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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

奈緒美先生 1/2

2020-09-26 11:50:44 | 文化

 

>360488 大人が目先の問題とらわれずに、子どもの未来に何が大切なのか  >井垣義稀 ( 26 会社員 )  20/09/25 PM00 

>とある母が「ある先生の記事」を読んで感じた“子どもの未来に何が大切なのか”について。

>□□□□□リンク□□□□□

> ☆君のお母さんが「虹色教室の奈緒美先生の記事共感しました」と言われていて、私もとても共感したので一部を掲載させてもらいます。

>---------------------------------------------

>成長過程に難しさを持つ子、

>できるできないにばらつきを持ちつつ育っていく子が、>どこもかしこも四面楚歌のように、> 行きついた果てで行き止まりにぶつかっているように見える時も、>それは現状の最適でないことすべての先端までいききったうえで、>それらすべてを解決するより大きな成長を成し遂げることがあるな、>ということなんです。

 

そうですね。得手に帆を上げるのですね。  

 

> 環境に適応しやすい子たちが、大人の求めるものを早くから発達させる傍ら、> 環境への適応が難しい子たちは、経験であれ、感情であれ、> 探索活動であれ、試行錯誤であれ、> 想像であれ、失敗であれ、とにかくしつこく行きつくところまで行って >境界線上でちょっとした嵐を巻き起こしているんですから、>いったんそれらが収束するなり統合するなりすると、> 思いがけない価値が生み出される、>とも感じているんです。 

 

それは、個性の開花ですね。

 

>---------------------------------------------

>「現状の最適でないことすべての先端までいききったうえで、>それらすべてを解決するより大きな成長を成し遂げることがある…」  > 教育者も親も、子どもが先端までいこうとすると「もっと悪くなるのではないか?」という不安から、その前に何とかしてあげることが教育や躾だと思って、子どもは先端までいけず成長できないことってあるなぁと思います。  

 

それは、老婆心によるものですね。  

 

> 周囲の大人も不安はあるけど、そこをグッと耐えながら、子どもの成長を見守ったり、周囲に協力や理解を求めて、子どもが先端まで経験できる場を作ってあげることって本当に大切だなぁと実感しています。 

 

何事も経験が大切ですね。   

 

> 子どものケンカ一つとってみても、ケンカをする前に大人が止めてしまったり、> 少しでも子どもが適応できなければ、早期発見・診断という名のもとに枠に入れてしまったり >危ない経験は全て排除したり等々、多少のリスクや危険が子どもの生命力や能力高めることにつながるのですが、その経験を全てとり上げてしまっては「生きる力」はどこで育つのだろうか?と疑問を感じてしまいます。 

 

そうですね。 苦い経験は、人生の為の良薬になりますね。     

 

>もちろん、自分が大ケガをしたり、他人にケガをさせることは絶対に避けなければいけません。 >そのためにも少しのリスクを経験することの大切さを伝えたいのですが・・・その加減が難しいですね。  

 

大怪我を避けるために子供には大人の監視が必要になりますね。   

 

> 幼少期に経験不足の子が、小学生になって突然自由にしていいよと言われても、五感や第六感を体験していないと、大ケガをするリスクは増えてしまいます。 

 

そうですね。自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。そして、恣意がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。’自由のはき違え’ となる。だから、昔からの ’不自由を常と思えば不足なし’ のままでいる。 

 

> 心の問題も同じで、無理をさせたら傷つくのではないか?と心配し過ぎるよりも、「思いきり嫌だと泣き叫んでもいいよ」と大人が覚悟できるかが大事なのではないかと思います。 >どんなに泣いてもあなたの周囲は変わらないよ、大丈夫だよという大人の気構えが子どもを安心させます。

 

そうですね。我々には現実直視が大切ですね。忖度 (推察) を働かせてはなりませんね。

 

>子どもの不安に大人も一緒になって「なに?なに?どうした?」と不安になっていたら、子どもはどこに着地していいのかわからなくなりますから。 > 大人がリスクを負いたくないから、子どもにもリスクを負わせないようにする。 >常識的な考え方かもしれませんが、大人にとってはメリットがあるかもしれませんが、子どもにとっては後々大きなリスクになるのではないかと危惧しています。  

 

そうですね。我々には、’自主独立’  (independent) の気風が必要ですね。   

 

 

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言語・非言語 3/3

2020-09-25 17:27:02 | 文化

 

