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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

尾崎文美氏 6/6  

2021-03-26 18:14:44 | 文化

 

>我々がその塀の中でいくつもの手製の神を弄んでいることにもう気づかねばならない。>現世の中に閉じこもっていたのではその現世すら見えなくなるだろう。   

 

そうですね。前世・現世・来世があっての現世ですね。各世界を比較するのでなければ現世ははっきりと見えては来ませんね。     

 

>井の中の蛙が井戸とは何かを知らないのと同様、孫悟空が釈迦の掌の上を得意に駆け回っていたのと同様である。  

 

そうですね。井の中の蛙にも孫悟空にも世界観がなかった。だから話の内容がどこまでも小さくなります。    

 

>生きているうちに現世から出ることは無理だが、現世のしがらみから意識を解き放ち現世を見つめなおすことは可能である。

 

そうですね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.      

 

>生を受けて魂が宿ったその肉体が朽ちるまでの数十年の時、それが人ひとりにとっての現世である。>国家が興り滅びるまでの一時代、それが一つの国の現世である。>人が人としての営みを始めやがて地上から消滅するまでの間、それが人類のための現世である。>ビッグバンに始まる時空の拡張が終結し、そしてもとの一点に再び集束するまでの時間、それが宇宙の現世である。

 

全ての内容は個人の頭の中にありますね。だが現実の中には存在しない。現実界は常に千変万化している。   

 

>つまり、意識が肉体や国や地球という媒体に宿ることで生まれる時を現世といい、その媒体が滅びるとともに必ず終わる刹那なるものである。 

 

前世・現世・来世も肉体と共に終わりますね。

 

>現世での時を終えた人の魂は来世に迎えられ、来世での行き先が天国か地獄かは現世での行いが秤にかけられ裁かれる―多くの信仰で説かれるこのことを拒むかぎり、時が尽き果てるまでセキュラリズムに操られ続ける。>セキュラリズムの語源saeculumの原義はやはり「時間」である。>そして来世、そこでは時は流れない。 

 

前世・現世・来世は考えの内容であり、時は流れませんね。   

 

>日本の先祖はそれを常世(とこよ)と呼んで知っていた。>時の流れがないことは「永遠」を意味する。

 

現実界は千変万化する。処世術 (要領の良さ) だけを頼りにしていては世渡りも疲れます。そこにくると非現実界 (哲学) は不変ですから、無哲学・能天気の状態を脱して人間は考える人’ (the thinking man) になる。         

 

>大海への通い路を絶たれた入り江の如く、来世から切り離された現世は淀み、穢れ、毒を放つ。 >その毒が時につれ濃さを増しこの酷すぎる現代に至った。

 

そうですね。後は野となれ山となれの態度ですね。我々は未来社会建設への展望を開く必要がありますね。いつまでも現実肯定主義にとどまってはいられませんね。         

 

>これはひとえに「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に納めよ」として現世の善悪を現世の法で裁いてきたセキュラリズムの結果である。 >現世に生まれた事象の善悪の判断を、同じく現世生まれの科学と理論に頼っていては遠からず己の毒に毒されることになる。 >カエサルのものは神に還されなければならない。

 

金は手段にはなる。だが、目的にはならない。だから、目的のない金稼ぎは吝嗇家 (けちんぼう) と呼ばれる。そして、目的を得るために各人に哲学 (考え) が必要となります。    

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

 

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尾崎文美氏 5/6  

2021-03-26 17:31:49 | 文化

 

>分身の術を使い、筋斗雲を駆って飛び回る孫悟空はこの世に敵なしと思い上がり神になろうとした。>「悟空よ、それほどならば我が掌から逃れてみよ」と言う釈迦に、一尺ほどの手のひらから逃れるなどとは笑止、俺様の一飛びは十万八千里、この世の果てまで駆けて見せようと息巻いた。>そして幾日かとび続け、この世の果てと思われる五本の柱の立つ処へと辿り着くと、その根元に「斉天大聖」の名を書き見参の証をのこして後を戻る。>やれ百万里、二百万里を駆け抜けたと豪語する悟空だが、じつは釈迦の掌の上をぐるりと周っただけであった。>孫悟空は驕り高ぶる人の子を、悟空が証拠にと名を書き残したことは弁証法や因果律をそれぞれたとえ、「釈迦の掌」とは数量と理屈が価値を裏付ける現世そのものを暗示している。>その外を包む無限の来世があり、そこでは現世の法など毛ほどの重さもないことを知らなかったからこそ悟空は傍若無人な振る舞いができたのであろう。

 

そうですね。悟空は世界観を持たなかった。そこが日本人と同じですね。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。        

