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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

個人の尊重

2017-07-06 06:14:45 | 日本語脳
> 明治維新後と太平洋戦争の後、日本経済が急成長したのは維新と戦争が学歴社会を崩壊したからだ。

日本の学歴社会は序列社会の言い換えですね。我が国の人間序列が崩壊して経済が急成長したのでしょう。

> 意欲のある若手が急激に社会の頂点に飛び出してきた。彼らが社会を根こそぎつくりかえ世界が目を見張る急成長をさせた。

上位の圧力が無くなったのですね。

>それが50年、70年たち若手だった人は退場する。明治の元勲たちが世を去り、戦後は松下幸之助や本田宗一郎が世を去り、入れ替わり学歴で入社してきた秀才たちが支配層に入る。そうなると井深や本田などの天才が会社に入っても潰される

秀才は、個性で選ばれるわけではありませんからね。独創的な人物とは言い切れないですよ。

>そして、戦前は無謀としか言えない太平洋戦争に突入し、戦後はバブルで思い上がった末に崩壊した

我が国には、個人主義がない。国政に対する政治指導者個人によるブレーキが利かない。だから、無謀な戦争に突入した。

>明治の元勲が死の間際に日本の行く末を心配したそうだが、結局、誰も止められなかった。

日本人の一寸先は闇。心配するだけでは、失敗は避けられませんね。

>シャープが液晶工場の失敗で倒産寸前になって、社長が立て続けに変わった。>高橋社長は静岡大学大学院工学研究科の修士課程卒>水嶋副社長は大阪大学大学院物質創成専攻博士後期課程卒>大西常務執行役員は大阪大学経済学部卒

高学歴ですね。だが高学歴は、商売の繁盛を保障しませんね。

>彼らは首を並べて失敗の原因を考えた。>彼らのだした結論は「会長、社長になると神様になる。その人たちをきちんと補佐するには、下から意見を言えるようになっていなければならない」 「10年前からヒット商品がなぜ出ないのか。これが今日の不振を招いていると我々も思っています」。

日本は神の国でしょう。皆が神様になろうと励んでいる。だが神様はヒット商品を出すものではない。

>水嶋は人材の質が低下したとはみていない。むしろ昔よりも平均的に知的能力の優れた人材が多く入社しているはずである。ユニークで面白い製品が生まれなくなったのは、やはり企業風土が変質したからだとの見立てだ。>「上から言われたことをコツコツやっているだけでは駄目なんです。天の声の影響が末端まで広がっているというのが我々の認識です」。

没個性的な上意下達ではだめですね。思考停止が企業風土になっています。

>そもそもこの認識が間違えている。上も下も知的能力の優れた人材で固めていることが原因なのだ。

知的能力は、必ずしも個人の創造力ではありませんね。暗記力のこともある。

>ユニークな製品が生まれないのは、ユニークを抑圧する学校教育で優秀な成績を上げた知的な人たちが会社に充満していること、そのこと自体に問題があるのだ。

ご唱和の教育を受けた者は、ユニークではありませんね。優秀な成績にユニークさを求めること自体に問題がありますね。

>端的に言えば「学卒採用試験制度」そのものに問題があるのだ

‘学卒によってユニークを求める’ のは、’木によって魚を求める’ ようなものか。

>学校が現在の成績重視で、企業も学歴と入社試験でふるいわけている限り日本の将来は見えてこない。

そうですね。序列体制の確立では、江戸時代に逆戻りします。不自由を常と思えば不足なし。

>学校があるから、子どもと将来の日本は不幸になるのだ。

そうでしょうね。日本人は学校を序列制度の道具立てにしていますからね。’上とみるか、下とみるか’ の礼儀正しさは、人間の個性を破壊します。


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考える

2017-07-05 17:37:26 | 日本語脳
>人間は、「言葉」によって考えることは間違いありません。

そうですね。我々は文章を作って考えます。

>しかし残念ながら、日本語は厳密で抽象的な表現は得意でないように思います。なので、我々日本人は「考える」ことが苦手なのかもしれません。

日本語は、実況放送・現状報告の内容を伝うるための言語ですからね。現実描写では、考えは描けません。考えは、非現実の内容ですから。

>では、「考える」とはもう少し詳しくいうとどういうことなのでしょうか。考えることは、大きくは二種類に分けられると思います。分析的に考えることと、創造的に考えることです。
> 考える目的は、いろいろな言い方ができると思いますが、私は「意思決定」だと思っています。何かを決めるために考える。その際に、まず分析的に考えた上で、創造的に考えるというステップを踏むのではないでしょうか。