>なぜならば、答えが決まっていない事を教える力が今の学校先生にはないからである。 >答えが一つだけ決まっている事だから、試験もできるし、指導もできる。 

 

そうですね。現実は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。楽ちんである。正解はただ一つである。   

 

>答えが沢山ある。>極端な話、学校の先生は、二つある事は教えられない。>教えられないから受け付けないのである。>しかし、世の中は、答えが一つしかないような事柄の方が希なのである。

 

そうですね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含んでない文章は、全て正しい考えを表している。矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。矛盾を発見し取り除くためには議論・対話が有効である。議論・対話をわが国でも普及させよう。

考えの内容は、人によりまちまちである。だから、正解は一つではない。内容は幾らでもあるから、人間は個性的になる。考えのない人達は没個性的である。自己実現が難しい。

 

>迷い迷って自分なりの答えを出し、その答えに従って責任を持って生きていく。>教えなければならないのは、予め用意された答えではなく、生き方なのである。

 

そうですね。日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には他力本願・神頼み。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

 

>————————————

>答えがいくつもある、なにが正解なのか定まっていない。>そんな現実の中で決断し、行動すること、自らの決断には責任を持ち、誤りがあれば正し、さらに前進していく。まさに生き方そのもの。

 

そうですね。日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

 

>しかし最も大切な成長期に、強制的に「指示待ち人間」になるよう訓練されているのが現実です。 

 

そうですね。日本人には意思がない。だから、指示待ち人間になるしかないでしょう。   

 

>それは小学校から徹底的に仕込まれます。 >教育は人の生き方、社会の在り方に影響する根底的な課題です。  

 

そうですね。日本語の文法の中に我々の生活の問題がありますね。それが社会の在り方に影響を与えていますね。  

 

>今こそ自ら問題を発掘し、答えを出し、実現していくことが求められています。

 

そうですね。国の総力を挙げてわが国の教育の問題を発掘し、その答え見つけて実現する必要がありますね。  

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。時制を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観を持つことも出来、それに基づいた批判も可能になります。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。留学して英語で日常会話が話せるようにすることも必要ですね。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。   

 

>投稿者 hoiku : 2020年09月18日 TweetList

 

 

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言語・非言語 2/3

2020-09-25 16:55:50 | 文化

 

>答えも日付によって左右される。 >その事に誰も疑問を持たない。 >要するに答えなんて正しいとするから正しいに過ぎない。  

 

矛盾を含んでいない文章は全て正しい考えを示しています。考えの内容は人によりけりですね。      

 

>それが、日本の学校教育の正体である。

 

無哲学・能天気の人間を育成することがわが国の教育の正体ですね。

 

>答えが正しいかどうか、検討したり、討論したり、吟味するなどという事はとんでもない事なのである。  

 

それでは理性の教育になりませんね。    

 

>しかし、現実の社会はどうか。 >あらかじめ答えが設定されている事などあまりないし、答えが出てもそれが正しいかどうか検証しなければならない事だらけである。 >しかも答えは、答えを出した人が責任を持たなければならない。

 

そうですね。社会には責任者が必要ですね。  

 

>正しいと思って決断した事でも結果が悪ければ糾弾される。 >東日本大震災の際、正しいと思って子供達を自宅に送った保育園の園長がいる。 >園児の多くは、自宅に辿り着く前に津波に流された。 >園長、決断をした時最善の策だと考えたに違いない。 >しかし、結果は最悪の事態を招いた。   

 

To err is human, to forgive divine. 過ちは人の常、許すは神の業。   

 

>いくら自分は正しいと思っていたのだと言っても許されない。   

 

自分の考えは間違っていたのですね。それを許すのは神様ですね。      

 

>だから沈黙を守るしかない。  

 

神様に許しを請うと良いですね。   

 

>そんな事は日常茶飯事だ。

 

そうですね。心の痛む人生ですね。    

非現実 (考え) は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。 

 

>何が正しくて何が間違っているか、現実の世界では定まっていない。>定まっていないけれど決断はしなければならない。>なぜならば、不決断は最大の誤判断とされるからである。>大切なのは決断である。>決断力である。

 

決断にも意思決定 (理性判断) と恣意決定 (盲目の判断) がありますからね。前者は言語で文章内容になり、後者は非言語で文章内容にはなりません。アニマル同様の決断です。   

 

>だから私言うのである。>考えてから決めるのではなく。>決めてから考えろと・・・。 

 