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

 

>日本の中で信仰の話をするのは極めて難しい。 

 

そうですね。

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

 

>それだけ日本はセキュラリズムに侵されているといっていい。

 

そうですね。日本人は、現実肯定主義者ですからね。現実より他に赴くところがないからでしょう。   

 

>まがりなりにも神の存在を認めてきた西洋のほうがセキュラリズムからの脱却の余地があるのかもしれない。

 

そうですね。西洋人には意思がある。だから罪の意識に苛まれる。その魂を救済するためのキリスト教には存在する。だから、意思ある人にはキリスト教は価値がある。    

 

>日本の場合は前編に記したように来世や神に関わる多くの霊的な概念を皇室神道に結び付けて玉砕した経緯があり、人々は「神」を否定をしないまでもそれを「自然」や「宇宙」と呼んでみたり、「心のよりどころ」などと定義してみたり、また地球外生命体に人類の救済を求めてみたり、とにかく直接認めたがらない。   

 

自称の無神論者が多いですね。それというのも日本語には時制がない。だから、日本人は前世・現世・来世の内容は文章として表現できない。そして輪廻転生の考えは生じない。非現実 (考え) の内容も認められない。   

 

>そこには歴史上で宗教戦争を繰り返してきた一神教に対する抵抗、暴利をむさぼる宗教団体への嫌悪、複雑になりすぎ解釈不可となった仏教からの逃避などさまざまな影響が垣間見れるが、いずれにしてもセキュラリズムが現世の周りに築いた塀があまりに高く、日本が「神」を直に見つめることが出来なくなったことに負う。  

 

政治的な取り決めや社会的な習慣は、もともと自然や祖先崇拝を基調にして矛盾やあいまいさを許容する宗教である神道が司ってきた。この日本固有の宗教――( )――には、哲学的あるいは道徳的な教理の展開がまったくない。 (カレル・ヴァン・ウォルフレン)          

 

 

 

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尾崎文美氏 4/6  

2021-03-26 16:56:36 | 文化

 

>この受け入れがたい状況が闊歩するのは日本にセキュラリズムがいかに深く染み込んだかをよく表している。 

 

我々日本人は現実肯定主義者ですからね。現実にあるものは何でも吞み込んでしまいますね。事実は真実ですかね。批判精神は持ち合わせていませんからね。         

 

>理不尽きわまる政治と社会に異論を唱え立ち上がる人々は必ず19世紀の思想家の名を掲げて、あるいはフランス革命や自由民権運動、日本国憲法の精神を引き合いに出し「本当の民主主義を」、「本当の自由を」求めて熱く語る。

 

そうですね。我々日本人は後追い専門の民族ですからね。思考停止と暗記力の為に受け売り専門の人となります。イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)        

 

>しかしそのようなものは決して存在しないことに気づかない。>民主主義も自由も所詮はキリスト教社会の発明品であり、世界をその権力下に置くために異常なまでに美化された道具に過ぎないことに目を向けない。

 

自由とは意思の自由の事ですね。日本人には意思がない。だから、自由そのものにも意味がない。 ああ空しい。      

 

>民主主義とは、自由とは何かという不毛な議論に時を奪われ上に掲げた五つの悲劇を繰り返す。 

 

無哲学・能天気の日本人には議論は意味を成しません。自己のない人間には自己主張などありません。     

 

>そして来世への旅支度は手付かずのまま現世での時を終える。

 

そうですね。日本人は死後も来世にゆくことはありませんね。そのための世界観が用意されていないからでしょう。死後も草葉の陰からじっとこちらの方を眺めているそうですよ。        

 

>アラブの春、グローバル化、フクシマ、少子化、そのほか題名をつけられない社会悲劇のどれもがセキュラリズムなくしては起こりえない欺瞞と非道である。 

 

全ての出来事は未来社会建設の方向を向いていませんね。千変万化する流行りもののようなものですね。       

 

>現世での時をこのように使い果たすのが悲しく虚しいと思わない、あるいは思いながらも仕方なしと受け入れて本当の自由とやらを求め続けてしまうのがセキュラリズムである。

 

仕方がないは日本人の口癖ですね。   

 

>本論は科学と理論を否定するものではない。

 

理屈は子供にも通じる内容ですね。全ての考えは文章になる。矛盾を含まない文章は全て正しい考えを示しています。考えは人によりまちまちです。だから正解は多数ある。     

 

>科学と理論を神への冒涜として迫害した中世に戻ろうという考えは毛頭ない。>ただ現世に近視眼的になってはならない、そう申し上げるものである。 

 

そうですね。我々は遠い未来の行き着く先を論ずる必要がありますね。   

 

