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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

活力どん底 3/3  

2021-03-14 16:19:12 | 文化

 

>・昔は、村落共同体や大家族の中で子育てが行われてきた。  

 

そうですね。昔は、子供は大勢の大人に見守られて育てられました。   

 

>しかし’70年以降、恋愛発の核家族が主流になっていったが、この核家族は、自分第一の恋愛を起点にしているので、地域共同体や大家族との繋がりを断ち切った、自分たちだけの空間となる。  

 

そうですね。その結果、子供は密室で育てられることになりました。

 

>・そこで、子育てを経験したことのない自分第一の親たちは、どうしたらいいか分からないので、手っ取り早く、子育ての成果指標としての学歴・成績に収束していった。>その結果が、’70年以降の受験戦争の激化であり、学生の無能化であり、子どものゾンビ化である。  

 

真の学問は思考停止では成り立ちませんが、処世術としてならそれで十分通用するでしょう。これが国を挙げての亡国への道筋になっています。   

 

>◎今、何よりも必要なのは、本能を解放すること⇒まず外遊び! 

 

まず子供は自分自身で行動することですね。 失敗は成功の基。反省は自分自身の貴重な勉強になりますね。年寄り育ちは三文やすい。      

 

>・それだけではない。乳幼児にとって、母親からの授乳をはじめとするスキンシップ充足や、安心感や期待の相互充足は、食べ物を与えられること以上に重要な生命線であるが、自分第一の母親たちは、充分なスキンシップ充足や安心感や充足期待を与えずに、自分の期待や理屈ばかりを押し付けてきた。 

 

それは自己中心主義ですね。   

 

>その場合、生命線たる親和充足を得られない乳幼児は、自分の欠乏を全面封鎖して、ひたすら母親の期待に応えようとする。>こうして、大半の本能が封鎖され、ひたすら周りの期待に合わせようとする表層的な子どもが量産されてきた。 

 

そうですね。子供は母親とのなれ合いに励んでいますね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。・・・・・ 日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

>彼らには、肉体的な欠乏がない。>そのうえ、自己肯定感も低い。>従って、心の底から充足することがない。

 

彼らの身の上は家畜・社畜と同じようなものですね。不甲斐ない。   

 

>◎この親和欠損・期待欠損を突破するのは、外遊びしかない! >つまり、外遊びによる遊び本能と追求本能の解放を突破口として、本物の仲間充足や庇護・依存の関係充足を再生してゆくしかない。   

 

言語の勉強も大切ですね。我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

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活力どん底 2/3  

2021-03-14 15:53:44 | 文化

 

>70年以降、私権は衰弱する一方なのに、庶民が受験戦争に没入していったのは、なんで?  

 

日本人には序列メンタリティ (考え方) がありますからね。   

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるいうのも云うのも、序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家にまでつながっている。

序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事は、人々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。義兄弟のようなものか。  

 

>・昔も今も、試験に通って支配階級になれるのは、上位10%以下。  

 

本当に難関ですね。  

 

>大学進学者が5割を超えた現在、大卒の大半は出世できないし、選択肢も増えない。

 

立身出世が日本人の目的でしたね。上を見ればきりがない、下を見ればきりがない。それが我々の序列社会でしょう。      

 

>・それどころか、昔の東大・京大生はそれなりに優秀だったが、’70年以降、時代が進むにつれて人間力・追求力の欠如した暗記脳の人材ばかりになってゆき、東大・京大生の大半が、出世どころか使い物にならなくなってきている。  

 

日本人は元来、無哲学・能天気ですからね。真の学問には縁がないですね。思考停止でもうまくやれるものなら心得のある人たちには処世術でやるほうが楽でしょうね。    

 

>・昔は、肉体的な私権欠乏が強く、いわば本能的な欠乏が受験勉強とそれなりに繋がっていた。   

 

そうですね。野良犬の黒 (ノラクロ) でも出世できましたね。   

 

>しかし、今や肉体的な私権欠乏はとことん衰弱しており、彼らが受験に向かう主動機は、専ら「親の期待に応えること」しかない。 

 

日本人には意思がない。だから、受動があって能動がない。それで、行動に自主性がない。   

 

>その場合、たとえ大半の親が学歴・成績期待を持っているとしても、それはあくまでも個人的な期待であり社会的な期待ではない。   

 

日本人には処世術はあるが、世界観は無い。処世術は現実の内容で、世界観は非現実 (考え) の内容ですね。現実肯定主義の日本人には、この世での活躍は考えられても、来るべき世界の内容は想定外になりますね。   