意思は未来時制の文章内容であります。時制は英語にはありますが、日本語にはありません。ですから、日本人は、意思の内容を示すことに難渋しています。自由は、意思の自由を意味します。意思が無ければ、折角の自由にも意味はありません。ですから、我が国では、’不自由を常と思えば不足なし’ となります。 
英語では、’Where there’s a will, there’s a way’ . (意思のあるところに、方法がある) と言いますが、裏を返して言えば、’意思のないところには、方法 (やり方・仕方) がない’ ということになります。仕方がないから、あきらめることになりますが、これは淡泊で、思い切りが良いということでしょうか。

>創造的に考えるということは、「分ける」ことではなく「統合する」ことです。大事なのは、統合する材料をできるだけたくさん頭の引出しにしまっておくこと、そしてそれが必要となった時にタイミングよく引き出して、「つなぐ」ことです。

同感です。統合が大切ですね。マスター・プラン、グランド・デザインの様な内容が必要ですね。

>ジョブズは、有名なスタンフォード大学でのスピーチで、こう言っています。

> 将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。運命、カルマ...、何にせよ我々は何かを信じないとやっていけないのです。私はこのやり方で後悔したことはありません。むしろ、今になって大きな差をもたらしてくれたと思います。

経験が大切ですね。人生のどこかで実を結びます。

>いろいろなことに興味を持って高いアンテナを張り、たくさんの経験を積む。それを楽しむ、開かれた心を持つ。「考える」ことは人生そのものなのですね。

‘○○の一つ覚え’ では、危機に及んで我々は滅亡します。貴重な経験を役立てるために、我々は ‘考える人’ になる必要がありますね。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)


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歌詠み

2017-07-05 05:49:20 | 日本語脳
(略)

>能は主人公となる「シテ(『羽衣』ならば天女)」と、相手役となる「ワキ(漁師)」の掛け合いで展開しますが、物語が進行すればするほど、会話の「間」が短くなり、共話も増えていきます。ふたりの気持ちは、ふたりを超えて風景になってしまう。会話が進めば進むほど深化し、表層の「こころ」から、深層の「おもひ(思い)」へと移行していきます。>自他の境がだんだん消失していくのです。

そうでしょうね。日本語を使うと没個性的になるでしょうね。

>そして、シテとワキの「共話」が頂点まで盛り上がると、それが地謡(じうたい)という、舞台の横に並ぶコーラスグループに引き継がれます。ふつうならば、地謡はふたりの会話を引き継ぐと思うのですが、両者の会話が地謡に引き継がれた途端、その場の風景のことなどが謡われてしまうのです。>ふたりの思いは自他どころか周囲の風景とも混ざり合い、溶け合ってしまう。個人の意識(こころ)から、集合的な無意識(おもひ)へと変容していくのです。

現実の世界は一つです。ですから、実況放送・現状報告の内容には、個人差がありません。

>これも能だけに限りません。日本人は昔から、感情を個人の中にとどめず、風景と溶け合わせるという心性があったようです。

日本語は、実況放送・現状報告のためにある言語ですからね。つまり、現実描写のための言語です。風景画を描くような言語です。非現実を表すことはできません。非現実を表現しようとすれば、’そんなこと言っても駄目だぞ。現実はそうなっていない’ と現実肯定主義者は言います。話にうつつ (現) を抜かしてはいけないということです。

>私は全国で「寺子屋」を開催しており、毎回様々な世代の方が参加されますが、時々、皆さんと一緒に文部省唱歌を歌ったりします。で、たとえば『朧月夜』を歌う。すると、高齢の方ほど涙を流されることが多いのですが、どこが悲しいんだろうと『朧月夜』の歌詞を読み直してみても、「悲しい」とか「さみしい」とかいうような感情表現はひとつもないのです。歌われている内容は、ただ風景だけです。しかし、歌われる風景によって記憶が呼び起こされ、涙を流す。風景の中には、心の奥底にある感情を刺激する「情の糸口(緒)」、すなわち「情緒」があるからです。

記憶は呼び起こされるが、文章にならない。言葉はバラバラな単語のままである。非現実の内容を文章にするには、時制というものが必要です。時制があれば、過去・現在・未来の三世界の内容が独立した文章になります。現実の世界は一つしかありませんから、この三世界は非現実の内容になります。つまり、個人の世界観です。頭の中にある内容です。考えの内容です。

