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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

日本習合論 5/5  

2021-03-06 18:03:28 | 文化

 

>そうではなくて、均質的なものが、割り当てられた設計図通りに、決められたポジションから動かず、割り振られたルーティンをこなすだけの、生命力も繁殖力も失った、死んだような「和」です。 

 

そうですね。定められた蛸壺の中に入って死ぬまで銃を撃ち続ける皇軍兵士のようなものですね。   

 

> 「調和すること」と「静止すること」はまったく別のことです。>でも、共感主義者たちには、その違いを意図的に混同させています。 

 

そうですね。彼らには考えることに慣れていない。だから、厄介払いのために意図的混同に執着せざるを得ないのでしょうね。

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。         

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。   

 

>今の日本社会では「動的な調和」ということは求められていません。 >求められているのは「割り当てられた場所から身動きしない」ことです。 

 

そうですね。アニマルの飼育方法と同じですね。      

 

>その「檻」を形成しているのが、粘ついた共感です。>自他の粘ついた共感による癒着が、人が自由に動くことを妨げている。

 

そうですね。なれ合いですね。なあなあ主義ですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。   

 

>  共感なんか、なくてもいいじゃないですか。>そんなものばかり求めていると、身動きできなくなりますよ。  

 

そうですね。自己の気分・雰囲気・感情に囚われて我々の共通の目的を見失ってしまいますね。   

 

>きちんと条件を定めて、ルールを決めておけば、共感できない人、理解できない人とでも、共生し、協働することはできる。>何らかの「よきもの」をこの世に送り出すことはできる

そうですね。民主政治 (多数決原理) も意味を持つようになりますね。  

 

>その方が粘ついた共感の檻に閉じ込められて、身動きできずいいることよりも、ずっと愉快だし、有意義だと僕は思います。

 

わが国を覆う時代閉塞の感覚を払拭できますね。   

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。日本語には、非現実 (考え) の内容を語る為の時制のある構文がない。

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。   

 

>でも、そのことをアナウンスする人が少ない。

 

そうですね。理解する人が少ないからですね。一緒にアナウンスする人を増やしましょうね。  

 

 

 

 

>そうではなくて、均質的なものが、割り当てられた設計図通りに、決められたポジションから動かず、割り振られたルーティンをこなすだけの、生命力も繁殖力も失った、死んだような「和」です。 

 

そうですね。定められた蛸壺の中に入って死ぬまで銃を撃ち続ける皇軍兵士のようなものですね。   

 

> 「調和すること」と「静止すること」はまったく別のことです。>でも、共感主義者たちには、その違いを意図的に混同させています。 

 

そうですね。彼らには考えることに慣れていない。だから、厄介払いのために意図的混同に執着せざるを得ないのでしょうね。

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。         

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。   

 

>今の日本社会では「動的な調和」ということは求められていません。 >求められているのは「割り当てられた場所から身動きしない」ことです。 

 

そうですね。アニマルの飼育方法と同じですね。      

 

>その「檻」を形成しているのが、粘ついた共感です。>自他の粘ついた共感による癒着が、人が自由に動くことを妨げている。

 

そうですね。なれ合いですね。なあなあ主義ですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。   

 

>  共感なんか、なくてもいいじゃないですか。>そんなものばかり求めていると、身動きできなくなりますよ。  

 

そうですね。自己の気分・雰囲気・感情に囚われて我々の共通の目的を見失ってしまいますね。   

 

>きちんと条件を定めて、ルールを決めておけば、共感できない人、理解できない人とでも、共生し、協働することはできる。>何らかの「よきもの」をこの世に送り出すことはできる

そうですね。民主政治 (多数決原理) も意味を持つようになりますね。  

 

>その方が粘ついた共感の檻に閉じ込められて、身動きできずいいることよりも、ずっと愉快だし、有意義だと僕は思います。

 

わが国を覆う時代閉塞の感覚を払拭できますね。   

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。日本語には、非現実 (考え) の内容を語る為の時制のある構文がない。

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。   

 

>でも、そのことをアナウンスする人が少ない。

 

そうですね。理解する人が少ないからですね。一緒にアナウンスする人を増やしましょうね。  

 

 

 

>そうではなくて、均質的なものが、割り当てられた設計図通りに、決められたポジションから動かず、割り振られたルーティンをこなすだけの、生命力も繁殖力も失った、死んだような「和」です。 

 

そうですね。定められた蛸壺の中に入って死ぬまで銃を撃ち続ける皇軍兵士のようなものですね。   

 

> 「調和すること」と「静止すること」はまったく別のことです。>でも、共感主義者たちには、その違いを意図的に混同させています。 

 