 

>つまり、20年前に経団連が提起したように、社会では誰も、役に立たない受験勉強など期待していない。 

 

そうですね。我が国が必要としているのは未来社会の建設に貢献できる人間ですね。 

 

>社会が期待しているのは人間力と追求力であり、役に立たない五教科の知識などではない。     

 

我々日本人には自主独立の気風が必要ですね。五教科の枠にはめられて一生を過ごすのは情けないですね。        

 

>・従って、親の期待発の受験勉強は、社会が期待しているものではないし、子どもの本能的欠乏とも繋がらないので、子どもの内部では肉体的な拒絶反応が生起し、子どもにとって死ぬほど苦しい作業となる。

 

我が国は子供虐待の世の中になっていますね。金属バットで祖母に暴力をふるう子供も出てきました。   

 

>その死ぬほど苦しい勉強をやり続けるうちに、子どもたちの活力はどんどん失われ、ゾンビのようになってゆく。

 

そうですね。日本語脳内では未来の世界が想定外になっています。一寸先は闇に見える。時代の閉塞感が極めて強い。   

 

>◎要するに、社会が期待していない、役に立たない勉強を強制するのは、明らかに、子どもに対する虐待である。  

 

序列主義の強制は、社会構造により生ずる自虐行為の強要ですね。   

 

>【3】やりたいことがない⇒肉体的な欠乏がない⇒遊び本能や性本能や追求本能が封鎖されている。>それらの本能を封鎖しているものは何か? 

 

それは日本人に意思がないからでしょう。意思の無いところに方法 (仕方) はない。  

為せば成る。なさねばならぬ何事も、ならぬは人のなさぬなりけり。 上杉鷹山     

 

>☆なぜ大半の親が学歴・成績信仰に染まり、子どもに勉強を強制するのか?  

 

それは序列メンタリティに支配されているからでしょう。日本語のせいですね。     

 

 

 

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活力どん底 1/3  

2021-03-14 15:31:22 | 文化

 

>【実現塾】活力どん底の日本人の可能性(本能編)

>実現塾の要約です。

>【1】日本人の活力が、ダントツで世界最下位なのはなんで?  

 

日本人には意思がありませんからね。  

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

 

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>・しかし、共認原理の縄文人は、力の原理に対応する術を持たないので、彼ら支配階級をお上として切り離し、自分たちは村落共同体を形成して相変わらず共認原理で生きてきた。  

 

我が国のお上には指導力がありませんからね。 

英米人には意思がある。意思のあるところには方法 (仕方) がある。方法のある個人に権力を与えて問題の対処を任せる。かくして、問題は解決する。

日本人には意思がない。意思のないところには方法 (仕方) がない。仕方が無いので、方法のない個人であってもトップに据える。しかし、権力を与えると自己の恣意を通す恐れがあるので、できるだけトップは床の間の置物のようにしておく。だから問題は解決することなく、国民は諦めて閉塞感を味わっている。 

 

>・しかしそれは、村落共同体を超えた社会や国家のことは「自分とは関係ない」と捨象する意識を根付かせることになった。   

 

日本人には世界観がない。  

 非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。        

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。

 

>◎結局、朝鮮から来た支配階級は3000年前から私権収束しているが、大半の農漁民はほぼ縄文体質のままで、庶民が私権収束を強めていったのは、せいぜい明治以降150年に過ぎない。  

 

立身出世に励むことにより身分制度から逃れることができましたね。   

 

>◎縄文体質と自我・私権はもともと背反するので、私権の衰弱スピードは日本人が段違いに速い。  

 

日本人には意思がないので他のアニマルと同様に、ややもすると自然の中に溶け込んでしまいますね。   

 

>私権が衰弱すれば、私権と一体化されてきた独占欲の性も、どこよりも速く衰弱する。 >◎それが、日本人の活力がダントツで世界最下位である理由である。 

 

我が国は序列社会で出来ていますから、義理 (序列関係から生ずる義務) が廃ってこの世が闇になったのではないでしょうか。義理を果たす時の日本人には活気がありましたね。      

 

>と同時に、日本人の私権収束が段違いに弱いということは、脱私権⇒本源収束の可能性をどこよりも豊かに秘めているということでもある。   

 

日本人はおとなしく自然に溶け込むことになりますね。   

 

>【2】科挙の時代から、入試は私権を獲得するためにある。  

 

入試は学問に名を借りた処世術の励みですね。    

 

 

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