>人々は、太平洋戦争が政治家や軍人の無知と無謀と野望のためだったと思うようになり、「戦争は軍が勝手に引き起こしたことだ」といった言論がまかり通っていく。 >自分たちの戦争への加担はそうして忘れ去られていった。
意思の無い人間は、そのように考えるでしょうね。淡白な人間ということでしょうかね。
>「私たちはだまされていた」「私たちはずっと戦争には反対だったのに、みんな軍が悪い」という思い込みだけが膨れ上がったのだ。
自己の意思を表せば、当事者・関係者となる。表さなければ傍観者にとどまる。日本人には意志がない。だから、我々は禍の原因には関係がない。人々は、建前 (言い訳・口実) を述べるだけである。それ以外には出てこない。
> 敗戦翌年の春、映画監督の伊丹万作は「戦争責任者の問題」というコラムを雑誌「映画春秋」の創刊号に書いている。 >戦争翼賛の映画をつくっていた監督やプロデューサーを告発する風潮が映画業界でも高まり、同じ映画業界の人たちが急先鋒になっていたことに、伊丹は痛烈な批判を加えた。 > 「みんな、今度の戦争でだまされたと言ってる。 >みんなが口をそろえてる。 >でも私の知ってる限り、『おれがだました』って言ってる人はひとりもいないな」
そうですね。日本人には意志がないのですから’だました’ と能動態 (active voice) で答える者はいませんね。’騙された’ と受動態 (passive voice) で答える者ばかりです。日本人には意志がないのだから、加害者がいなくて被害者ばかりが存在する。実に恨めしい社会です。
意思 (will) は未来時制の文章内容として表現ざれるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。 だから、日本人には意志がない。
> 一般国民は口をそろえて「軍と官僚にだまされた」と言い、軍と官僚は口をそろえて「上司にだまされた」と言う。 >その上司に聞くと、口をそろえて「もっと上の者にだまされた」と言う。 >そうやって突き詰めていくと、最後はひとりかふたりになってしまう。 >しかしそんなひとりやふたりの知恵で、一億人がだませるわけはないのではないか?
そうですね。被害者ばかりでは戦争はできませんね。兎角、この世は無責任です。
>そして伊丹はこう指摘する。 >戦争で誰が自分たちを苦しめたのかと思い出すときに、真っ先に記憶からよみがえってくるのは近所の商店主や町内会長や郊外のお百姓さんや、あるいは区役所や郵便局の役人たちではないだろうか。 >ありとあらゆる身近な人たちが、自分たちをいちばん苦しめていたではないか、と。 >つまりは悪人とは自分たち平凡な人々だったのだ。
そうですね。一国の政治は、その有権者の性格を良く表していますね。
>しかし伊丹のような声は戦後の空気の中で少数で、「われわれは被害者だった」「騙されていた」という大合唱に日本は呑み込まれた。
そうですね。わが国は、一億一心・ご唱和の国ですね。これは、戦前・戦後も変わらない。
>無謀な戦争に突入してしまったのはひとえに軍部という「加害者=悪」の責任であって、自分たちには責任がなかったのだという認識が世論として定着した。
そうですね。兎角、この世は無責任。日本人には罪がない。
>355863 戦後メディアの病② 弱者を装う >根木貴大 ( 45 静岡 営業 ) 20/04/19 PM10 【印刷用へ】 >リンク
>■市民や庶民という「政治権力に抑圧される弱者」に装うこと
>私 [佐々木俊尚氏] は2012年の著書『「当事者」の時代』(光文社新書)で、「マイノリティ憑依」という概念を提示した。 >「マイノリティ憑依」は、弱者に寄り添うといいながら、自分に都合の良い幻想の弱者像を勝手につくりあげ、その幻想の弱者に喋らせ、弱者を勝手に代弁することである。
代弁が好きなようですね。自己主張は不得意なのかな。
>メディアは自分の狙った物語を描こうとキャッチーな場面を撮影し、その物語に画面をはめ込もうとする。 >そこには第三者であるメディアの想像が繰り込まれてしまっている。 >このマイノリティ憑依については「佐々木が弱者を無視しろと言っている」「弱者への差別だ」と誤解して非難する人がときどき現れてくるが、そうではない。 >逆に弱者の本来の発言が無視されてしまい、彼らの存在そのものが他者に奪われてしまう問題をマイノリティ憑依は孕んでいるのだ。
そうですね。その可能性はありますね。
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