで開催しています。


『片手袋を題材にした新たな絵本を発見!~てぶくろくろすけ~』

2017-03-27 23:25:31 | 番外

片手袋が話の主題になっていたり、片手袋が登場したりする作品は古今東西あらゆるジャンルに存在しています。それらを収集するのも片手袋研究家の大事な役目です。

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それらをまとめた上の図を見て貰うと、片手袋にまつわる絵本の多さに気付いて頂けると思います。

・そもそも僕が片手袋に興味を持ったきっかけは、小学校一年生の時に出会ったウクライナの絵本『てぶくろ』である事は何度もお伝えしてきました。

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『てぶくろ』(福音館書店)

当ブログでの紹介記事はこちら。

・アカデミー賞にノミネートされた事もある山村浩二さんが絵を手掛けた、『カタッポ』という作品もあります。

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『カタッポ』(福音館書店)

当ブログでの紹介記事はこちら。

・アメリカにも『てぶくろがいっぱい』というふたごと沢山の片手袋のお話がありますよ。

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『てぶくろがいっぱい』(偕成社)

当ブログでの紹介記事はこちら。

・北欧ノルウェーからは『キュッパのはくぶつかん』。こちらは片手袋がメインではありませんが、注意して絵を見て貰うと沢山の片手袋が描かれています。

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『キュッパのはくぶつかん』(福音館書店)

当ブログでの紹介記事はこちら。

・さて、今日の本題。またまた片手袋絵本を見付けてしまいましたよ!しかも発行は1973年。40年以上も前の日本の絵本です!

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『てぶくろくろすけ』(福音館書店)

手袋の一家ではみんな右と左が一緒になって眠っていました。手袋のくろすけは、片一方だけで部屋をぬけだし雪野原で遊びまわるうち、坂道をすべりおち“てぶくろこどもこうえん”に着きました。そこではたくさんの手袋の子どもたちが遊んでいましたが、みんな左右いっしょで、ひとりだけのくろすけは仲間に入れてもらえません。長新太が手袋の世界をシンプルな配色で描きます。(福音館書店のサイトより)

てぶくろくろすけ君のいたずら心から始まる冒険譚です。今までご紹介した中では『カタッポ』に近いですね。でも『カタッポ』は悲しいような温かいような結末を迎えますが、こちらはもう少し楽しい感じのお話。

でも、あの長新太が絵を手掛けていますので、楽しいながらも全体的に不思議な雰囲気(うっすらと怖さすらも)が漂っているんです。なんというか、『おしいれのぼうけん』っぽい感じ、と言いますか。

とても幻想的な魅力を持った作品なので皆さまにも読んで頂きたいのですが…。残念ながら「こどものとも」という福音館が月刊で出している絵本シリーズ、しかも40年以上前の作品ですので、手に入り辛いとは思います。でもAmazonでは若干中古で手に入るみたいなので、気になる方はチェックしてみて下さい。

それにしても、なぜ片手袋は絵本作家を惹きつけるのか?やはり片手袋の不思議な存在感が、物語の創作意欲に火をつけるのでしょうね。

今後も片手袋と絵本の関係は探っていきたいと思います。