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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

メンタリティ

2017-07-13 21:50:46 | 日本語脳

>★旧日本人★メンタリティー

>【集団依存】 会社にぶら下がっている。どうせぶら下がるなら「寄らば大樹の蔭」と考えている。数を頼む。

そうですね。どうせぶらさがるなら ‘アメリカ’ と考えている。皆で渡れば、怖くない。

>【絶対平等主義】パフォーマンスの低い人の報酬や労働条件に、全員が「平等に」合わせるという「平等主義」 「出る杭は打つ」ものの、決定的な敗者も作らない

‘生かさず、殺さず’ ですかね。平々凡々が世間並となっている。

>【他律性】 自律性がなく、周囲の意見に従って自分の態度を決定する。だから思考停止していても不便を感じない

日本人には意思が無い。個人的な意思の表明を求められることも無ければ、相手に求めることも無い。だから、意思決定は必要ない。社会の意思決定は、ただ成り行きで決まる。

>【論理性欠如】 論理とかセオリーに従わず、感情的、感覚的判断を行う。自分にとってメリットがあるか、自分の立場にプラスかどうかという近視眼的な基準で物事を判断する。

言語を使っても、言語通りにはならない。処世術に従う。’今だけ、金だけ、自分だけ’ ということになる。

>【目的意識の欠如】 明確な目的意識を持たず、集団への依存心が強いので、自己を超克する努力などしない。飲み屋で同僚とぼやき合って、マイナス方向のエネルギーを蓄積していく。

そうですね。世界観が無いので、移行すべき未来社会の内容を想定することは難しい。考える人になることは難しい。やけを起こして、狼藉を働くか。

>【「知」に対する無感覚】 「知」の決定的な重要性を意識していない。だから洞察力も判断力も磨けないし、自分で物事を考えようとしない。組織的な判断(稟議)を行い、責任を回避する。自分にとってメリットがあるか、自分の立場にプラスかどうかという近視眼的な基準でしか物事を判断しない。

現実の内容は、頭の外にある。非現実 (非現実) の内容は、頭の中にある。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。非現実の内容を表現する文章には時制が必要です。日本語文法には時制が無いので、日本人の頭の中には考えが無い。日本人の精神活動は、文章・言説では表現できない。人の心から心へと伝えられるものである。

>【批判精神の欠如・内向性】 「目上の者を指さしてはならない」と思っている。自分の仲間なら、反社会的なことをしていても批判しない。「身内の恥は我が身の恥」として不祥事を隠匿する。しかし、たいていはバレてひどい目にあう。

序列指向と身びいきがある。だから、人間は信頼されない。

>【権威主義・虚礼重視】たとえ無能で、年功で出世した者でも、あくまでもメンツにこだわる。 メンツの後ろ盾になっているのはカイシャ。肩書きを取ると、途端に無力になる。

序列社会における権威主義ですね。

>【親分肌の明るい笑顔】 性格は明るく、根拠なく楽観的。人に好かれる。それは資源をばらまいて、人にいい顔をするのが仕事だと思っているからである。その資源は自分のモノではないのだが……

無哲学・能天気である。処世術の達人であっても、花咲じじいになりたがる。罪滅ぼしのためか。

>【即物的】 所有という概念に執着する。無形資産の価値を理解しない。

あくまでも、’見ればわかる’ 物でなくては実感がわかない。

> ・価値志向性
>【価値軽視】モノの「価値」をあまり深く考えようとしない。 だからさし迫った危機意識を持たないし、価値観の違いを根拠にして他人に「NO」を言わない。「現状のままでいれば、常に明日という日は来るはずだ。何が問題で騒いでいるのか」と他人事に受け流している。

過去の内容は疾く風化し、未来の内容は一先が闇。全ては、成ってみなければ分からない。世界観を持っていないから、’我々はどこから来たか’、’我々は何者か’、’我々はどこに行くのか’ といった命題には答えが出せない。だから、いつまでたってもその日暮らしである。

>【保守主義・前例主義・教条主義・拝外主義】 「現状を改変してはならない」という信念を持ち、革新的なことは認めようとしない。自分たちと異なる立場は絶対に許容しない。新日本人を敵視する。

