gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

善悪二元論

2020-09-22 23:08:22 | 文化

 

>338707 善悪二元論は実は洗脳工作

>本田真吾 HP ( 壮年 建築家 )  18/08/31 PM10 【印刷用へ】 

>集団に対する肯定的な意見に対する『軍国主義につながる』という短絡的な反論。 >自動車・原発・近代医療による環境破壊、肉体破壊という重要な社会問題を捨象した、根拠のない喫煙者に対する極端な否定。 >これらは、洗脳(⇒染脳の方が正確に事実を表している)による。 >どちらも『集団か個人か』『喫煙か禁煙か』という、幼稚な善悪二元論を振りかざし、他者を否定することから始まっている。 

 

我々には、実り豊かな議論・対話が必要ですね。   

 

>ここには、今や大多数の人間が、そのヒステリックな論調に嫌悪感を覚えていることに気が付かないという、もっと大きな問題が潜む。  

 

大衆の皆様に多大なご迷惑をおかけしていますね。こころここにあらざれば、視れども見えず。   

 

>そこを突破する鍵は「よろこび」とは、大多数の普通の人のためにあり、誰かひとり(≒特定の思想を持った人たち)のものではない、ことに気づくこと(=この普遍的な価値を広めること)である。

 

最大多数の最大幸福ですね。The greatest happiness of the greatest number    

 

>////////////////////////////////////////////////////////////////

>善悪二元論は実は洗脳工作 >リンク >先日オウムの教祖以下が死刑になりました。> 古い話ですが、そのオウムが大きな社会問題となっていた頃、彼らの施設に強制捜査が入った後になっても、なお「我々の信仰は善を行うものであるし、教祖は素晴らしい人」と、まだ主張し続けている信者の方がおいでになりました。>それを見て、洗脳というものの怖さを実感された方も多いかと思います。> 《中略》

>この本の中でエドワード・ハンターは、日本人捕虜や米国人捕虜に対して、中共政府が、> 「勉強会での学習」> 「集団学習会での自己批判」> 「巧妙な賞罰」>によって、捕虜たちに贖罪意識を植え付け、これによって捕虜となった人たちが強烈な罪の意識(罪悪感)を持つようになったと指摘しています。

 

中共政府は聖職者の役割を果たしましたね。   

 

>そしてその罪悪感の裏返しとして、いまある政府ないし国家に対して、ありとあらゆる破壊工作が許される、つまり破壊活動のためなら、何をやっても、どんなに嘘をついても構わないという、きわめて特殊な傾向を持つようになると指摘しています。  

 

償いの為の勧善懲悪ですね。‘目的達成のためには手段を選ばず’ ですね。   

 

>もっとわかりやすく言うならば、そうした洗脳を受けた人たちにとっては、普通に幸せに暮らす人々が敵となります。>また、普通に幸せに暮らそうとする人々を守ろうとするすべての活動家が、敵となります。  

 

そうですね。反社会的な活動家になりますね。   

 

>それはすなわち悪の道なのですが、洗脳を受けた人たちからすると、彼らの行動自体が正義となります。

 

力は正義’ (Might is right.) ですかね。   

 

> 洗脳を行う方法は様々あるし、洗脳によって犯される反社会的行為も多岐に及びますが、その洗脳によって形成された思考は、必ず「善悪二元論」になります。 >つまり、右か左か、正しいか正しくないか、上か下か、敵か味方かといった二者択一思考になるのです。

 

鬼畜米英’ のようなものですね。     

 

>しかし世の中というのは、どっちつかずの真ん中が一番多いのです。

 

そうですね。我々には ‘清濁併せ呑む’ 必要がありますね。  

 

>むしろ極はごくわずかしかいない。

 

そうですね。それは天国か地獄ですね。     

 

>ところが極に至ると、その中で先鋭化してしまうのです。> (正規分布)上の図にあるように、世の中は、両極端の端よりも、真ん中のボリュームゾーンが最も多いのです。  

 

そうですね。

 

