>我々がその塀の中でいくつもの手製の神を弄んでいることにもう気づかねばならない。>現世の中に閉じこもっていたのではその現世すら見えなくなるだろう。
そうですね。前世・現世・来世があっての現世ですね。各世界を比較するのでなければ現世ははっきりと見えては来ませんね。
>井の中の蛙が井戸とは何かを知らないのと同様、孫悟空が釈迦の掌の上を得意に駆け回っていたのと同様である。
そうですね。井の中の蛙にも孫悟空にも世界観がなかった。だから話の内容がどこまでも小さくなります。
>生きているうちに現世から出ることは無理だが、現世のしがらみから意識を解き放ち現世を見つめなおすことは可能である。
そうですね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.
>生を受けて魂が宿ったその肉体が朽ちるまでの数十年の時、それが人ひとりにとっての現世である。>国家が興り滅びるまでの一時代、それが一つの国の現世である。>人が人としての営みを始めやがて地上から消滅するまでの間、それが人類のための現世である。>ビッグバンに始まる時空の拡張が終結し、そしてもとの一点に再び集束するまでの時間、それが宇宙の現世である。
全ての内容は個人の頭の中にありますね。だが現実の中には存在しない。現実界は常に千変万化している。
>つまり、意識が肉体や国や地球という媒体に宿ることで生まれる時を現世といい、その媒体が滅びるとともに必ず終わる刹那なるものである。
前世・現世・来世も肉体と共に終わりますね。
>現世での時を終えた人の魂は来世に迎えられ、来世での行き先が天国か地獄かは現世での行いが秤にかけられ裁かれる―多くの信仰で説かれるこのことを拒むかぎり、時が尽き果てるまでセキュラリズムに操られ続ける。>セキュラリズムの語源saeculumの原義はやはり「時間」である。>そして来世、そこでは時は流れない。
前世・現世・来世は考えの内容であり、時は流れませんね。
>日本の先祖はそれを常世(とこよ)と呼んで知っていた。>時の流れがないことは「永遠」を意味する。
現実界は千変万化する。処世術 (要領の良さ) だけを頼りにしていては世渡りも疲れます。そこにくると非現実界 (哲学) は不変ですから、無哲学・能天気の状態を脱して人間は ‘考える人’ (the thinking man) になる。
>大海への通い路を絶たれた入り江の如く、来世から切り離された現世は淀み、穢れ、毒を放つ。 >その毒が時につれ濃さを増しこの酷すぎる現代に至った。
そうですね。’後は野となれ山となれ’ の態度ですね。我々は未来社会建設への展望を開く必要がありますね。いつまでも現実肯定主義にとどまってはいられませんね。
>これはひとえに「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に納めよ」として現世の善悪を現世の法で裁いてきたセキュラリズムの結果である。 >現世に生まれた事象の善悪の判断を、同じく現世生まれの科学と理論に頼っていては遠からず己の毒に毒されることになる。 >カエサルのものは神に還されなければならない。
金は手段にはなる。だが、目的にはならない。だから、目的のない金稼ぎは吝嗇家 (けちんぼう) と呼ばれる。そして、目的を得るために各人に哲学 (考え) が必要となります。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
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