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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

教育再生

2018-06-17 23:03:37 | 教育

> 政府の教育再生実行会議の第七次提言(首相官邸のホームページへリンク)では、以下のようにも述べられています。
> >教育改革は、少なくとも 20 年以上先を見据えて取り組まなければなりませんが、今現在の教育に携わる人たちは現在の常識や価値観を基準にしており、親世代は自分が受けた 20 年以上前の教育を基準にして考えますので、そこには 40 年以上のギャップがあるという指摘もあります。しかも、これから先の社会の変化は、過去の変化とは比べもの にならないほど加速度のついたものとなることが確実です。<

そうですね。後追い生活は火の車になりますね。

>ここで述べられているように、世の中の変化にもっとも疎いのが学校の先生たちです。

学校の先生たちは、自己の発想法には無縁の人たちですね。現在の常識を切り売りする従来型の教育ですね。

>多少極端な表現であるかもしれませんが、ビジネスの世界で進歩する技術の影響に恒常的さらされ生き残るためにつねに頭のアップデートを求められる実社会の人々とは違い、旧態然とした因循な世界で変化するインセンティブを持たずとも生き残ってゆけるのが学校社会です。

象牙の塔ですね。自己の発想法を獲得すれば、実社会において指導力を発揮できますがね。

>しかし、教員の頭が古いことによる負の影響は直接的に学習者に及びます。

教員の手持ちの古い内容を学習者に暗記させるからでしょう。

>先の引用にある通り、今後の社会への見通しを持たずに最適な教育目的を立てることはできず、目的に誤りがあれば、授業目標の誤り、授業設計の誤り…と連鎖的に誤った教育が生まれます。

我々は、世界観を持つ必要がありますね。過去・現在・未来の三世界の内容を自ら考える必要がありますね。自分自身に考えがあれば、我々は後追いの生活から解放されます。指導性を発揮できます。‘我々はどこから来たか’、’我々は何者であるか’、’我々はどこに行くのか’ を自分自身で考えましょう。

>同提言には「2045年には、コンピュータの能力が人間の能力を上回る技術的な転換点が訪れるという予測もあり、私たちの仕事や生活に、現在の常識を覆すような変化がもたらされる可能性があります。 」とありますが、これが事実なら、今まさに学校に通っている子どもたちが壮年期を迎えるころにそのような世の中に変化しているということになります。

我々は、コンピュータと記憶容量を争う必要はありませんね。コンピュータの得意とする分野は、コンピュータに任せましょう。コンピュータは、哲学者になれるのか。見てきたような嘘がつけるのか。

>であるとすれば、いま彼らを教育している私たち教員や保護者がそういう頭で教育に関わらなければなりません。

そうですね。いつの時代にも、考える人は必要ですね。これには、間違いがない。

>世の中の変化に対して最も疎く保守的なのは学校の先生たちであるとよく言われますが、自分たちが生まれ育ったころの世の中の常識でもって教育に関ることは、その負の影響をもろに被る子どもたちのことを思えば、罪であるとさえ言えます。

世の中の常識を学生の頭に詰め込むのではなくて、自分自身の発想法を教える必要がありますね。

>教師が世の中のことに疎い分だけ、学習者が将来不幸になるのです。

そうですね。学習者は、自分自身で考える必要がありますね。教師が世の中の内容を受け売りしているのでは、学習者は不幸になります。

>無識の指揮官は殺人犯なり。

どういう意味ですかね。わかりませんね。

>教育者たるもの、これから世の中はどう変化してゆくのか、今後の社会ではどのような力が求められるのかについて、つねに学び続け、脳みそをアップデートし続けなければなりません。

学習者が、’世の中をどう変化させたいか’ の発想が必要でしょうね。そうすれば、学習者はこの世界を指導することができます。後追いの生活よ、さようなら。
わが国は、天然資源に乏しい。だから、人間を活用しなくてはならない。ただ今のわが国は、人手不足はあっても、頭脳不足のないじょうたいにある。天下の秀才なら、いっぱいいる。この状態が、わが国の教育政策の癌になっている。頭の活用方法を根本的に改めなくてはならないでしょうね。