>そして洗脳を解く秘訣も、実はここにあります。>洗脳による思考は、常に二者択一ですから、「そうではない。その中間が大事だ」となると、一時は思考停止に陥ったとしても、その中間ゾーンに気付くことによって、洗脳から目が覚めていくのだそうです。 

 

それは、中庸の徳によるものでしょうね。

 

> 善悪二元論は洗脳工作によるものです。 

 

我々の教育は学校で勧善懲悪 (politic justice) を教えていますね。  

 

>日本は、イザナキ、イザナミの神話の時代から、「よろこびあふれる楽しい国」を希求してきた国です。>そしてその「よろこび」とは、常に極の人ではなくて、真ん中のボリュームゾーンの人々にとっての「よろこび」です。   

 

それは、民主主義の原理に沿ったものですかね。   

 

>誰かひとりのためのものではない。> 真ん中に気付くこと。

 

それは、中庸の徳を求めることになるでしょうね。   

 

>そのことが、戦後の日本の洗脳を解く鍵になるかもしれません。 

 

そうですね。我々は戦前も洗脳、戦後も洗脳でしたね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 我々は、考える人 (the thinking man) になる必要がありますね。 無哲学・能天気ではいられません。    

 

 

 

.

 

 

 


日本人の教育 2/2

2020-09-20 14:31:49 | 文化

 

各人に哲学が必要である。Everyone needs a philosophy.

哲学とは考えの事である。政治に関する考えは政治哲学になる。歴史に関する考えは歴史哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

日本人には考えがない。それは思考を停止しているからである。だから、日本人は、無哲学・能天気の人間になっている。  

思考停止している人間に対する教育は必然的に詰め込み教育になっている。知識を詰め込まれた人間は、受け売り専門の人になる以外にない。

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実 (考え) の内容は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

現実は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。Seeing is believing. 楽ちんである。正解はただ一つである。

非現実・考えは頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。だから、日本語を使って英米流の高等教育に成果を上げることは難しい。   

 

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) を励行することにより日本人は、序列人間になっている。序列人間は序列社会 (上下社会・縦社会) を作って生活している。そして、縦割りの弊害をも味わっている。序列の形成には、通常、勝負の成績が用いられる。昔は勝負によって身分制度が定まった。だが、民は身分による制度の固定を好まなかった。明治維新の身分制度の廃止の後は、立身出世の世の中になって民は勢いづきました。近年では偏差値なども都合の良い上下判断の資料とされていますから、受験競争ばかりが激化して人間性が失われている。序列順位ばかりか注目されて、その意義が等閑視されています。しかし、序列人間にはこの混乱は手の施しようもない。

日本人の礼儀作法は、序列作法に基づいている。だから、序列なきところに礼儀なしである。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を良く心得ている必要がある。人を見損なってはならないからである。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。

日本人は奥ゆかしい(深い考えがあるようにみえる)。実は、奥 (考え) がない。だから、浅薄である。日本人には、儀式 (作法) ばかりがあって、教義 (考え) というものがない。だから、子供の時には宮参り。結婚式はキリスト教。葬式は仏式でやる。全ての行為は、気分・雰囲気で決められている。気分・雰囲気が理性をしのいでいるところが、日本人の玉に瑕である。米国人が黒人蔑視の言葉を禁じているように、日本人も上位・下位の者に対する言葉遣いの差を禁じると理屈の通る社会への変革を呼び起こすことができるでしょうね。

 

 

 

.

 

 


日本人の教育 1/2

2020-09-20 13:47:19 | 文化

物事の優劣を論ずるときには比較法を使います。現実 対 現実の内容を比較します。

それ以外に西洋人には、現実 対 非現実の比較法もあります。

現実は千変万化します。ですから、現実 対 現実の比較結果は絶えず変化します。

非現実 (考え) の内容は変化しません。ですから西洋人は非現実の内容を自己主張として絶対化できます。絶対神の住む世界を示すことも可能です。

日本人には現実があって非現実がありません。ですから、日本人には相対があって絶対がない。

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)