お変り無ければ、天下泰平の印である。常に変革は想定外となっている。だから、新日本人を敵視する。

>【ご都合主義・相対主義】 何事にも「白黒」をはっきりさせず、自分の態度を表明しない。付和雷同的に「他人がよいと言っているものはいいんだ」と思い込み、物事を実質本意に判断しようとしない。

意思は文章内容にはならないのであるから、肯定文も否定文もない。だから、白黒ははっきりとしない。気分・雰囲気による判断には、時間がかかる。

>【中庸・無為無策を尊ぶ】 決して「物事の大元を変更してはならない」と思っている。 前任者の責任を問うような方針変更は「過激」として排除され、「改革」は単なる弥縫策に矮小化される。

社会の新規建設はなく、ただ修復のみを重ねてゆく。絶え間なく工事を続けてゆく東京駅の様なものか。

(略)



専門職大学

2017-07-12 21:26:16 | 教育

>※※※以下、引用※※※

>「専門職大学」を創設することが5月に決まりました。1964年に短期大学ができて以来、大学に新たな区分が加わるのは55年ぶりのことです。2019年4月から開校できるようになります。

>(中略)

>具体的にはどんな大学ができるのでしょう。
>静岡県立農林大学校(磐田市)は「農林業の生産技術が分かるだけでなく、経営もできる人材を育てたい」と専門職大学への移行を検討しています。>調理師専門学校を展開する辻調グループ(大阪市)は調理師を育成する既存の学校とは別に、飲食業の経営を学ぶ専門職大学の新設を目指しています。>担当者は「飲食業界の人手不足を突破できる人材を育てたい」と意気込んでいます。

>(中略)
>「専門職大学」によって大学教育はどのように変わるのでしょうか。筑波大学の金子元久特命教授に聞きました。
>(中略)

>――金子教授は、専門職大学についての審議会に委員として参加されました。どのような経緯で創設が決まったのでしょうか。

>「一般論として、大学の教育は学問的なことに寄りすぎていて役に立たないという批判があった。

無哲学・能天気の人々には、哲学・学問は無理ですね。これらは非現実の内容でありますから、実学 (技術) のように役立つことはありませんね。日本人には習得が非常に困難な分野になりますね。

>もっと手に職をつけさせるような職業教育をすべきだという意見だ。

我が国には人手不足はあっても、頭脳不足は聞いたことがありません。人々はまだ、頭脳不足を実感するまでには至っていないのでしょう。だから、大学は四年間遊ぶところになっているのです。

>それに加えて、専門学校からは学士を得られるような制度がほしいという要望があった。

教養教育・学問の無いところには、学士の称号は不要でしょう。日本人には、教養の必要性はまだ感じられていません。

>結果として、職業教育によって学士を取得できる大学制度ができた。

職業教育には、大学制度は不要でしょう。職業学校そのものを充実させればよいでしょう。

>こういうショックでも与えなければ大学は変わらないだろう、という意見もあった」

大学の奇妙な変質では困りますね。英米に通用するような基準でないと、卒業生が対等には扱われませんね。

>――これから具体的な制度内容が議論されます。どのような課題がありますか。

>「企業側のニーズが不明確なことが問題だ。

企業側には、特に教養人の要求はないでしょうね。教養は、あくまでも個人の問題です。

>一般論として大学は職業教育に力を入れるべきだという批判はある。

大学は哲学 (非現実の内容) を学ぶところであり、職業学校は実学 (技術) を学ぶところですね。我が国民は、非現実の内容の真価をまだ理解するには至っておりません。それが、大きな教育の問題です。

>しかし、専門職大学についての審議のなかでも、こんな職業教育をしてほしい、こんな技術を持った人なら雇いたい、という具体的な話は無かった。

医師や弁護士などの高度の職業人は、大学院でなければ教育できませんね。大学は、哲学を主体とした教養教育をすべきですね。目先・手先の実物教育だけでは、高度の職業人の育成は無理です。

>ただし、話し合いには大企業しか参加していなかった。>ニーズがあるとすれば、地方の中小企業なのではないか。

高度の職業人のニーズは、大企業とか中小企業に偏在することは無いでしょう。自分で起業することも考えられます。

>米国にはコミュニティーカレッジと呼ばれる短大があり、地元企業とうまく連携して従業員の教育を請け負うなどしている。>日本でも地元企業のそのようなニーズはあるはずだ。