そうですね。彼らには考えることに慣れていない。だから、厄介払いのために意図的混同に執着せざるを得ないのでしょうね。

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。         

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。   

 

>今の日本社会では「動的な調和」ということは求められていません。 >求められているのは「割り当てられた場所から身動きしない」ことです。 

 

そうですね。アニマルの飼育方法と同じですね。      

 

>その「檻」を形成しているのが、粘ついた共感です。>自他の粘ついた共感による癒着が、人が自由に動くことを妨げている。

 

そうですね。なれ合いですね。なあなあ主義ですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。   

 

>  共感なんか、なくてもいいじゃないですか。>そんなものばかり求めていると、身動きできなくなりますよ。  

 

そうですね。自己の気分・雰囲気・感情に囚われて我々の共通の目的を見失ってしまいますね。   

 

>きちんと条件を定めて、ルールを決めておけば、共感できない人、理解できない人とでも、共生し、協働することはできる。>何らかの「よきもの」をこの世に送り出すことはできる

そうですね。民主政治 (多数決原理) も意味を持つようになりますね。  

 

>その方が粘ついた共感の檻に閉じ込められて、身動きできずいいることよりも、ずっと愉快だし、有意義だと僕は思います。

 

わが国を覆う時代閉塞の感覚を払拭できますね。   

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。日本語には、非現実 (考え) の内容を語る為の時制のある構文がない。

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。   

 

>でも、そのことをアナウンスする人が少ない。

 

そうですね。理解する人が少ないからですね。一緒にアナウンスする人を増やしましょうね。  

 

 

 

 

 

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>そうではなくて、均質的なものが、割り当てられた設計図通りに、決められたポジションから動かず、割り振られたルーティンをこなすだけの、生命力も繁殖力も失った、死んだような「和」です。 

 

そうですね。定められた蛸壺の中に入って死ぬまで銃を撃ち続ける皇軍兵士のようなものですね。   

 

> 「調和すること」と「静止すること」はまったく別のことです。>でも、共感主義者たちには、その違いを意図的に混同させています。 

 

そうですね。彼らには考えることに慣れていない。だから、厄介払いのために意図的混同に執着せざるを得ないのでしょうね。

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。         

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。   

 

>今の日本社会では「動的な調和」ということは求められていません。 >求められているのは「割り当てられた場所から身動きしない」ことです。 

 

そうですね。アニマルの飼育方法と同じですね。      

 

>その「檻」を形成しているのが、粘ついた共感です。>自他の粘ついた共感による癒着が、人が自由に動くことを妨げている。

 

そうですね。なれ合いですね。なあなあ主義ですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。   

 

>  共感なんか、なくてもいいじゃないですか。>そんなものばかり求めていると、身動きできなくなりますよ。  

 

そうですね。自己の気分・雰囲気・感情に囚われて我々の共通の目的を見失ってしまいますね。   

 

>きちんと条件を定めて、ルールを決めておけば、共感できない人、理解できない人とでも、共生し、協働することはできる。>何らかの「よきもの」をこの世に送り出すことはできる

そうですね。民主政治 (多数決原理) も意味を持つようになりますね。  

 

>その方が粘ついた共感の檻に閉じ込められて、身動きできずいいることよりも、ずっと愉快だし、有意義だと僕は思います。

 

わが国を覆う時代閉塞の感覚を払拭できますね。   

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。日本語には、非現実 (考え) の内容を語る為の時制のある構文がない。

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。   

 

>でも、そのことをアナウンスする人が少ない。

 

そうですね。理解する人が少ないからですね。一緒にアナウンスする人を増やしましょうね。  

 

 

 

 

 

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日本習合論 4/5  

2021-03-06 17:42:37 | 文化

 

> こういうのは時代の「空気」を映し出しているんです。 >どういう「空気」かというと、「自分に割り振られたポジションにいて、そこから出るな」という圧力です。>その圧力が大気圧のように日常化している。  

 

日本語の階称 (言葉遣い) による強固な縛りですね。果たして日本人は自力でこの縛りを解くことができるかどうか。   

日本語には階称というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるいうのも云うのも、序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家にまでつながっている。

序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事は、人々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。

 

>日常化しているので、圧力がかかっているということ自体が実感されない。

 

言語は伝達の手段であると同時に思考の手段でもありますからね。自己の手段の弱点を心得ていることもまた必要なことです。      

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)  

 

>  共感主義者たちは「和」をうるさく言い立てます。

 

日本人は議論が下手ですからね。議論に親しみを感じていない。喧嘩する為には議論が必要であるのか、それとも議論をすると喧嘩になるのか。  

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

 

