>そうではなくて、均質的なものが、割り当てられた設計図通りに、決められたポジションから動かず、割り振られたルーティンをこなすだけの、生命力も繁殖力も失った、死んだような「和」です。
そうですね。定められた蛸壺の中に入って死ぬまで銃を撃ち続ける皇軍兵士のようなものですね。
> 「調和すること」と「静止すること」はまったく別のことです。>でも、共感主義者たちには、その違いを意図的に混同させています。
そうですね。彼らには考えることに慣れていない。だから、厄介払いのために意図的混同に執着せざるを得ないのでしょうね。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' 対 '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
>今の日本社会では「動的な調和」ということは求められていません。 >求められているのは「割り当てられた場所から身動きしない」ことです。
そうですね。アニマルの飼育方法と同じですね。
>その「檻」を形成しているのが、粘ついた共感です。>自他の粘ついた共感による癒着が、人が自由に動くことを妨げている。
そうですね。なれ合いですね。なあなあ主義ですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。
> 共感なんか、なくてもいいじゃないですか。>そんなものばかり求めていると、身動きできなくなりますよ。
そうですね。自己の気分・雰囲気・感情に囚われて我々の共通の目的を見失ってしまいますね。
>きちんと条件を定めて、ルールを決めておけば、共感できない人、理解できない人とでも、共生し、協働することはできる。>何らかの「よきもの」をこの世に送り出すことはできる
そうですね。民主政治 (多数決原理) も意味を持つようになりますね。
>その方が粘ついた共感の檻に閉じ込められて、身動きできずいいることよりも、ずっと愉快だし、有意義だと僕は思います。
わが国を覆う時代閉塞の感覚を払拭できますね。
見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。日本語には、非現実 (考え) の内容を語る為の時制のある構文がない。
現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。
非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。
理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。
>でも、そのことをアナウンスする人が少ない。
そうですね。理解する人が少ないからですね。一緒にアナウンスする人を増やしましょうね。
>そうではなくて、均質的なものが、割り当てられた設計図通りに、決められたポジションから動かず、割り振られたルーティンをこなすだけの、生命力も繁殖力も失った、死んだような「和」です。
そうですね。定められた蛸壺の中に入って死ぬまで銃を撃ち続ける皇軍兵士のようなものですね。
> 「調和すること」と「静止すること」はまったく別のことです。>でも、共感主義者たちには、その違いを意図的に混同させています。
そうですね。彼らには考えることに慣れていない。だから、厄介払いのために意図的混同に執着せざるを得ないのでしょうね。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' 対 '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
>今の日本社会では「動的な調和」ということは求められていません。 >求められているのは「割り当てられた場所から身動きしない」ことです。
そうですね。アニマルの飼育方法と同じですね。
>その「檻」を形成しているのが、粘ついた共感です。>自他の粘ついた共感による癒着が、人が自由に動くことを妨げている。
そうですね。なれ合いですね。なあなあ主義ですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。
> 共感なんか、なくてもいいじゃないですか。>そんなものばかり求めていると、身動きできなくなりますよ。
そうですね。自己の気分・雰囲気・感情に囚われて我々の共通の目的を見失ってしまいますね。
>きちんと条件を定めて、ルールを決めておけば、共感できない人、理解できない人とでも、共生し、協働することはできる。>何らかの「よきもの」をこの世に送り出すことはできる
そうですね。民主政治 (多数決原理) も意味を持つようになりますね。
>その方が粘ついた共感の檻に閉じ込められて、身動きできずいいることよりも、ずっと愉快だし、有意義だと僕は思います。
わが国を覆う時代閉塞の感覚を払拭できますね。
見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。日本語には、非現実 (考え) の内容を語る為の時制のある構文がない。
現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。
非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。
理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。
>でも、そのことをアナウンスする人が少ない。
そうですね。理解する人が少ないからですね。一緒にアナウンスする人を増やしましょうね。
>そうではなくて、均質的なものが、割り当てられた設計図通りに、決められたポジションから動かず、割り振られたルーティンをこなすだけの、生命力も繁殖力も失った、死んだような「和」です。