従業員の教育なら短大が良いでしょうね。日本でも地元企業のそのようなニーズはあるでしょう。

>専門職大学の具体的な制度設計では、まずは地元企業のニーズを知ることが重要だ。

高度な職業人の育成には、学士を入学させて教育する大学院でなければ無理でしょうね。高度な職業人のニーズは世界中にあるでしょうね。

>その上で、それをどうやってカリキュラムに取り入れるかを議論すべきだ」

我が国は、まず教養教育を充実すべきですね。無哲学・能天気の状態では、大学・学問それ自体が成り立ちません。大学の存在意義が問われます。我が国が頭脳不足であることの把握がぜひとも必要ですね。それがなければ、大学に対する社会のニーズを的確に捉えることも難しいでしょう。公共施設で働く学芸員の方々も、哲学博士 (Ph.D.) の称号をお持ちでない方が大勢おられるのではないですか。これでは、我が国に頭脳不足が生ずるはずがありません。

>※※※引用、以上※※※




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日本語のローマ字化

2017-07-08 23:09:56 | 政治
>1945年(昭和20年)に敗戦した日本。その時に母国語である日本語を失いかねない危機に陥った経験があるようです。その戦争で玉砕覚悟で参戦した日本国民は、正しい情報を得ていないから=漢字という難しい言語を日本国民が理解できないからとアメリカ側は考え、全てをローマ字表記に変えたらよいという動きがあったようですが、当時の日本国民の識字率の高さが母国語である日本語の存続を守ったという話があるようです。

言語というものは本来、話すもの聞くものとして生まれたものですから、識字とは直接関係が無いのではありませんか。

> 日本の世界一リンクより
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>戦争中、玉砕するまで戦い抜いた日本人を見たアメリカ人は、「日本人は間違った情報を伝えられていて、正しい情報を得ていないに違いない。なぜなら、新聞などがあのように難しい漢字を使って書いてある。あれが民衆に読めるはずはない。事実を知らないから、あんな死に物狂いの戦い方をするのだ。だから、日本に民主主義を行き渡らせるには、情報をきちんと与えなければいけない。そのためには漢字という悪魔の文字を使わせておいてはいけない」と考えた。<『日本語の教室』(大野晋 岩波新書)より>

漢字は、非漢字圏の人たちには難解ですね。漢字表記で挫折する初学者が多いですね。中国語や日本語が母語として多くの人に話されているにもかかわらず、第二言語として重要な地位を占めていないのはそのせいでしょう。

>日本語の改革を初めに提起したのは、GHQの民間情報教育局(CIE)のキング・ホール少佐だった。彼は、「漢字はエリートと大衆の調整弁であり、漢字の持つ特異性によって情報はコントロールされ、民主主義は広がらない」と考えていた。

昔、西洋で、ラテン語が聖職者と民衆の間を隔てていたことがありましたね。あれをキング少佐は思い出したのかもしれませんね。

>朝日新聞社などの新聞社も「漢字を廃止してローマ字に」と唱えた。当時の新聞は活版印刷で、かなや漢字の活字をひとつずつ埋め込んでいく作業量が多く、コスト削減のために少ない数で済むアルファベットを採用したかったからだ。また、戦前から存在した日本語をかな文字やローマ字にしようと考える勢力もこの動きに呼応し、日本語は危機を迎えた。「フランス語を日本の公用語にせよ」という暴論まで日本人作家からとびだした。

フランス語がどれほどの言語なのですかね。’漢字を廃するのは日本語の危機’ というのも、問題の本質をついていないような気がします。お変わりがなければ、それで天下泰平ということですかね。

>1946(昭和21)年3月、マッカーサーの要請により、アメリカ教育使節団が来日した。
>使節団はアメリカの教育制度の専門家27人だったが、日本の歴史文化に精通していたわけではなかった。25日ほどで日本を視察し、報告書で「日本語は漢字やかなを使わず、ローマ字にせよ」と勧告した。「ローマ字による表記は、識字率を高めるので、民主主義を増進できる」というのが、彼らの考えだった。