>月や花は、ただ、そこに存在しています。しかし、それに対して、私たちは何かを感じる。本居宣長はそれを「もののあはれ」と呼びました。「あはれ」とは、見るもの、聞くもの、触れるものに対して心が何かを感じとり、無意識にあふれ出してしまう「あぁ……」という深いため息です。>「もの」というのは、物の怪や物思いという言葉があるように、言語化できない漠然としたものです。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。考え (非現実) には、個人差が有る。それぞれの個人の特徴が考えにあらわれます。文章ができれば、個人の内容を識別できます。個人の違いを大切に保護しようとすれば、個人主義の大切さがわかります。

>思いがかなわない、取り戻すことができない、自分にはどうにもできない。言葉にできない感情や思いを抱えたとき、「身(心と身体)」の底から嘆息(なげき)の声があふれ出し、それを風景に重ね合わせていく。『万葉集』をはじめとする歌集や『奥の細道』などにも、そうした歌や句はたくさん登場します。

文章化できない頭の中の内容は、バラバラな単語のままでとどまっています。ですから、日本人の想いは歌詠みになります。



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空回り

2017-07-03 21:32:04 | 日本語脳
>今は流行らなくなりましたが、昔、学校で、夢を持ちなさいと言われたことがある人は多いと思います。

私もあります。’いつでも夢を’ という歌までありました。

>今思えば、言っている教師側も聞いている生徒側も実際何を言っているのか理解しないまま、空っぽの言葉だけが繰り返されていたことがよく判ります。

夢とは、見ることはできても、触れることは出来ないものでしょう。はかないものですね。これは、日本人の伝統的な夢の考え方です。

>夢とは一体なんだったのでしょうか。

民族によりその内容は違うのでしょうね。

>よく「夢を持て」という言葉を聞きます。ただ漫然とその日を過ごすよりも、将来の夢を持っていることは、やりがいにつながっていきます。その夢と志とは似ていますが、意味合いには多少の違いがあるように思われます。>「私の夢は家を建てることです」とは言いますが、「私の志は家を建てることです」とは言いません。

‘志す’ (こころざす) とは、’思い立つこと’ でしょう。

> 夢は個人的な願望ですが、志は世のため人のためという願いが込められています。「~がほしい」「~がしたい」という夢を語る人は多いのですが、高い志を持って生きている人はどれだけいるでしょう。

かつてアメリカに、人種差別撤廃の夢を語った有名な牧師もいましたね。

>お金や物、地位や名誉を得ることだけを願うのは寂しい気がします。

それは、現実しか知らない人でしょう。今だけ、金だけ、自分だけの処世術に従って生きている人でしょう。浅薄な人ですね。

> 地球環境や世界平和のためとまでいかなくても、少しでも身の回りの人たちの役に立ちたいという願いをもって生きていけるといいと思います。そこから生きがいが生まれてくることでしょう。【道を求める:和田善明師】

各人が移行すべき未来の世界の内容を脳裏に描くべきですね。内容は非現実でありますから、奥が深いです。



>私たちがかつて夢という言葉を使っていて、漠然とどこか違うと思いながらもそれが何処から来るものか判らなかったと思います。

西洋人と日本人では、夢が違いますね。彼らは、未来時制の文章内容を使って夢を描きます。日本語には、未来時制はありません。ですから、この種の夢は理解できません。

>引用した文章読むと「夢」という言葉が極めて個人的なものだということがよくわかります。

生理現象の夢は個人的なものでありますが、哲学の夢は大同の夢になる可能性があります。世界観の有無が前者と後者の違いになっています。
大同になった内容には、小異を捨てて協力する同志が得られる可能性がでてきます。夢は現実を動かして正夢になるでしょう。希望が湧いてきます。

>そしてそれは「個人主義」や「自己実現」同様に自我全盛の時代の、従って空回りが必然の言葉だったからこそ違和感があったのだということが今になって思い至る気がします。

我々一人ひとりに個人の哲学が必要ではありませんか。一人ひとりの哲学を護るためには個人主義が必要ですね。
哲学を語るためには、言語に時制というものが必要です。日本語文法には、時制というものがありません。
ですから、翻訳文化は空回りします。