ですから、現実 対 現実の比較に専念しなくてはなりません。だから、上と見るか、下と見るかの判断だけになります。ともすれば、封建的な世の中になります。そして、自説に力を入れるためにあらぬことか現実の内容を絶対化します。  

 山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、日本人の現実を絶対化する有様について述べています。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と書いています。自己の結論が次々と変わるので日本人は相手からの信頼が得られません。ですから、わが国には信念の人が見当たりません。

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)   

 

非現実の内容は、時制のある文章により表されます。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表されます。その内容は世界観と言われています。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態でありますが、人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行きます。自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神の持ち主になります。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになります。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。過去から現在へ、そして現在から未来への移動は想定外になっています。ですから、日本人が新しい世界を切り開くことはあり得ないことです。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容を垂れ流します。ですから、個性がなくわが国には有力紙が育ちません。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。日本人が国際社会に貢献する度合いも限られている。  

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。時制を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観を持つことも出来、批判もできます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。留学して英語で日常会話が話せるようにすることが必要ですね。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

 

 

.

 

 


橋本宏氏 

2020-09-19 13:47:33 | 文化

 

>277629 『学ぶ』中身を本気で考える時機に来ている  >橋本宏 ( 20代 会社員 )  13/06/10 PM10 【印刷用へ】 

>>共同体では、まず第一に、自然の摂理に学び、部族の歴史に学び、先人の経験に学ぶことが、根本規範となっている。(256228

> >「民主主義は正しい」と信じ込まされた人々は、『まず学ぶ』という根本規範を踏みにじり、身勝手な要求を掲げて恥じない人間と化す。その先鋒となったのが、金貸しが生み出した共認支配の専門家たち=学者や評論家やジャーナリストである。彼らは現実と直対することから逃げて、もっぱら書物から学んで専門家となった連中である。(256228

 

民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。 (チャーチル)  

 

> 「学び」は私たちの意識や価値観をかたちづけるものであり、「何を学ぶべきか?」その中身によって、社会の役に立てる意識が生まれるのか? >むしろ社会の弊害にしかならないのか? >その分岐点となる重要な選択です。

 

政治に関する考えは政治哲学になる。歴史に関する考えは歴史哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。 科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

 

> 社会の役に立つ活きた「学び」とは、上記の文章にもあるように、歴史的な外圧状況⇒適応過程の進化の積み重ねと、そこから生まれた先人たちの原理や知恵(経験)です。

>①かつての外圧はどのようなものであったのか?(歴史的事実) 

 

天然痘  

 

>②その外圧を突破するための、原動力(活力源)は何であったのか? 

 

天然痘ワクチンの開発  

 

>③その外圧を突破するための、成功体験(原理)は何であったのか? 

 

WHOの天然痘根絶宣言・1980   

 

> 今、目の前にいる先人であれ、今は亡き先人であれ、私たちが学ぶべき対象は上記のような「現実に起こった壁(課題)」をどのように突破してきたのか?という歴史体験とその構造です。

 

イギリスの医師、エドワード・ジェンナーが開発した種痘による。

 

>また、「学びの深さ」と、次代を予測する仮説思考の豊かさはおそらく比例していると思います。 

 

ポリオ、麻疹も同様にして撲滅可能です。

 

>つまり明確な方針を立案するためには、目の前に起こっている現象だけでなく、近代←人類←生物史に遡って歴史をさらに学んでいくことが、経営者あるいは社会人には求められている能力だと考えられます。  

 

過去にはペストが流行りましたね。  

 

> 一方で、学校教育を始めとする日本の教育システムは、以下のように、現実とはかけ離れた事象を寄せ集めたものであり、社会を閉塞に追いやった元凶ともなっています。  

 

現実直視が必要ですね。   

 

> 平等などの現実にはあり得ない近代観念に基づく「国語や道徳」、実際の環境とは切り離された画一環境による実験から生まれた「科学」、支配階級や金融資本家などの支配の構造を隠している「社会」など、都合の良い観念から作られた知識は社会の弊害にしかなりません。

 

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)      

 