当時は日本がまだ国際化していなかったし、万事が無理解の状態にあったのでしょうね。

>1948年8月、CIEは「日本語のローマ字化」を実行するにあたり、日本人がどれくらい漢字の読み書きができるか調査を行なった。調査地点は270ヶ所の全国の市町村で、15歳~64歳の1万7千百人が調査対象になった。調査対象となれば、炭焼きのお婆さんでもジープで連れ出して日本語のテストをさせたという。
>調査の結果、テストの平均点は78.3点で、日本人は97.9%という高い識字率を誇っていることが判明した。テストで満点を取った者は4.4%で、ケアレスミスで間違えたのではないかという者で満点と認めてもよいという者が1.8%いた。合計すると6.2%(約500万人)が満点という好成績だった。

よくできましたね。すると、我々の非民主的な原因はまだほかにあると考えなくてはなりませんね。我々は、もともと没個性的ですからね。

>CIEはこの結果に驚き、日本の教育水準の高さに感嘆し、「日本人の識字率の高さが証明された」との判断が大勢を占めた。CIEの教育・宗教課長だったハロルド・ヘンダーソンは日本の禅や詩歌を愛する知日家で、ローマ字化推進論者のホール少佐の意見を抑えた。ホールがヘンダーソンの後継者として課長になると見られていたが、他のポストに移され、日本語のローマ字化の企みは潰えた。「アメリカ教育使節団報告書」は、教育勅語の廃止、六三制義務教育、PTA導入、教員組合の組織の自由などを勧告した。

残念なことでしたね。評価の観点が違いますね。

>戦後の日本の教育はこの勧告に基づいて行なわれていったが、唯一、実現されなかったのが「日本語のローマ字化」だった。圧倒的な識字率の高さが母国語の存続を守ったのである。<『国語施策百年史』(文化庁、ぎょうせい)より>

日本語は人類にとって価値ある言語です。ですから、中国人以外の非漢字圏の人たちにもぜひ日本語を習得してもらいたいですね。日本語をローマ字表記にすれば、彼らの我が国に於ける研修結果を高めることでしょう。日本語の音読が日本語の会話能力を飛躍的に向上させるでしょう。研修生が日本人と自由に話し合うことにより我が国の文化に対する理解を深めることができ、我が国は外国に対する大きな影響力を持つ国になることでしょう。我が国がカナ漢字表の識字率を誇っていては、時代遅れになるでしょう。我が国の政治家は、時代を先取りする必要がありますね。
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難しい言語

2017-07-08 15:12:10 | 日本語脳
>「語彙とカバー率」という比較があるそうだ。「カバー率は、おおまかに言えば、ある語彙数でその言語をどの程度理解できるかを示している」リンク
>代表的な言語について理解可能になる必要語彙数は「フランス語では頻度順上位1000語、英語、スペイン語はもとより、ロシア語、中国語、朝鮮語でも2000語を知っていれば約8割理解できるが、日本語では同じ水準になるのに上位5000語が必要になる。上位3000語をマスターすれば、フランス語、英語、スペイン語では約9割が理解できるが、日本語では同じ水準になるのに上位1万語が必要になる。」のだそうだ。必要語彙数が多いという意味で、日本語が「難しい言語」という外国人は多いという。

日本語は易しいという人と、難しいという人がいますね。その違いは、文章構文か語彙数かの観点の違いに因るものでしょうね。

> 一方、日本語の特徴は「語らない言語」だ。古来から多くを語らないことを決してマイナス評価しない。言わずとも通じる事は言う必要がない。だから言わない。この判断に乏しい人は、時に「無粋」とか「空気を読めない」などと評価される。逆に、表面的には寡黙だが内面に厚い人情をもつ人(たとえば高倉健)は、その行動から察してプラス評価される。

日本人の精神活動の内容は、文章・言説では表すことが出来ないと言われています。その活動は心からこころへと伝えられるものであるそうです。以心伝心・不立文字ということでしょうか。師は ‘見て覚えろ’ と言います。正しい考えとその理解という次元の教育ではない。

