(略)
>■「あうんの呼吸」こそ本来の政治だ
>中野 [剛志]:政治の世界でも、自民党の昔の政治などはそれこそ古いスタイルで、あうんの呼吸で、言葉で説明できない関係性の中で決めていくものだった。
日本人には、意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には、時制というものがない。だから、日本語の脳裏には、未来時制は存在しない。日本人には、意思がない。
だが、日本人には恣意がある。恣意は、バラバラな単語のままで存在する。だから、意味・意義がない。議論にならない。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えでない。
意思は、文章内容であるから、議論の対象になる。恣意は、文章内容にならないから、議論の対象にならない。
意思のある人は、意思疎通により理解が得られる。恣意の人は、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) より、納得している。
個人の意思は、文章内容として世界中を駆け巡る。恣意は、ごく少数の人を満足させるだけで、民主政治に適応できない。世界の中の孤児になる。
>人間の目利きに長けた老獪な連中が政治をやっていて、その人たちは政治学の理論なんかもちろん知らない。>それが古い自民党の政治だった。>いや、そもそも「政治」とは、理念や理論ではなく、あうんの呼吸でやるべきものなのですよ。
それで、民主政治になりますかね。政治音痴になりませんかね。
>それは日本に限った話ではなく、古今東西、そういうものだったのです。
独裁政治か寡頭政治ですね。
>ところが改革を指向する人たちは、そういう本物の政治に対して、「ビジョンが見えない」「理念がない」「不透明だ」「日本でしか通用しない」と言って否定してきた。
改革派の言う通りですね。
>彼らは、政治そのものを否定してきたのです。
あなたが民主政治そのものを否定しているのでしょう。
> 佐藤 [健志]:平成の30年間は、自己否定を系統的にやってきた時代と呼べるでしょう。
恣意の政治を自己否定しているのでしょう。
>自己否定に対する日本人のこだわりは、前にも指摘したとおり、今に始まったものではありません。
恣意の世界は、独り善がりの世界ですね。恣意の人は、自己否定すべきですね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>植民地化の不安におびえつつ、近代化をスタートさせた明治の時代にまで(少なくとも)さかのぼることができますが、それが過熱・暴走したのが平成の改革ブームだったわけです。
わが国は、植民地にならなくて本当に良かったですね。
>…(後略)
>―――――――以上―――――――
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