また、受験のための知識の詰め込み教育は、表層的に知識を身につけることであり、社会で必要とされる、ものごとの背景や原理に想いを寄せる能力の弊害にもなっています。 

 

詰め込み教育の本質は処世術 (現実) ですね。世界の学問 (非現実) の振興とは関係ありませんね。  

 

これだけ社会がガタガタになってきている時代の中で、何を学ぶべきか?  私たちは、本気で考えねばならない時機にきていると思います。

 

そうですね。我々は世界観を持つことが必要ですね。 非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神の持ち主になる。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになる。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実を垂れ流す。だから、個性がない。個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。社会に貢献する度合いが限られる。 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。時制を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

.

 

 

 


仮説思考 

2020-09-19 09:48:23 | 文化

 

>358220 完璧な正解よりも「仮説思考」ができる人こそ、アタマを使っている  >匿名希望         20/07/06 PM10 【印刷用へ】 

>リンク より引用しています。

> ***

>■「仮説思考」とは何か

>会社や組織に入って仕事を始めたばかりのときは「わからないことだらけ」のことが多いのではないかと思います。 >突然「◯◯の会議を開催して」とか「××の報告書を書いて」と言われた場合、自分がその分野に経験や知識がないことだらけのところからのスタートになるはずです。>そのような場面ではどのように対応すれば良いでしょうか? >もちろん「まずは情報収集から」ということで、周りの人にどうすればいいか聞きまくったり、ネットで検索したりといったことを始めるのも一つの手です。 

 

いよいよ実力発揮ですね。  

 

>ところがここにも「正解病」のわなが潜んでいます。 > 学生時代の学問の世界とビジネスの世界での決定的な違いの一つが、スピードと正確性に対しての感度です。>学問の世界では「正解がある」場合が多く、時間をどんなにかけてでも正しさを追求する、つまり「100点を取りに行く」場面も多かったと思います。

 

そうですね。正解のある問題は、採点が楽ですからね。出題者は助かりますね。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。 矛盾を含んでない文章は、全て正しい考えを表している。矛盾を含んでいる考えも、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。 矛盾を発見し取り除くためには議論・対話が有効である。議論・対話を普及させよう。 考えの内容は、人によりまちまちである。だから、正解は一つではない。幾らでもあるから、人間は個性的になる。考えのない人達は没個性的である。自己実現が難しい。  

 

>ところが「正解がない」ビジネスの場面では、しょせんどれほどのデータを集めようが最終的に「絶対に正しい」という確信が持てる場面のほうが少ないため、たとえ「65点」でもスピードを重視しその時点での最善の結論を出して先に進むことを求められることの方が多いと言えます。 >このように、「その時点における時間と情報で求めうる最善の結論」を仮説といい、常に仮説を持った状態で仕事に取り組む考え方を仮説思考といいます。 > 特に学生時代に試験で優秀な成績を取ることができた優等生だった人ほど陥りやすいわなが「正解病」であり、「完璧主義」です。  

 

そうですね。<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)   

 

>常に十分な情報を集めて完全に自信が持てる状態になってからアウトプットするという考え方で、ある程度やり方や結論が確立された世界においては高い品質につながるという点で長所になるのですが、完成度は低くてもまずはスピーディーに結論を出すことが求められるビジネスの現場ではむしろマイナスに働くために、注意が必要です。 > 完璧主義と正解病は表裏一体で、正解が存在すると信じている人ほど陥りやすいのです。

 

そうですね。

 

(略)

>そもそも正解なんかないと考える人はたとえ10点でも20点でもその場であるもの(つまり仮説)を早い段階で上司に見せながらすり合わせをしつつ作業を進めるので、少なくとも納期寸前に大きな認識のズレが発生することは決してありません。 > 要はスピード>正確性でなるべく早く仮説を持って作業を確認しながら進めることが、正確性>スピードで最後まで答えが出ないという進め方よりも効率的に作業を進められ、ビジネスにおいては圧倒的に有利な場面が多いということです。

 

そうですね。

 

(略)

*** 

 

 

.