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)  

 

>異論を許さず、逸脱を許さない。>みんな思いを一つにしないといけない、われわれは「絆」で結ばれている「ワンチーム」なんだ、と。>でも、この時に彼らがめざしている「和」なるものは、多様なものがにぎやかに混在して、自由に動き回っているうちに自然に形成される動的な「和」ではありません。

 

そうですね。個人主義が理解できないからですね。考えの内容は個人個人で違っているという意識がない。     

 

 

 

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日本習合論 3/5  

2021-03-06 16:38:23 | 文化

 

>でも、こういう言い方は、たしかに近頃ほんとうによく目にします。> 僕が政治的なことについて発言した時にも「それならあなた自身が国会議員になればいいじゃないか」と絡まれたことがあります。

 

理屈には大人と子供の区別もありませんね。身分の状態を話題に持ち出すのは理屈に興味を持てない証拠ですね。   

 

>僕の知り合いが、ある有名ユ―チューバーについて批判的なコメントをしたら、「そういうことは再生回数が同じになってから言え」と言われた。>ある若手経営者について批判したら「そういうことは同じくらい稼いでから言え」と言われた。

 

日本人の序列感覚はいつまでたっても抜けませんね。日本語使用による副作用というべきものでしょうね。     

 

>  全部パターンが同じなんです。 

 

そうですね。日本人の序列メンタリティ (考え方) は日本語の使用により少しも揺るぎませんね。  

 

>批判したければ、批判される対象と同じレベルにまで行け、と。 >だから、「権力者を批判したければ、まず自分が権力者になれ」ということになる。 >それはいくらなんでも没論理的ではないですか。

 

そうですね。日本人には理論というものが難しすぎますからね。ですから、わが国では学問 (哲学) が栄えません。  

 

> 「現状に不満」というようなことは現状を変えることができるくらいの力がある人間にしか言う資格がない。 >無力な人間には、そもそも「現状に不満である」と言う権利がない。 >こんな言明にうっかり頷いてしまったら、もう「現状を変える」ことは永遠に不可能になります。

 

そうですね。 カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>  (The Enigma of Japanese Power) の <ジャパン・プロブレム> 中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。(p.59)    

 

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。

ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)    

 

>だって、今あるシステムの内部で偉くなろうとしたら、まずシステムを受け入れ、そのルールに従い、他の人たちとの出世競争に参加して、そこで勝ち残らなければならないからです。 >勝ち残ることができなくて、途中で脱落すればもちろん現状は変えられない。 >勝ち残ってしまったら、「自分を出世させてくれたシステム」を変える必然性がなくなる。>グルーチョ・マルクスのように「自分を入会させるようなクラブには入会したくない」ということが言えるのはごく例外的な人だけです。>ふつうの人は「自分が偉くなれる仕組みはよい仕組みである」と考える。

 

そうですね。   

 

>「現状に不満があったら、まず現状を変えられるくらい偉くなれ」という言明は人を現状に釘付けにするためのものです。

 

そうですね。 我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。

新憲法の前文には、・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。と高らかに宣言しています。

地位とは国際社会の序列順位の事で、問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表の風習であります。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得が不十分なためか。             

 

>人を今いる場所に釘付けにして、身動きさせないための「必殺のウェポン」として論争で愛用されている。>実に多く人たちが喜々としてその定型句を口にしている。  

 

日本人必殺のウェポンは外国人には通用しないセリフで無能な人間の一つ覚えですね。話にならない人間の証拠ですね。     

 

 

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日本習合論 2/5  

2021-03-06 16:37:56 | 文化

 

>学者は自分がきちんとアカデミックな訓練を受けた守備範囲から出るべきではない。 >フランス文学者ならそれだけをやっていればいい。 >それ以外のことについては素人なんだから、口を噤んで専門家に任せるべきだ、と。 > なるほどと思いました。 >時代は変わったなあ、と。 

 

物言えば唇寒し・・・・ですね。   

 

> でも、そんなこと言われも困るんですよ。 >僕は「専門以外のことについて口を出す」ことで飯を食ってきたわけですから。 

 

器用なものですね。    

 