そうですね。定められた蛸壺の中に入って死ぬまで銃を撃ち続ける皇軍兵士のようなものですね。
> 「調和すること」と「静止すること」はまったく別のことです。>でも、共感主義者たちには、その違いを意図的に混同させています。
そうですね。彼らには考えることに慣れていない。だから、厄介払いのために意図的混同に執着せざるを得ないのでしょうね。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' 対 '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
>今の日本社会では「動的な調和」ということは求められていません。 >求められているのは「割り当てられた場所から身動きしない」ことです。
そうですね。アニマルの飼育方法と同じですね。
>その「檻」を形成しているのが、粘ついた共感です。>自他の粘ついた共感による癒着が、人が自由に動くことを妨げている。
そうですね。なれ合いですね。なあなあ主義ですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。
> 共感なんか、なくてもいいじゃないですか。>そんなものばかり求めていると、身動きできなくなりますよ。
そうですね。自己の気分・雰囲気・感情に囚われて我々の共通の目的を見失ってしまいますね。
>きちんと条件を定めて、ルールを決めておけば、共感できない人、理解できない人とでも、共生し、協働することはできる。>何らかの「よきもの」をこの世に送り出すことはできる
そうですね。民主政治 (多数決原理) も意味を持つようになりますね。
>その方が粘ついた共感の檻に閉じ込められて、身動きできずいいることよりも、ずっと愉快だし、有意義だと僕は思います。
わが国を覆う時代閉塞の感覚を払拭できますね。
見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。日本語には、非現実 (考え) の内容を語る為の時制のある構文がない。
現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。
非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。
理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。
>でも、そのことをアナウンスする人が少ない。
そうですね。理解する人が少ないからですね。一緒にアナウンスする人を増やしましょうね。
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>そうではなくて、均質的なものが、割り当てられた設計図通りに、決められたポジションから動かず、割り振られたルーティンをこなすだけの、生命力も繁殖力も失った、死んだような「和」です。
そうですね。定められた蛸壺の中に入って死ぬまで銃を撃ち続ける皇軍兵士のようなものですね。
> 「調和すること」と「静止すること」はまったく別のことです。>でも、共感主義者たちには、その違いを意図的に混同させています。
そうですね。彼らには考えることに慣れていない。だから、厄介払いのために意図的混同に執着せざるを得ないのでしょうね。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' 対 '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
>今の日本社会では「動的な調和」ということは求められていません。 >求められているのは「割り当てられた場所から身動きしない」ことです。
そうですね。アニマルの飼育方法と同じですね。
>その「檻」を形成しているのが、粘ついた共感です。>自他の粘ついた共感による癒着が、人が自由に動くことを妨げている。
そうですね。なれ合いですね。なあなあ主義ですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。
> 共感なんか、なくてもいいじゃないですか。>そんなものばかり求めていると、身動きできなくなりますよ。
そうですね。自己の気分・雰囲気・感情に囚われて我々の共通の目的を見失ってしまいますね。
>きちんと条件を定めて、ルールを決めておけば、共感できない人、理解できない人とでも、共生し、協働することはできる。>何らかの「よきもの」をこの世に送り出すことはできる
そうですね。民主政治 (多数決原理) も意味を持つようになりますね。
>その方が粘ついた共感の檻に閉じ込められて、身動きできずいいることよりも、ずっと愉快だし、有意義だと僕は思います。
わが国を覆う時代閉塞の感覚を払拭できますね。
見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。日本語には、非現実 (考え) の内容を語る為の時制のある構文がない。
現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。
非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。
理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。
>でも、そのことをアナウンスする人が少ない。
そうですね。理解する人が少ないからですね。一緒にアナウンスする人を増やしましょうね。
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