>科学にせよ理論にせよ、これらは現世で隣人に非道を働かないための智慧と捉えるべきである。>そこに根拠を持つ民主主義などの政治手法はただの選択肢であり崇高なものではない。

 

そうですね。 チャーチルの名言 民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。   

 

>そして科学者、識者は物事の摂理を図式と論文で表現することを生業としているだけであり、彼らに万物の創造主であるかの如き権威を決して与えてはならない。  

 

そうですね。 ソクラテスの名言  '私は、私が何も知らないということを知っている' 'I know that I know nothing'.  人は常に謙虚であるべきですね。

 

>セキュラリズムの罪悪はまず科学と理論を神の替わりに神聖視させたこと、そこで生まれた権威を頂点とする支配構造を創り民衆をそこに縛りつけたこと、民衆に「自由」という得体の知れないよろこびを与え現世での時と来世への畏れを奪ったことにある。 

 

考えは人によりまちまちですからね。正解は絶えず他人により書き換えられて科学は限りなく進歩します。   

 

 

 

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尾崎文美氏 3/6  

2021-03-26 02:43:22 | 文化

 

>そこで自らが信じてきた合理主義や物質主義をさらに援護し実践する羽目になり、同時に自らを癒してくれる何かに縋りつく。>しかし来世とは別居したため現世しか意識できず、現世の幸福を実現してくれそうな何かを見出してそれに頼らざるを得なくなる。 

 

現実肯定主義者の悲劇ですね。各人に哲学が必要ですね。   

政治に関する考えは政治哲学になる。 歴史に関する考えは歴史哲学になる。 宗教に関する考えは宗教哲学になる。 科学に関する考えは科学哲学になる。 人生に関する考えは人生哲学になる。 などなど。        

 

>金品、娯楽、快楽、人間関係、表現、主張、いろいろあるが結局それらが行き着くのが「自由」の言葉である。  

 

個人に自由は大切ですね。     

 

>しかし現代、人の思考と行動を羽交い絞めにするものこそこの「自由」である。>「不自由」がなければ「自由」などは存在しない。  

 

自由は不自由から解き放される時の解放感ということですか。   

 

>そして不自由は権威や権力を背景にした制度によって人が好きなだけ作り出せるものである。

 

自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。しかし、恣意 (私意・我儘・身勝手) ならある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。 それは自由のはき違え’となるからである。だから、日本人は昔からの不自由を常と思えば不足なし’のままでいる。 

 

>つまり民衆が自由を意識するにはそれに先立って不自由の製造がなされなければならない。>ならば権力者は不自由の匙加減をする。

 

それは法度政治の世の中ですね。    

 

>時に不自由で束縛し、また時に自由を押し付けて懐柔し、慣れた頃にそれを剥奪して恫喝し、そういった支配は古代も中世も今も変わらない。  

 

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏 (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) <日本語文庫新版への序文>の中で下記の段落のように述べています。

、、、、、日本の政治を語るうえで欠かせない表現の一つである「仕方がない」という言葉を放逐することに、本書がいささかなりとも役立てばと願っている。本書は、本当の意味での政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力について詳述している。この力こそは、個々人の、市民になろうとする決意と、有効に機能する民主主義を守ろうという意志を弱めるものである。日本に作用するこの力は、独裁政権があってそこからくり出されてくるのではない。それは日本の社会環境のあらゆる場所から発現する。、、、、、この力こそが、多くの日本人が身をおく境遇に対して唯一、適当な対応は「仕方がない」とうけいれることだと思わせるのである。(引用終わり)     

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく    

 

>民衆がいくら自由を連呼したところでその敵である権威が存在する間は不自由は消えうせず、況や権威に益々の権威を与え不自由を肥大させることとなる。 

 

権威が存在しようがしまいが、政治音痴の日本人には政治的な不自由さは感じられないでしょうね。それは自然現象と同じで、不自由を常と思えば不足なし。      

 

>自由の追求が可能な領域の限界線とされている「法」と「倫理」はいずれもキリスト教社会のセキュラリストたちによって確定された。>この線は越えられないが、この線は彼らの都合で描き換えることが出来る。  

 

調節可能な線ですね。意思ある人間のすることですね。     

 

>第五に、セキュラリズムの出発点はキリスト教会の暴力からの開放でありそこから「近代的自由」が生まれた。

>しかしこれは最終的に世界の権威と権力が集中する場所つまりキリスト教社会にのみ寄与する思想であり、世界の人々は自由を求めることで知らぬ間にここに貢献させられる。

 

思想のない人間にはキリスト教社会に太刀打ちできませんね。   

 

>日本はキリスト教国ではない。  

 