>フランスの哲学や文学についてはいくつか論文も書きましたけれど、興味はそこにはとどまらない。>ついあちこちに食指が動く。>武道論も、教育論も、映画論も、身体論も、マンガ論も、能楽論も、自分の興味の赴くままに、書きました。>でも、どれも専門領域というわけではありません。> 武道は四十五年修業していて、自分の道場を持って、数百人の門人を育ててきましたけれど、武道の専門家と名乗るのは今でも恥ずかしい。 >教育は三十五年それを職業にしてきましたけれど、教育学や教育方法の専門家ではありません。 >「教壇に立ったことがある」というだけです。 >映画は若い頃から年間二〇〇本くらいのペースで見てますし、映画についての本も何冊か書きましたけれど、昔から映画の筋も俳優名も観たら忘れてしまう。 > 能楽はそろそろ稽古を始めて二十五年になりますけれど、ただの旦那芸です。 >どの領域でも僕は「専門家」とは言えません。 >でも、半可通の半ちく野郎ですが、何も知らないわけじゃない。 

 

そうですね。  

 

>ちょっとは齧(かじ)ったことがあるので、その領域がどういうものか、「本物」がどれくらい凄いかは骨身に沁みて知っています。 >自分にはとてもできないということはわかる。 

 

あなたは何でもわかるようですね。  

 

> 僕の学問だって、こう言ってよければ「旦那芸」です。>でも、どの分野についても、その道の「玄人」がどれくらい凄いのか、それを見て足が震えるくらいのことはできます。>そこがまるっきりと素人とは違います。

 

そうですね。   

 

>自分が齧ってみたことがあるだけに、それぞれの専門家がどれくらい立派な仕事をしているのか、それを達成するためにどれくらいの時間と手間をかけたのかがわかる。 >そういう半素人です。  

 

分かりました。あなたは専門家のよき理解者ですね。

 

>でも、そういう半素人にも存在理由はあると思うのです。

 

ありますね。そして、その報酬も得られていますね。     

 

>専門家と素人を「つなぐ」という役割です。

 

そうですね。あなたは個人を評価する人ですね。

 

>僕の仕事は『私家版・ユダヤ文化論』も『寝ながら学べる構造主義』も『レヴィナスと愛の現象学』も『若者よマルクスを読もう』(これは石川康宏さんとの共著)も『能楽は楽しい』(これは観世流宗家との共著)も、どれも専門家と素人をつなぐための仕事です。>どの分野においても、僕は専門家ではないけれど、専門家の仕事を読者に噛み砕いてお伝えすることはできる。 >そうやって底辺を広げることはできる。 >底辺が広がらないと高度は得られないと思うからです。 >でも、そういう仕事は「専門家のもの」としては認知されない。  

 

そうですね。解説者は専門家ではありせんからね。相撲取りと相撲解説者は同じではありませんね。個人的な見解は、それが受け売りでなければ価値がありますね。        

 

>そして、たまに「専門領域でもないことについて中途半端に口出しをするな」と叱られる。>でも、それが僕には納得できないんです。 

 

そうですね。理不尽ですね。何を言おうがあなたの自由ですね。臆することなくあなたは発言すべきですね。相手は、縄張りを主張するよりもあなたの論旨に批判を加えるべきですね。         

 

> 僕のような半素人が一知半解の言説を述べたとしても、そこにいくばくかの掬(きく)すべき知見が含まれていることもある(かも知れない)。>それがおもしろいと思う人は読めばいいし、読むに値しないと思う人は読まなければいい。>それでいいじゃないですか。

 

本当にそうですね。

 

>「掬すべき知見が含まれているかどうか」は先方が判断することであって、僕が決めることじゃない。 >ましてや、僕に向かって「決められた場所から出るな」と言われてもおいそれと肯(うべな)うわけには参りません。 

 

そうですね。 ‘不自由を常と思えば不足なし’ という世界に慣らされてはいけませんね。人類進歩のコースを逆走することになります。  

 

>繰り返し言うように、僕は決められた場所から出て、好きなところをふらふら歩き回ることで食ってきたわけで、「やめろ」というのなら休業補償して欲しい。  

 

そうですね。あなたに向かって ‘やめろ’ とは誰も言えませんね。   

 

>でも、この「おのれの分際をわきまえろ」「身の程を知れ」という恫喝は最近ほんとうによく聞くようになりました。 > 小田嶋隆さんが前にツイッターで財務大臣について批判的に言及したら、「そういうことは自分が財務大臣になってから言え」という驚嘆すべきリプライがついていたことがありました。

 

財務大臣は ‘お山の大将’ のようですね。   

 

 

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日本習合論 1/5  

2021-03-06 11:46:00 | 文化

 

>『日本習合論』ちょっと立ち読み >2020-10-09 vendredi

>『日本習合論』[内田樹著] の販促のために、第一章の一部、共感主義について書いたところを再録しました。>ちょっと立ち読みしていってください。 >世を覆っている共感主義の基本にあるのは先ほど来僕が指摘している「多数派は正しい」という信憑です。   