初めに大きな視野に立った考えが必要ですね。それを決めてから行動するのが良いでしょう。      

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)     

 

>子供、よく考えてから決めなさいと言う親が増えている。 >というよりもよく考えてから考えろと洗脳された親が増えている。 >自分が子供の頃は、物事を決断する時に余り深く考えないようにされた。  

 

子供の決断は拍子ものでしたね。   

 

>考えたら、と言うより迷ったら決められないとされていたからである。   

 

そうですね。深く考える習慣がなかったのですね。恣意 (私意・我儘・身勝手) による生活ですね。      

 

>決断というのは収斂である。

 

決断には意思決定 (理性判断) と恣意決定 (盲目の判断) があるのではないでしょうか。前者は言語で正しく、後者は非言語で無謀です。     

 

>野球でボールを打つか打たないかは論理的に決める事ではない。>一瞬の判断を求められるスポーツや自動車の運転、機械の操作等では、いちいち論理的に判断していたらいざという時に、間に合わなくなる。

 

そうですね。アニマルと同様に非言語の世界での活動ですね。筋肉の反射は練習により鍛えることが可能ですね。言語の助けを必要としませんね。      

 

>何でもかんでも考えて決めろというのは、決断力を鈍らせる為の陰謀のような事である。  

 

そうですね。犬や猫も素早く行動できますね。それは非言語の世界での活動ですからね。      

 

>決断力は、経験的に養う事である事を忘れてはならない。 

 

そうですね。決断力は非言語の世界でも十分発揮されますね。武芸などの習い事と同じ要領ですね。     

 

>問題意識は、問題を解く事によって養われる事ではない。>疑問や好奇心を持って設問する事によって養われる。

 

そうですね。問題の着想は文章内容になりますね。   

 

>その好奇心や疑問を学校の先生は、一番嫌う。 

 

それでは、暗記の勉強になりませんからね。馬車馬街道から横道にそれることになりますね。学校の先生の始末に終えない事態に発展しかねません。   

 

 

 

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言語・非言語 1/3

2020-09-25 16:28:07 | 文化

 

>2020年09月18

>言われたことしかできない「指示待ち人間」が増えている。

>今の学校教育を見ていると当然だと思います。 >与えられた問題を教えたとおりに解くことを強いられ、問題そのもののに疑問を持つことは許されない。 >こんな教育を小・中・高と12年間も続けていれば、立派な「指示待ち人間」が出来上がります。> にほんブログ村 子育てブログへ

>以下(http://www.fujitsubame.jp/educationgg.html)より引用します。

>———————————————

>言われて事しかやらないから、言った事しかやらない。

 

他人から言われた事しかやらないから、他人の言ったことしかやらない人になる。   

 

>そして、言ったこともやらない、言われたこともできない。

 

他人が言ったこともやらない人は、他人から言われた事もできない人間になっている。

 

>そして、必然的に言う人がいなくなったら、何をしたらいいか解らない。>何もできないと言う状態に落ち込む。 

 

自ら発想のできない人でね。  

 

>学校を卒業したら、先生がいなくなる。>行くところもなくなる。>どうしていいか解らない人間が続出する。>自由にして良いと言われても、主体性がないから自分がない。 >自分がない人間に自由にしろという事の方が土台無理なのである。

 

そうですね。自由とは意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。そして、恣意がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ となる。だから、昔からの ’不自由を常と思えば不足なし’ のままでいる。 

 

>自分がないから、自分では何も決められない。>決められないから意味もなく他人に追従する。皆がやるからやる。

 

付和雷同する人間が増えますね。   

 

>こういう人間が増えてくる事は確実である。>ここにも戦後教育の成果が現れている。 

 

戦前にも自分では何も決められない人間はいたのではないでしょうか。

 

>一体戦後教育は何を目的とし、何を理想として行われてきたのか。>自分で物事を考え決める習慣を付ける教育をしていない。 

 

考えることは難しいことですからね。  

 

>逆に、自分では何も考えずに、他人の言うとおりにするように躾けられている。>それが今の学校教育である。 

 

自分には考えの内容がない。自分は思考停止の状態にあるからである。     

 

>これはある種の洗脳教育だ。  

 

思考停止の状態にある人には洗脳教育が可能ですね。   

 

>しかも、この洗脳教育をしているのは、国家ではない。 >反体制勢力が、日本を支配する為にしている。 

 