>そうなると「多くを語らぬ日本語を理解するのに、多くの語彙力を必要とするのは何故か?」という疑問が生じる。

日本語は、ばらばらな単語 (小言・片言・独り言) で発せられることが多いから、その対応に多くの語彙力を必要とするのでしょう。

>リンクによると、  ・外国語を取り入れ易いので語彙が増える(カタカナ語) ・心理内容を表す感情関係の語が非常に豊かである ・擬情語(イライラ、ムシャクシャ、ヤキモキなど)が多い、 などがあるそうだ。

そうでしょうね。なるほどと思います。連想ゲームのようなものでしょう。正確なことはわからない。期待もできない。

>特に、心理内容を表す感情語が多いのが特徴という。たとえば「悔しい」に相当するフランス語、「もったいない」「さりげなく」「無心に」「あやかりたい」に相当するアメリカ英語、「懐かしい」に相当するドイツ語は、いずれも存在しないといった具合だ。

私にも思い当たる節がありますね。’勿体なない’、’もったいない’ と言って日本を歩く外国人を見たことがあります。日本人を見ると、’頑張って’ と声をかける外国人もいます。自分たちの国では、そんなことは言っていない。

>そうなると、日本語を理解するのに多くの語彙力を必要とするのは、他の言語と理解のポイントが異なるから、という仮説が成り立ちそうだ。

そうでしょうね。言語の利用目的が違います。

>すなわち、日本語は、意思疎通の力点が「感情」におかれている。そのうえで、感情とは「その気持ちわかる~」といった具合に共感することが理解に等しい働きをもっている。そして、感情とは“機微”という言葉があるように微妙な変化をもつ。互いに共感=同じ気持ちになるためには、微妙な変化に相当する多くの語彙が必要、ということになるのではないか。

そうでしょうね。 山本七平は「『空気』の研究」のなかで、感情の共感と論理の理解の違いを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

>我々日本人にとって、共感が成立しないもしくは拒んだ状態の会話は、どれだけ饒舌に語っても表面的な会話と感じられる。他方、言葉は少なくても、共感が成立した会話は深いと感じられ記憶に残る。

阿吽の呼吸ですか。共感の成立は、仁王・狛犬などに似たところがあります。

>このように考えると、日本語を理解するには語彙力は二の次の課題と思えてきた。最も重要なのは、互いに共感できるか、相手を無条件に肯定視できるか、ということではないか。共感する感情に相当する語彙は必要であるものの、それは共感することを助ける(固定する)ものであって、第一義ではない。

なれ合いが必要ということになりますね。お友達内閣の様なものか。広い心を示すことは難しいでしょうね。

>・・・語彙力以前の問題となると、いよいよ欧米人には理解できないかもしれない。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。英米人は、考えの内容を理解しようと努力しますからね。東は東、西は西では、どうしようもない。日本語と英語の両方の勉強が必要ですね。今の地球は英語の世界ですから、特に日本人の方に英語の勉強が必要ということになるでしょう。





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文脈の高低

2017-07-06 21:49:53 | 国際・政治
>日本語と欧米の言語の違いを調べていて「高・低文脈文化」という分類があることを知った。(ウィキペディア:リンク ) 一部抜粋。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
>この概念は、アメリカ合衆国の文化人類学者エドワード・ホールが『文化を超えて』(1976年)で世界中の言語コミュニケーションの型を高文脈文化と低文脈文化に分類したことに始まる。

独創的な分類ですね。英語や日本語の勉強に役立ちそうですね。

>高文脈文化のコミュニケーションとは、実際に言葉として表現された内容よりも言葉にされていないのに相手に理解される(理解したと思われる)内容のほうが豊かな伝達方式であり、その最極端な言語として日本語を挙げている。

阿吽の呼吸ですね。相手にどう受け取られても仕方がないと言っています。

>一方の低文脈文化のコミュニケーションでは、言葉に表現された内容のみが情報としての意味を持ち、言葉にしていない内容は伝わらないとされる。最極端な言語としてはドイツ語を挙げている。

私には、ドイツ語は分かりませんが、西ゲルマン語 (West Germanic) に属する英語ならわかります。言わないことは無いことですね。黙っていれば、それで ‘勝負あった’ となります。