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自ら決定

2018-06-15 23:12:30 | 教育


>休み方改革を通じて学んだのは、「自ら考え、自ら決定する」ということです。

それは良かったですね。自主的な生活ができるようになったのですね。

>これこそが、働き方改革にも生き方改革にも共通して通ずる、一番の学びであり、今の日本人に最も欠けている姿勢なのではないでしょうか。

そうでしょうね。働き方が変われば、生き方も変わる。

>振り返ってみると、日本の教育において「自ら考え、決定する」ことを学ぶ機会は、少なくとも僕は一度もありませんでした。

日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがない。それで、未来時制もなく、日本人には意思がない。優柔不断・意志薄弱に見える。
意思のあるところに方法・仕方がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のない人には、方法がない。仕方がないから、無為無策でいる。

>日本の教育は、「決められた答えを導き出すこと」に特化していて、あらかじめ決められた答えをいかに早く導き出すか、それがテストで計測され、それにより偏差値が決められます。

意思決定のない生活は、アニマルの生活と同じですね。アニマルとの差をつけるのは、大変なことです。

>一方で、自ら考えて決定し、そして行動するという能力が培われることはほぼありません。

意思がなければ、責任もない。ちょうど死刑執行人のようなもので、人は死んでも殺人罪には問われない。彼らには、殺意というものがないからである。日本人には意思がないから、とかくこの世は無責任となる。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。

>こうして同じ目標に向かって行動することがよしとされた結果、特に何の疑問を持たず高校へ行き、大学に進学し、就活を経て社会人になる。>社会人になってからも、そう。

我々日本人は、考える人になる必要がありますね。そうでなければ、我が国民は、烏合の衆になる。民主主義は、衆愚政治になります。

>もちろん自ら考えることはすると思いますが、「自ら決定する」こと、そして行動することは、サラリーマンではなかなかできないと思います。

そうですね。我々は勤め人の枠にはめられて、なかなか自由を楽しむことはできませんね。
日本人には意思はないが、恣意 (私意・わがまま・身勝手) がある。恣意はどこの国でも認められていない。意思の自由はあっても、恣意の自由は認められていない。それは、’自由のはき違え’ になるからである。意思がない日本人には、(意思の) 自由にも意味がない。’’不自由を常と思えば不足なし’ である。これは、江戸時代と同じ状態である。

>どちらかというと、会社から決められたルールや作法の中で、先輩と同じような仕事の仕方を半ば強要され、前年の実績を超えるためだけに成果を出すように言われ、いかに実績を超えるかだけを考え、寝る間を惜しんで働く。

そうですね。わが国の社会は、序列社会である。ですから、同次元・序列の競争がある。’上とみるか・下とみるか’ の判断を余儀なくされて、向上心がわく。この精神状態を一生涯持ち続けて仕事に精を出す。アリの生活に似たものになります。

>結果、人生のすべての時間を会社に捧げ、気がつくと、いわゆる社畜のような生活をしている。>そんな働き方にあまり疑問を感じず、自然と受け入れている方も多いのではないでしょうか。>僕もかつてはそうでした。

そうですね。意思のない生活は、自然に溶け込んで見えます。

>しかし、自主的に休み方を変えたことで、自ら考え、自ら決定する習慣が自然と身に付きました。

それは良かったですね。自らの手で、人生を切り開くのですね。

>休み方を変えるには、「いかにして全力で休みを満喫するか」を自ら考えて決め、行動に移さなくてはなりません。

そうですね。自主的な生活には、悔いがありませんね。

>そうしないと、週末をダラダラ過ごしてしまい、あっという間に月曜を迎えてしまいます。

そうですね。有意義な週末を送りましょう。


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会議の進行術

2018-06-15 14:55:10 | 日本語脳


>会議から「不毛な議論」を排除する進行術

論客は、’ああでもなければ・こうでもない’ と話している。’あれではいけない・これではだめだ’ と力説する。
だが、自分がどうであるかを決して言わない。自分には、考えというものがないからである。彼は、’不毛な議論’ の生みの親であろう。
現実の内容は、本当のことである。非現実の内容は、嘘である。考えの内容は、非現実であり、見ることができない。ただの話である。その意味の把握には理解が必要である。
誰も嘘つきにはなりたくない。思考停止であれば、嘘つきにはならない。だから、自分には考えというものがない。彼が多弁なのは、受け売りばかりだからである。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