 

 個人主義がないのですから、個人判断以外を基準にとる必要がありますね。すると、共感主義になる。 共感は、個人の枠を脱していますね。  

 

>多数派に属していないということは「変なこと」を考えたり、しているからであって、それは多数派に合わせて矯正しなければならない。 

 

それは個人撲滅作戦に通じていますね。   

 

>そういうふうに考える人がたくさんいる。 >若い人にも多く見かけます。 >でもね、そういうのを「事大主義」と言うのです。 

 

そうですね。’寄らば大樹の陰’・’長い物には巻かれろ’ ですね。  

 

> あるインタビューで「じだいしゅぎ」と言ったら文字起こし原稿には「時代主義」と書かれていました。 >なるほど、「時代の趨勢(すうせい)に逆らわない」から「時代主義」なのか。 >インタビュアーは若い人でした。 >熟語は知らないけれど、造語能力はあるなあと思いました。 

 

そうですね。新感覚ですね。  

 

>でも、「じだい主義」の「じだい」は時代じゃなくて事大です。 >「大(だい)に事(つか)える」。 >弱い者が強い者の言いなりになって身の安全を図ることです。 >「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」と同じ意味です。 >マジョリティというのは「大」「大樹」「長いもの」のことです。 >多数派の言うことはその正否を問わずにただ従う。 >それが身の安全である。 >それが当今の作法ですけれど、もちろん今に始まったことじゃありません。 >「事大」の出典は『孟子』ですから、それくらい昔からそういう生き方は存在していた。 

 

日本人も韓国人も事大主義ですね。中国人の政策は、それとは違うようですね。  

 

>そういう生き方もたしかに一種のリアリズムではありますけれども、それにしてもマジョリティであるかマイノリティであるかは、それぞれが主張していることの真偽正否とは関係ありません。  

 

そうですね。  

 

>たしかに、「和を乱さない」ということは集団を安定的に維持するためには必要なことです。 >でも、ものには程度というものがある。 >日本の場合は、その度が過ぎます。 > 僕が「和」をあまり好まないのは、「和」を過剰に求める人は、集団の他のメンバーに向かって「そこを動くな」「変わるな」と命ずるようになるからです。 

 

御法度の政治ですね。   

 

>自由に運動しようとするもの、昨日までとは違うふるまいをしようとする人間が出てくると、たしかに集団は管理しにくくなります。 >だから「和を尊ぶ」人たちは、基礎的なマナーとして「身の程を知れ」「おのれの分際をわきまえろ」「身の丈に合った生き方を知ろ」という定型句をうるさく口にするようになる。 

 

日本人は思考を停止していますから、現状と違った内容が出たら対応のしようもない。現実離れした内容は信じられない人たちばかりである。日本人は心底から現実肯定主義ですね。

 

>こういう言葉は僕の子どもの頃まではよく使われました(僕もよくそう言って叱られました)。>でも、ある時期から言われなくなった。>1960年代からあとはほとんど耳にすることがなかった。>むしろ「身の程を知らず」「分をわきまえず」「身の丈を超える」生き方こそが奨励された。> 高度成長期というのはまさにそういう時代でした。 

 

あの時は日本人の気が大きくなりまたね。気分・雰囲気の問題ですね。     

 

>人々は「身のほどを知らない欲望」に駆動されて、「おのれの分際をわきまえず」に枠を踏み外し、「身の丈に合わない」大きな仕事を引き受けた。>国に勢いがある時というのはそういうものです。 >「早めに自分のキャラを設定して、自分のタコツボを見つけてそこに一度はまり込んだら、そこから出るな」というようなことを僕は若い時には誰からも言われたことがありません。 

 

本当に幸福な時代でしたね。   

 

 >たまにそれに類することを言う人がいても、鼻先でせせら笑って済ませることができた。>だって、こちらは現に「身の程を知らないふるまい」をしていて、それでちゃんと飯を食っていたわけですから。 

 

そうですね。   

 

> その定型句がなぜか二十一世紀に入ってから、また復活してきた。 >気がつけば、頻繁にそう言われるようになった。 >それは単純に日本人が貧乏になったからだと僕は思います。 

 

貧乏は怖い。   

 

> 少し前に僕の友人の若手の研究者が同世代の学者たちと歓談した時に、談たまたま僕のことに及んだことがあったそうです。>するとたいへん僕は評判が悪かった。>どこがダメなのと僕の友人が興味にかられて訊いてみたら「専門以外のことについて口を出すから」だというお答えだったそうです。  

 

残念な答えですね。   

 

 

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