>(※ここでいう“高”“低”は優劣を表すものではない)

エドワード・ホール博士は、低文脈を使って、文脈の高低の存在を説明しましたね。外国人にも理解できる内容ですね。高文脈ではこうした発想はできないでしょう。
――――――――――――――――――――――――――――――――――

>上記リンクには高・低文脈文化を比較対照する表がある。高文脈文化 最極端の日本語と低文脈文化 最極端のドイツ語。以下を見ると、言語を用いる前提が全く違うことが鮮明になる。

       [高文脈文化と低文脈文化の比較の例]
     《高文脈文化》  |No|   《低文脈文化》
   ───────────────────────────
   言葉以外に状況や文脈も|1|伝達される情報は言葉の中で
   情報を伝達する。   | |全て提示される。
   重要な情報でも言葉に表| |
   現されないことがある。| |
   ───────────────────────────
   曖昧な言語      |2|正確性が必要とされる言語
              | |
   ───────────────────────────
   一般的な共通認識に  |3|言語に基づく
   基づく        | |
              | |
   ───────────────────────────
   双方の合意に基づいた |4|双方の合意に基づいた契約
   契約でも状況によって | |の変更は容易ではない。
   柔軟に変更される。  | |
   ───────────────────────────
   感情的に意思決定される|5|論理的に意思決定される
              | |
   ───────────────────────────
   沈黙は不快ではない  |6|沈黙はコミュニケーションの途絶
              | |として不快
              | |
   ───────────────────────────

>同じく意思を伝え合うための言語でも、ここまで正反対の方向で発展して現在に至るというのは、大変興味深い。

興味がわきますね。日本人の場合は意思ではなくて恣意 (私意・我がまま・身勝手) でしょう。

>上表から、高文脈文化:日本語の特徴は、一般的な共通認識があることが前提になっている。平たく言うと「相手と自分が同じ」であることを前提としている。相手と自分が同じというのは安心感に通ずるから、曖昧で許されるし、契約は変更可能だし、沈黙も不快ではない。

日本人には、個人個人で考えの内容がちがうという個人主義の理解が難しい。建前と本音の活用で、相手と自分が同じになります。

>一方、低文脈文化:ドイツ語は、その真逆だ。相手が自分と同じであるとは限らない。そこに警戒心が生じる。曖昧な言葉では不利益をこうむるかもしれない。そのため、正確に語る必要がある。また、警戒心(≒否定視)があっては、相手を正確に察することができない。結果として、言語だけで意思疎通を行う必要性が生じる。ロジカルであるというのは、言語だけを頼りに意思疎通をしてきた結果だろう。正確な言葉、正確な論理によってしか合意に至らない(納得できない)。そのようにして合意に至った契約が「容易に変更ができない」というのは当然といえば当然だ。

ドイツ人には、忖度 (推察) による恣意疎通は、考えられないでしょうね。まったく別世界の出来事なのでしょうね。

>このようにしてみると、両極端の言語にみる隔たりは、進化の途上にあった人類が言葉を必要とし発展(進化)させる過程に大きな隔たりがある、ということだろう。すなわち、語弊を恐れずに言えば「島国で仲良く暮らしていた日本人」と「侵略と服属を繰り返してきたドイツ人」の隔たりだ。こう考えて大きく外れていないと思う。

"太平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず" ですか。日本人は、異人さんの取り扱いには苦労します。
ドイツ人は大英帝国を作らなかった。彼らは、アングロ・サクソンとはどこが違うのでしょうかね。地政学的な問題が関係しているのでしょうかね。

>『使う言語によって「性格」まで変わる』304395というのは事実のようだ。が、だからといって、言語の違いが直ちに相容れない人間性の隔たりとはならない。互いの歴史背景の違いを踏まえたうえで、寛容でありたいと思う。

そうですね。互いの歴史背景の違いを踏まえて理解しあうことが必要ですね。だから、私達は英語と日本語の両方を学ばなくてはなりません。
我々は国際協力により、大同となる未来社会を建設することが必要です。ですから、何が小異であるかを見極める必要もあります。
初めから大同小異であると考えて粗末な対応をすると、我々は国際関係において大けがをすることになるでしょう。


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