>ホワイトボードの使い方がポイント>「会議が多い会社はつぶれる」といった通説があります。>会議に時間をとられ、本来の業務に支障が出ている人も多いのではないでしょうか。

そうですね。不毛な議論は、時間の無駄ですね。

>パナソニックシステムソリューションズジャパン部長の木部智之氏は、「会議では最速で結果を出すことを目指すべき。お互いの理解不足で生じるような議論はムダでしかない。まず、こういうムダな議論を排除すべきだ」と言います。>ムダを省くためには、どうやって会議を運営すればいいのでしょうか――。>会議で起こりがちな「ムダな空中戦」をそのままにしない

そうですね。不毛な議論はやめましょう。

>口頭でのコミュニケーションは、1対1だけではなく、ミーティングや会議のように3人から10人以上の大人数で行われることもあります。>会議に参加しているときに、はたから見ていて、「(いましゃべっている)この2人、議論がかみ合ってないな……」と感じることがあるのではないでしょうか?

日本人は、文章の理解に慣れていない。日常生活において、ばらばらな単語 (片言・小言・独り言) を多用しているからです。
文章には、意味がある。しかし、ばらばらな単語には、意味がない。その矛盾も指摘できない。だから、議論にはならない。
しかし、わが国では違っている。意味のないはずの片言隻句が取り上げられて、忖度 (推察) されて、聞き手によりあたかも意味のあるように主張される。これは、伝統的な歌詠みのようなものか。
忖度は、聞き手の勝手な解釈であるから、発言者に責任はない。にも拘わらず、忖度の内容は、独り歩きする。だから、日本人の議論は始末がわるい。

>口頭で議論しているときにありがちな光景ですが、この「空中戦」は、時間のムダでしかありません。>このような「ムダな空中戦」は、参加者の「意見の相違」ではなく、参加者の「理解が異なる」ところから生まれる場合がほとんどです。>言うなれば、きちんと相手の意見を理解できていれば、起こらなかった衝突です。

日本人の理解は、西洋人の理解とは違っています。理解という言葉は多用されるが、’理解をよろしくお願いします’ とは、’忖度 (推察) してください’ という意味である。
カレル・ヴァン・ウォルフレンは、<日本/権力構造の謎・上>の中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が “理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。 “相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。
ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

>「議論がかみ合わない」と感じたら、即、ホワイトボードに書く

そうですね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。書いたものは、斧でも切れない。確実な証拠になります。

>このような不毛な事態を避けるために活用すべきなのが、「ホワイトボード」です。>話の内容を図解にして「イメージ」として伝えると、大人数の参加者にも、ほぼ同じ内容で話が伝わります。>それぞれが理解している内容が共通化されれば、きちんと内容についての議論ができ、「ムダに議論がかみ合わない」という事態を避けることができます。

そうですね。司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻語でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>「報告」や「連絡」などの一方向のコミュニケーションではなく、「議論」のような双方向のコミュニケーションが中心となる「会議」では、ホワイトボードを使うことが「会議」の成否を分けるといってもよいでしょう。

双方向: 文章の内容は、理解されます。議論も可能です。弁証法 (対話術) が使用できます。
一方向: 片言隻句をとらえてする忖度は、聞き手の勝手な解釈です。独りよがりであり、議論にはなりません。’問答無用・切り捨てごめん’ です。

>話をしている人の頭の中を「見える化」することが、実に有効なのです。

そうですね。可視化は、実に有効ですね。

>(略)


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高文脈文化

2018-06-15 06:07:07 | 文化


(略)
>日本では以前からテレワークなど遠隔で勤務できる環境整備が必要と指摘されてきたが、一向に導入は進んでいない。>その理由は技術的なものではなく、メンタルなものである可能性が高い。>日本の職場では、業務の指示や責任の範囲が不明瞭なことが多く、チーム全員が顔を合わせて、状況を逐一確認していかないと仕事が進まない。

