神なる冬

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コンサドーレサポーターなSFファンのブログ(謎)

[SF] 一九八四年(新訳版)

2009-08-12 21:10:18 | SF
『一九八四年(新訳版)』 ジョージ・オーウェル (ハヤカワepi文庫)




読んでないくせに読んだと言っちゃう小説ナンバーワンの『一九八四年』をついに読みました。

村上春樹の『1Q84』に便乗だったのか。村上ハルキは世界の終わりも羊も図書館で借りて読み終われずに返しちゃったくらいだから、ぜんぜんわかりませんぉ。

読んでみて、あらためて、『時計仕掛けのオレンジ』や『未来世紀ブラジル』など、様々なの著作物への影響を感じた。言ってみれば、原典にして聖典みたいな感じですか。これはさすがに、その手の人は、読んでなくても読んだといわなきゃいけない気分になるな。

さて、その内容ですが、基本はバッドエンドのラブストーリー。ただし、その舞台は共産主義国家をモデルにしたようなオセアニア。オセアニアと言っても、オーストラリアだけではなく、南北アメリカやアフリカの一部と、舞台のブリテン島を含む広大な国家。ここが最初のうちにちょっと違和感があった。ロンドンがオセアニアって。

その共産主義というか全体主義は、著作された1948年(ちょっと訳ありでcopyrightは2003)には、イギリスやアメリカにとって脅威であり恐怖の対象だった。まぁ、問題なのは共産主義というよりは、共産主義を守るための全体主義的な国家のあり方なんでしょうが。その意味では、日本共産は相当損をしているよね。解説でトマス・ピンチョンが何を言おうと、これは当時の反共産主義小説と取られても仕方ないんじゃないかな。あえてそういう書き方をしているんだし。

で、今から60年も前に描かれた近未来小説(舞台設定ですら25年も前だ!)でありながら、描かれている社会のおぞましさは今でも健在で、たとえば“北”と略される国家のことが容易に想起されるわけだ。

一方で、じゃあ日本はビッグ・ブラザーと無縁の自由主義国家なのかと言えば、そうとも言い切れないわけで。

ビッグ・ブラザーというか、監視社会そのものが悪いとは、実は考えていない。端的に言えば、自分は街角監視カメラ容認派である。ただし、それは公共の場所にかぎられるべきだし、監視カメラに向かって、「総理大臣はバカ」とか、「経団連会長はアホ」とか言って中指を突き立てる自由は保護されるべきだ。政治圧力によって過去が改変されるなんてもってのほかだ。なぁ、隣国さんよ。

2+2=4だ。それは数学的には“真”だが、2+2=5だと言い張る人がいてもいい。2+2=4だというだけでなく、2+2=5だと言い張ることもできる。それが自由だ。

しかし、日本におけるビッグ・ブラザーとは、少なくとも今のところ、国家ではない。(児ポ法関連は怪しいのだが……)

ビッグ・ブラザーとは世間様(日本語として“様”付いても違和感が無いことがその傍証)であり、「空気読めない」の空気であり、炎上中ブログのコメント欄や2chのスレッドの同調圧力である。一時期はマスコミがこの空気を作っていたが、今ではマスゴミ扱いで、マスコミ自体が世間様というビッグ・ブラザーに監視されている始末。

自分が『一九八四年』という小説に感じた怖さは、日本がビッグ・ブラザーに支配されることが想像できてしまう怖さなのだ。それは、けして過去の物語ではないし、隣国の物語でもない。そして、日本の怖いところは、『一九八四年』で希望とされたプロール(プロレ=プロレタリア:労働者)こそがビッグ・ブラザーに成りうるということではないだろうか。