神なる冬

カミナルフユはマヤの遺跡
コンサドーレサポーターなSFファンのブログ(謎)

[コンサ] 2010 J2第05節 岐阜 - 札幌

2010-04-04 20:59:13 | コンサ
2010 J2第05節 FC岐阜 3-0 コンサドーレ札幌 @FootNik大崎


今日は大崎のFootNikへ行ってきました。
オフィスが休みのせいか、閑散とした大崎駅は独特な雰囲気で、ちょっと不思議な感じだった。
そんな中で、唯一立ち飲み客まで出ている大盛況の店がFootNik。
キルケニーうまー。ギネスうまー。
昼間から飲むビールはうまいねぇ。

以上。




で終われねぇー!



立ち上がりはコンサドーレがペースを握っているように見えた。しかし、相変わらず、中盤でのパスミスが多く、フィニッシュまで繋がらない。そして、繋がってもシュートが枠に行かない。いったいどういう練習をしているのか、プロなのか。

一方の岐阜は縦に速いパスをどんどん蹴りこんできて、コンサDFとの徒競走を繰り返す。

どちらもチャンスを作るが、決められずに前半終了。

ところが、後半早々にセットプレーから岐阜の西川のヘディングがゴールライン上へ。高原が間一髪掻き出したように見えたが、ゴールの判定。

ここから札幌が直も3-5-2にシステム変更までして攻め込むが、返って岐阜のカウンターの餌食となり、福岡戦の記憶が新しいままに、再びの大敗。君の瞳に完敗。

おまけに、3人交代後に石川が負傷退場というおまけまでついて、早くも昇格争いは終戦な気分。


今日の敗因は、岐阜の速い縦パスを警戒しすぎたのか、DFラインがずりずりと下がってしまったことだろう。さらにボランチの二人もさらに下がり、DFラインの2、3歩前にポジションを取ってしまっていた。サイドの二人は左右に開き、トップの二人は相手DFライン上となれば、フィールドの真ん中にポッカリと大きな穴が。

その結果、セカンドボールはすべて岐阜に拾われ、札幌のパスはFWまで届かない。結局、DFラインから中盤の穴を飛ばして蹴りこむしかできなくなっていた。

その穴に気付いて埋めようとしたのがボランチでもサイドの選手でもなく、FWの二人だったことも原因のひとつ。キリノ下がってくんな!

今日、よかったのは宮澤がいいシュートを撃てたこと。枠の外ではあったけど、これまでまともにシュートを撃ってなかったような気がする。あれが90分間できればいいんだけど。


しかし、それにしても、FootNikで同時放映されていた仙台-鹿島戦。仙台サポは楽しそうでうらやましかったなぁ。


昨日のサクラ(第2週)

2010-04-04 08:45:08 | Weblog
結局、次の日になってしまったので、またしても「昨日のサクラ」。

多摩川沿いを羽村の堰から根川緑道まで往復。
そこら中で花見です。自転車、走れません(笑)

一番人が多かったのは、福生の桜まつり近辺。ここは堤防にSL(たぶんガス駆動)まで来ていて、どこの遊園地だという感じ。

ちょっと問題だと思うのは、通行規制だの、自転車は降りて押してくださいだのの通知も看板も無かったこと。どこからどこまでが桜まつりの会場なのか、そもそも多摩川堤防が桜まつりの正式会場なのかもよくわからない状態だったことだ。

それでも警備員が高圧的に自転車は降りて押せだの、「みんな気を使ってるんだから」とかメガホンで叫ぶのがウザイ。“みんな”ってなんだ。そんなんだから外国からバカにされるのだ。自転車降りて押すのは、みんなが降りてるからじゃなくて、人ごみで危険だからだろ。

前もっての告知も現地の看板も無い状態で、堤防占拠はまずいだろう。多摩川堤防なんて、羽村の堰から羽田空港までサイクリングするルートになっているんだから、知らずに自転車で溯上(笑)してきたサイクラーが戸惑うだろ。

それとも、福生市は堤防を「道」だと思っていないんだろうか。
エコだエコだといったり、健康にいいといったり、自転車推奨しておきながら、相変わらず肩身が狭いことで。まぁ、確かにマナーが悪い自転車も多いんだが、最初から考慮に入れないってのは無しにして欲しいよなぁ~。