わが国の伝統 ‘以心伝心・不立文字’ では、テレワークは無理でしょうね。

>確かに、表情やしぐさなど、ビジュアルな情報があれば、言語が不明瞭でも意思の疎通は可能だろう。>しかし、こうしたスタイルにばかり慣れてしまうと、文書を読み書きする能力が高まらないのは当然である。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>働き方改革が社会全体の課題になっていることも考え合わせると、業務の指示や責任の範囲を文書で明文化する努力が必要なのは明らかであり、これを実践すれば、文章の読解力は確実に向上する。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
論客は、’ああでもなければ、こうでもない’ と言っている。’あれではいけない・これではだめだ’ と力説する。
しかし、彼は自分がどうであるかを説明しない。自分には、考えというものがないからである。考える人になりましょう。その内容を文章にして残しましょう。

>■ 情報の整理、表現の工夫でも改善は可能
>こうした試みとは表裏一体の関係だが、多くの人に明瞭に意図を伝えるためのテクニックも必要だろう。

日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、未来時制もない。だから、日本人には、意思がない。優柔不断・意志薄弱に見える。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には、意思がないので仕方がない。無為無策でいる。主体性がない。主導権が握れない。

>筆者は職業柄、日米の経済統計をWebサイトで閲覧することが多いのだが、両国のWebサイトには驚くべき差がある。>米国のサイトの方が英語という外国語であるにもかかわらず、内容が直感的に理解できるのだ(参考までに、筆者は外国に住んだ経験はなく、ごく一般的な英語力しかないので、英語の基礎力が高いことで内容が容易に理解できているわけではない)。

米国のような低文脈文化の国の言語は、正確性が必要とされる言語です。伝達される情報は言葉の中で全て提示されています。だから、内容が直感的に理解できます。

>日本のサイトは、統計データと関連するおびただしい注記事項が羅列してあるだけというケースが多く、情報が整理されていない。
>様々な立場の人が読むことをまったく想定していないのだ(あるいは想定していても、体系立てて表記できないのかもしれない)。
>困ったことに、こうした分かりにくい情報に対して改善の要求が出されるのではなく、詳細を知っている人が、分かりにくさを利用して、分からない人に対して優越的な立場に立つという、本末転倒な現象も散見される。

日本のような高文脈文化の国の言語は、曖昧な言語です。言葉以外に状況や文脈も情報を伝達します。重要な情報でも言葉に表現されないことがあります。わかりにくさを利用して、優越的な立場に立つ人がいます。

>あなたの職場にも、分かりにくい情報しか提示できないにもかかわらず、「こんなことも知らないのか」と悦に入る同僚がいないだろうか。

注意が ‘上とみるか、下とみるか’ の判断に集中していますね。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。ですから、日本人には上下判断は欠かせません。上下判断に酔う人も少なくありません。

>多くの人にとって分かりにくい情報しか出せない人は、マイナス評価になるという土壌が出来上がれば、読解力不足の問題もある程度、緩和できるだろう。

英米流の高等教育を受けたら、読解力がつくでしょう。

>分かりやすい表現を重視すると、薄っぺらい議論になってしまうとの批判もあるが、筆者はそうは思わない。

そうですね。気分・雰囲気の問題にとらわれているのですかね。

>難しい話を難しく説明することなど、専門家であれば誰でもできる。>現代社会はオープン化が進んでおり、異なる分野の知見をうまくミックスしていかなければ新しいビジネス領域を開拓することはできない。

日本語をローマ字 (alphabet) 表記に改めたら、さらにオープン化が進みますね。世界中の人が、日本語の音読ができるようになります。

>専門的な内容を専門外の人に適切に説明する能力に欠ける人は、むしろ専門家としての能力が不足していると評価するぐらいの意識改革が必要である。

同感です。大切なのは論理の鎖です。

>こうした実務的な改善を積み重ねて行けば、教育プログラムによって読解力を向上させるといった大きな枠組みを構築しなくても、たいていの問題は解決するはずだ。

英米人は、日本語を話しても日本語脳の禍には取りつかれませんね。英語による逃げ道があるからでしょう。我々日本人も、英語による逃げ道を作れば、日本語による禍は避けられることでしょう。


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東と西

2018-06-14 04:44:01 | 文化


>平成が終わる。>アジア全体が発展し世界的に力をつけつつある今、西洋文化の吸収による借り物ではない我々アジアの文化と思想を見直し、意識的に実装していくときが来ている。

アジア全体が、実学 (技術) の世界で力をつけていますね。虚学 (哲学) の世界では、どうですかね。虚学は、わたくしの造語です。いずれにしても、文化・思想の見直しは必要ですね。