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重箱の隅

2017-07-03 11:16:34 | 教育
>リンクより引用。
> ***

>つい先日、あるwebマーケティング会社の方々から、 「社外の専門家を雇ったのだけど、本当にうんざりした」という話を聴いた。>「なぜ?」とお聞きすると、「とにかく仕事ができないので、チームの雰囲気を悪くする。」という。>しかし、当然ながら「仕事ができない専門家をなぜ雇ったのか?」というギモンが浮かぶだろう。> 私はそれを聞いた。すると彼らは、 「いや、知識だけはすっごいあるんですよね。分析ツールとか、統計とか。異常なほど詳しい。本も出したりしている。」

この専門家は暗記もので鍛えたのですね。

>「なるほど。ではなぜ「仕事ができない」と感じたのですか?」> 「その人さ、問題を指摘するだけで、全然改善案を出せない専門家なんですよ。」> 「そういうことですか。」> 「例えば、webサイトを見て、あそこが悪い、ここもダメ、っていう指摘はめちゃめちゃうるさいんですよ。でも、「じゃあどうすれば改善しますか?」と聞くと、何も出てこない。」

論客は、ああでもなければこうでもないと力説する。では、どうであるかということになるが、自分はどうであるかを決して言わない。自分には、考えが無いからである。

> 「なるほどw」> 「しかも、異常に細かい部分にこだわるんです。サイトの全体設計の話をしている時に、ボタンの位置やレポートのフォーマットの話とか、「今そこじゃねーだろ」って、ツッコミたくなるわけですよ。」

小異を捨てて、大同につくことが事態の進展を図ります。議場に大同を示す人がいなければ、小異の議論から抜け出すことは難しい。

> ******

>そういえば、私も同じような経験をしたことがある。
>ある営業業務改善のためのミーティングで、「引き合いの分析」をしていたときのこと。> 過去数カ月分にわたる、引き合いの一覧表を、まだ若い管理職がグループの皆に配布し、「受注率を上げたいと思っているのだけど、過去の失注したお客さんに何か傾向はないか」と訊ねた。>すると、一人のベテラン営業マンがすかさず「ここの漢字がまちがってますね」「このシート見にくいですよね」と、表のフォーマットにケチを付け始めた。>その管理職は落ち着いて、「何が見にくいですか?」と聞いたが、そのベテランは「いや、見る人のことを考えたら、もうすこしスッキリさせるでしょ」というだけ。> 管理職は「具体的に何処を直せば良いですか?」と聞くのだが、そこに意見は言わない。

論客は、ああでもなければこうでもないと力説する。では、どうであるかということになるが、自分はどうであるかを決して言わない。自分には、考えが無いからである。

>その若い管理職は内心はイラッときていたと思うが、表情には出さずに、 「フォーマットは後で直します。失注したお客さんについて気づいたことは……」と再度皆に聴き直す。>しかし、先ほどのベテランは再び、「あ、このお客さんの担当、別の人ですよ」と、本筋とは関係のない指摘をする。皆はうんざりしており、場の雰囲気は酷いものになってしまった。

小異を捨てて、大同につくことが事態の進展を図ります。議場に大同を示す人がいなければ、小異の議論から抜け出すことは難しい。

> ******

>このような人、どの会社にも何人かはいるのではないだろうか。

日本人の教育方法の効果によるものですね。暗記ものは、現実の内容を暗記する。現実は見ればわかる。
考えの内容は、非現実である。だから、一人ひとりが違っている。見ることが出来ない。話を聞いて理解しなければならない。このような創造力を育てる学習は、我が国にはない。
我が国では、全て異口同音になる正解を要求している。常識が発達する。人手不足はあっても、頭脳不足は生じていない。

> 傾向として、 「40、50代」 「知識だけはあるが、成果につながる本質的な話ができない」 「プライドが高く、人のやっていることに対して指摘は多いが、自分の意見は(批判されたくないので)出さない」 「男性」という属性があるので、わたしは彼らを「重箱の隅おじさん」と呼ぶ。

暗記ものの勉強で鍛えてきた人でしょうね。従って、序列順位は高くてプライドがある。序列社会のどこに行っても幅を利かせている。困りものですね。

>もちろん、これはオジサンに限るものではないが、何となくそう言う傾向は見て取れる。>で、その「webマーケティングの専門家の方、どうしたんですか?」> 「役に立たないだけでなく、会議のジャマをするんで切っちゃいました。皆の気分を悪くするだけの人なら、知識があっても邪魔ですよね。」

折角の知識が邪魔をしているのですね。



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