4月3日(土)のつぶやき

2010-04-04 00:09:27 | つぶやき
08:03 from Tween
伊藤計劃『ガンズオブザパトリオット』間違えて2冊買ってしまった。誰かに差し上げようと思っていたのだが、小説としては微妙な感じなので躊躇する。ゲーム好きの人で欲しい方いますか? ってどうやって受け渡すんだか。
08:12 from Tween
人事異動があったりで各方面連絡がつきづらく、回答が返ってこない。おかげで無駄に会社で夜中まで待つハメになる。定時以後に投げ込まれたイベントには次の営業日まで反応しなくても良いということをルール化すべきだ。
08:22 from Tween
一緒に大崎行こうぜと言ってたひとからも返事が来てない。 (´・ω・`)
08:43 from Tween
朝から洗濯。すすぎが一回で済むという洗剤なので、1回すすぎにしてみたのだが、洗い上がりがどうも洗剤臭い。大丈夫なのか、これ。とりあえず乾かしてからもう一度クンカクンカしてみる。
09:46 from web
曇ってる。晴れねぇ!
14:41 from Tween
多摩川堤防走って来た。桜まつりで人すげぇ。
14:45 from Tween
うは。東京緑、やっちまったな。
14:51 from Tween
うおぉ。J2パックだから播戸見られない(泣 RT @polodole: 播戸が決めた~~w セレッソ3点目
14:56 from Tween
ヴェルディ、また勝ち星無しかよ。一応都民だからちょっとだけ応援してるんだけど…。
14:57 from Tween
いいもん。どっかでダイジェストみるから! RT @polodole: @kats_takami 播ちゃん走り回って喜んでましたよ~w
23:00 from Tween
なにぃ~。飲んで帰ってきたら、元気がゴールとな!
23:05 from Tween
アフゲーのラストで元気のゴールシーン見た。あんなゴールはじめてじゃないか。やっぱり、J1&J2ライブに鞍替えしなきゃダメか?
by kats_takami on Twitter

[SF] 世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド

2010-04-03 09:22:11 | SF
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』 村上春樹 (新潮文庫)

映画『涼宮ハルヒの消失』で髪の青い人が読んでいた本。
なんでわからなかったのかといえば、映画に出てきたのは新装版のハードカバーで、俺が知っているのは昔のピンク色のカバーだったから(笑)

実はこの本、大学生時代に図書館から2度借りて、2度とも読み終わらずに返してしまったんだよな。今回も序盤は読みずらい文章だなぁと思ってしまった。下巻に行く頃は慣れてきたけど。

あー、たぶん、読みづらいのは改行位置が好みじゃないからだな。ラノベみたいに改行だらけにしろというのではなく、改行して欲しい位置で改行していなくて、改行しなくてもいい位置で改行しているように見える。まぁ、慣れの問題なんだろうけど。

で、地下世界を放浪するあたりとかで結構ワクワクはしたが、終わってみればあの辺は実は蛇足だったりとか。世界が終わるというのはピンク姉ちゃんの誤解だったとか、どんだけぇ~。

最後まで読み終わっても、なんだか腑に落ちなかっので、ググって見た。有名な小説だから、解説っぽい文章が転がってるだろうと思ったのだ。

そこで、「世界の終わり」に“僕”が到着するのは、「ハードボイルド・ワンダーランド」のラストシーンという解説を見た。

おぉ、そうなのか。てっきり、博士から喰わされたデータこそが“僕”なんだと思ってた。

「世界の終わり」と「ハードボイルド・ワンダーランド」は同時並行だと思ってた。だからこそ、「ハードボイルド・ワンダーランド」の出来事や出会いが「世界の終わり」に影響してるのだと。あれは文学的な構造であって、現実としては無関係なのか。

そういえば、図書館の女性と出会うのは、「世界の終わり」の方が前だったっけ。

でも、「世界の終わり」で逃げ出した“影”は、“僕”にとってなんなんだろう。最初に読んだときの解釈では、博士が送りこんだデータは「ハードボイルド・ワンダーランド」の“私”のコピーであり、それが一度壁の中に入り、“影”と壁の外へ逃げ出す(つまり、壁の外の意識まで支配してしまう)ことによって第3回路が完成するのだと思っていたんだけど。

で、“僕”は壁の中にとどまり、影しか逃げ出さなかったことにより、第3回路による支配は失敗するというハッピーエンドだと思っていた。

そういえば、第3回路に支配された後、主人公の体はどうなるのかというのが、まったくほのめかされていない上に、web上の書評や感想を読んでも、誰も触れていないのも気になる。みんな気にならないわけ?って、みんなって誰。

そのまま死んじゃうんだったら、「世界の終わり」が「ハードボイルド・ワンダーランド」の後っていうのはおかしいし、(死後の世界なら、影はどこに脱出したのか?)別人格になってしまうなら、その人格はどこから来るのか。植物状態になって、“僕”の帰還を待っているのか?

そもそも、それならば、“私”と“僕”の一人称が違うのはなぜぇ! 絶対、二人は完全な同一人物じゃないはずだよ!

とかなんとか、つらつらと考え続けるに、さっぱりわかりません。

プロパーSF読みとしては、“世界はどのようになりたっているのか”に興味がいくのだが、文学としては“その中で人間はどのように生きているか”の方が重要視されるのですかね。

たとえば、「<心>が無い」といわれたときに、<心>とは何か、どうして<心>が無くなったのか、という方向に興味が湧くのがSF読み。その正体や仕掛けに衝撃を受ければ《センス・オブ・ワンダー》であり、その中に現代社会や普遍の真理を見出すことができれば、さらなる衝撃に繋がっていく。

<心>を失った人たちの静謐な世界を愛でるのが文学読み? うーむ。この小説の読みどころがさっぱりわからんぜよ。そういう意味では、最後まで腑に落ちる感覚がなかったため、正直に言って消化不良。


この後、長門と「世界の終わり」ついて考えようかと思っていたんだが、小説自体が消化不良なので保留……。