日本は日本教徒の国ですね。儀式 (作法) があって教義 (教え) のない国ですね。無哲学・能天気の教徒には、教えの無さは気になる事ではありませんね。         

 

>しかし憲法と軍と経済と教育を国内外のセキュラリストによって設計された国である。>よって我が国の富と生気がキリスト教社会に吸い上げられているのは至極当然の避けられぬ事態である。

 

人間に罪の意識がある限りその魂を救済するためのキリスト教はなくなりませんね。   

 

 

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尾崎文美氏 2/6  

2021-03-26 02:24:21 | 文化

 

(1/6より)

序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを日本人は有している。だから、日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎない。そのため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事は、人々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。    

 

>安全、信用、そういった一見して価値の置き所が心の中にありそうなものも例外ではない。 >たとえば建設現場や工場で取られている安全対策は人の命の尊さや後に残される家族を思ってのことではない。 >信用を失うことでこうむる損益や支払うべき賠償と安全管理への投資の比較(=損得勘定)である。  

 

そうですね。所詮は処世術 (現実) ですね。哲学 (非現実・考え) ではない。無哲学・能天気の人は処世術に頼らざるを得ませんね。     

 

>補償制度が整った先進国ほど作業場の安全への投資が余儀なくされ、それは信用の指標として商品の単価に跳ね返る。>逆に途上国では労働者に泣き寝入りを強いることで安価な製品を製造できる。>だから先進国は途上国で製造したものを輸入する。>が、資源の輸入にしろ、現地生産にしろ、「投資」の一言が先進国による途上国からの搾取に正当性を与えている。  

 

途上国は、投資を呼び込むことに熱心ですね。自国民の就職先が増えますからね。その分経済的に向上します。無職ではいられない。         

 

>途上国の産業がどのような環境下にあるかを見て見ぬ振りをせざるを得なくなる。>おなじ搾取を国内の移民に、被差別集団に、後ろ盾のない弱者たちに強いるようになる。

 

人間の平等が失われる残念な現象ですね。たゆまぬ是正の努力が必要ですね。

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>が、いつのまにか自らも搾取される側に置かれることになる。  

 

そうですね。わが国の企業は金を儲けても一人当たりのGDPは世界で33位 (2019) に落ちましたね。最高は5位 (1995) でした。        

 

>第三に、理論と数量により生まれた信用や価値というものに一人歩きを許し、それを「権威」や「知名度」に成長させてしまう。 >人はこれに出くわすことで事象の吟味を怠る。 >思考停止状態のまま社会との関係を続ける。 >多くの人々の皮膚感覚がここで麻痺を起こす。 >こうなれば内容は置き去りで権威と知名度だけを追いかけさえすれれば価値にも信用にも接することができる。 

 

そうですね。人々は身分格式を知って、それで安心する。権威主義の世の中ですね。     

 

>その指針としての貨幣が活躍し、科学者、知識人、企業、報道、教育という権威の売り手と、買い手である民衆の双方がひたすら市場を膨らませ続ける。>しかしそれは貨幣を注ぎ込み、高く売り、高く買わされ、負債を抱え、日々の糧のためとは別の無意味な労働に日の殆どを費やし、頭を悩ませ、気づけば精も魂も尽き果てることを意味する。  

 

そうですね。我々には行き着く先の内容を考える必要がありますね。      

 

>教会による民衆支配が暗黒時代と呼ばれた「中世」の全景ならば、西洋による非西洋への侵略と搾取はモダンつまり「近代」そのものといえる。>そしてその後に来るポストモダンすなわち「現代」もやはり権威による民衆への侵略と搾取である。 

 

権威は民衆に最も分かりやすい判断材料ですからね。民衆が諦めやすい手法ですね。    

 

>中世の、王権とともにあったキリスト教会が民衆の財産と精魂を吸う吸血鬼であったあの時代の相似形がいま世界中で再現されている。 >違うのはキリスト教が理論に、司祭が科学者やマスコミに、そして神が貨幣に取って代わったことである。 >アフリカなどの特定の地域ではいまだに中世と何ら変わらぬ暴力支配が続き、剥き出しの武力を行使できない国ではイデオロギーや経済の支配が繰り広げられている。>そうした歴史を現世に輪廻させるのがセキュラリズムである。  

 

そうですね。新スタイルに衣替えした輪廻転生ですね。   

 

>第四に、搾取を受ける側に落ち、現代生活に精魂尽き果て疲弊しても人々はそれを認めたがらない。>認めることで現世すなわち人生の価値が木っ端微塵に打ち砕かれるからである。  

 

やせ我慢ですね。   

 

 

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