>そのためには、日本で言えば明治期の西洋思想の流入とその後の流れをきちんと捉えると共に、東洋思想について理解を深める必要がある。

まったく同感です。
西洋人には、考えがある。すべての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。彼らの対話には、文法と理解が欠かせない。
日本人には、考えがない。片言隻句をとらえて、忖度 (推察) をめぐらす。これは、話者の考えの内容とは関係がない。だから、理解とは無関係である。題材は、相手の声でなくても、水の音でも虫の声でもよい。
日本人は、わが国に流入する西洋思想の内容を忖度で受け止めた。だから、独りよがりは避けられない。弁証法・対話術もなく、問答無用の世界に住んでいる。だから、わが国においては、西洋流の思想の発展もない。

>例えば「古池や蛙飛びこむ水の音」は西洋人からしたらは?という話でしかないが、我々はその部分に美をかいまみる。

忖度 (推察) は、非言語による精神活動であるはずだが、わが国ではあたかも言語活動のように受け取られている。非言語の活動は、音楽・絵画・彫刻などの芸術作品の鑑賞のようなものである。

>このような美意識だけではなく、社会のあり方そのものが西洋とは本来的に異なることを意識してほしい。

そうですね。わが国は、西洋とは、根本的に異なりますね。おかげさまで、わが国の製品は世界中の人たちに広く受け入れられていますね。

>参考までにウィキペディアの東洋哲学のページから日本哲学の部分を引用する。>日本哲学は伝統的には中華系に属する。

日本は、漢字圏に属していますね。西洋には、漢字圏がない。

>日本では大陸渡来の仏教・儒教と、日本古来の神道などの宗教思想が混在してきた。

わが国は仏教国といわれているが、仏教の世界観 (前世・現世・来世) は日本人には通じませんね。日本語脳裏における三世界の内容の展開はありません。日本語文法には時制 (tense) というものがないので、世界観 (world view) がない。おかげで、日本人には輪廻の苦しみもない。

>これは中華世界の周辺(朝鮮、ベトナム)の哲学に共通した特徴である。

中国文化の影響は強かった。

>奈良時代には律令制下で陰陽道が発達を遂げた。>その後、平安時代の天台宗・真言宗、鎌倉時代の浄土宗・日蓮宗・臨済宗・曹洞宗など、仏教の各宗派で独自に教義を追究した。

以心伝心とは、禅家で言語や文字では表されぬ法を師から弟子の心に伝えること。心から心に伝えること。非言語の精神活動に重きを置いていますね。

>室町時代には、仏教思想を日本独自に発展させた茶の湯や能楽など、個別の芸能を究める動きが起こった。

仏教を忖度して、芸術 (非言語) を起こしたのですね。

>江戸時代になると、国学や儒学など、体系的な哲学思想が発達した。

日本人は理解の代わりに忖度を使うので、体系的な思想は得られないでしょうね。

>明治時代に、西周によって「哲学」という語が作られ、西洋哲学を輸入したり、近代以前の日本哲学と融合させて独自の思想を構築する哲学者が誕生していった。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。これは、西洋式の考え方ですね。
わが国においては、片言隻句をとらえて、忖度 (推察) を働かせている。言語を言語としてとらえていない。だから、忖度の題材というものは、鐘の音、蛙の声でもよい。このように、西洋文化 (理解) と日本文化 (忖度) は、水と油のような関係にある。
忖度は、聞き手の勝手な解釈である。相手・カエルの内容は、考えには関係がない。だから、日本人の発言は歌詠みのようなものになり、独りよがりは避けられない。議論できない。弁証法・対話術は通用しない。

>ここにあるように日本哲学も大陸渡来の思想をベースにしながら発展している。>そして東洋思想は荘子、世阿弥など遊学や芸能の世界に色濃い。

わが国は、漢字文化圏の中にありますね。大陸の人たちも歌詠みはできるのかな。 ‘東は東、西は西’ でしょうね。

>次の時代をつくる。>今まさに我々は自分たちのアイデンティティに自覚的になるべきときに来ているのだ。

日本と西洋では、その根本が違っていますね。国際社会では、相互に相手の文化を尊重することが必要でしょうね。


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