> 前にあるスポーツイベントで、試合のあとに選手たちを並ばせて「どうして負けたかわかるか?」と詰問している監督を見たことがある。>むろん監督は正解を求めてそうしているわけではない。>選手がどんな答えを差し出しても彼は「違う」と言ってはねつけるだろう。>彼は答えを査定する権利を行使することで、子どもたちに「誰がボスか」を思い知らせようとしてそうしているのである。
監督が誰がボスかを子供に思い知らせても、合理的な解決は得られませんね。ああむなしい。
>彼の問いにもし正解があるとしたら、それは「お前のようなやつが監督をしているからだ」なのだが、気の毒なことに選手たちはそれを口にすることが許されない。
監督と選手の間にはタブーがあるのですね。求める正解はタブーの中にある。だから、日本人は閉塞感に苛まれている。
> 質問されてそれに答え、その答えの適否を査定される側はつねに「後手に回る」。 >だから、奇手ではあるが、「何を訊かれても答えない」という態度を貫けばたしかに「後手に回らず」に済む。 >現に、菅首相は官房長官時代その一手で記者たちの質問を退けて、「鉄壁」と呼ばれてきた。>しかし、その成功体験は総理大臣の職には適用できない。
鉄壁は菅総理の発明した記者撃退法ですね。撃退法は指導性の発揮には役立たないでしょうね。
>「後手に回らない」と「先手を取る」はまるで別のことだからである。
そうですね。’後手に回らない’ とは、相手の’後追いにならない’ 事。これは相手があってのことですね。’先手をとる’ とは、’未来を先取りすること’ ですね。相手の存在とは関係がない。
> 一国のリーダーに求められているのは「質問に答えない」ことではなく、状況の「先手を取る」ことである。>「そもそも問題を起こさないこと」である。
日本人は現実肯定主義者ですから、問題が出現しなくては自ら動くことはできませんね。受け身で体を鍛えるという事になりますか。
>コロナウイルスの感染拡大に先んじて適切な対策を講じ、愚策を採用せず、阿諛追従して行政を歪める官僚を重用しないでいれば、そもそも「問題」は起こっていない。 [阿諛 (あゆ) : おもねりへつらうこと]
国は国民の生命と財産を守る義務がありますね。核兵器もワクチンも大国任せにしておいて本当に責任ある国の運営が果たせるでしょうか。他力本願・神頼みの姿勢が平和国家の真の姿なのでしょうか。
> 総理大臣は受験生でもサラリーマンでもない。>彼に求められているのは記者や野党議員に「言い負かされない」ことではない。
そうですね。総理には、‘ああいえばこういう’ の議論に熟達する必要ないですね。時間の無駄です。
>国の進む先を指示し、ヴィジョンを語り、国民を鼓舞することである。
そうですね。総理は我々の行き着く先を示すことが任務ですね。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' 対 '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
>自分の仕事がそういうものだということがわかっていないから「後手」を咎められるのである。
総理の仕事は、小間使いの仕事とは違いますね。自己の信念に自信を持って自己固有の指導性を発揮してもらいたいですね。
>(2021-03-15 16:51)
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>転載おわり
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