体制派も反体制派も、共に日本語の為に思考停止の状態になっているのでしょう。  

 

>その結果、何も決められない人間が育っていく。 

 

日本人には、自分自身の考えがない。思考を停止しているからである。それで、他人から内容を注入されて受け売り専門の人になる。

だから、’あれではいけない・これではだめだ’ という。どうすればよいかは自分自身にもわからない。無責任発言というしかない。  

 

>日本人は、決まる前は黙っている癖に、決まってからなんだかんだと文句を言う。 

 

日本人には自分自身の構想 (考え) は無いが、自分自身の不平はある。駄々っ子のようなものである。ぐずって仕方がない。幼児症である。          

 

> 我々は、仕事をする上で「無駄口をきくな。」「話の話にするな。」「ガス抜きにするな」と厳しく躾けられてきた。>だから結論が出たら、「誰とやる。」「いつやる。」「いつまでにやる。」「何処でやる。」「それまでに何をやる。」「終わったらどうする。」と言う発想に切り替える。 

 

計画が決まれば、次は実行ですね。  

 

>しかし、今は、逆の発想が要求される。>一番多感な中学生や高校生時代に、単に与えられた問題を決められたとおりに解くだけの教育がされている。 

 

馬車馬のように突進する教育ですね。   

 

>問題意識を持ったり、答えに疑問を持つ事は許されない。 

 

考える人’ (the thinking man) になることは許されないのですね。   

 

>ただ与えられた問題を決められたように解き、予め設定された正解を出せば正しいという事になる。 >これは一種の条件反射である。 >パブロフの犬である。

 

そうですね。教育が条件反射を作る為の条件付け作業になっていたのですね。  

 

>予め設定された答えが正しいかどうかなど関係ない。 >その事に疑問が出す事はゆるされない。 

 

西洋人の哲学 (非現実) は、日本人の雑念 (現実) のようなものになるのでしょうね。   

 

>実際、惑星に対する定義は、途中で改められたが正式に改められるまでは、古い惑星の正義が正しく。改正された後は、新しい定義が正しいのである。  

 

矛盾が訂正されれば、さらに正しい答えが得られますね。矛盾の訂正により、人類の知識は限りなく進歩を続けますね。     

 

 

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音喜多駿氏 

2020-09-23 17:26:13 | 文化

 

> またも公選法のバグ?略称が同じ政党が認められ、2つの「民主党」が爆誕している件 Tweet

>こんばんは、音喜多駿(参議院議員 / 東京都選出)です。>4連休の最終日、こんなニュースが流れており目を疑いました。 >立憲、国民の政党略称 いずれも「民主党」 >https://mainichi.jp/articles/20200922/ddm/005/010/078000c 

 

本当に目を疑いますね。我が国民が政治音痴であることの証拠ですね。議員個人の政治哲学に従って政党化されていないためでしょうね。  

 

>新たに結党された(らしい)立憲民主党・国民民主党の双方が、次期衆議院選挙における政党名の略称をともに「民主党」として総務省に届け出たとのこと。  

 

それでも同じ政党にはなれないのですね。   

 

>これNGかと思いきや公選法上は併存可能とのことで、知らなかったので(そんなことをやる政党があるとは思わなかったので)私は衝撃を受けました。 >いや、そんなのありえます? 

 

私にも衝撃ですね。両党共に民主党の名前に執念があるのですね。大切なのは政治哲学の内容で、看板はそれを区別する単なる手段に過ぎないのではないでしょうか。  

 

>法律上は可能だからって、公党がやりますか??  

 

議員たちの何かが根本的に狂っているのでしょうね。我が国民の政治音痴の症状ですね。   

 

>この場合、衆議院選挙の比例代表(2枚目の投票用紙)に「民主党」と有権者が書いた場合、その票は2党によって「案分」されるそうです。 >案分とは、疑問票以外の元の得票数に応じて配分される方式のため、単純に二分の一で分けられるわけではありません。>例えば >立憲民主党:100万票 > 国民民主党:50万票 > 民主党:3万票 >という結果だったとすると、立憲:国民の2:1の得票割合に民主党票が分けられます。(立憲→2万票、国民→1万票を獲得) >なので、例えば選挙制度のハックが得意なN国党のような政党が略称を「民主党」にしたとしても、濡れ手で粟と言わんばかりに大量得票ができるわけではありません。  

 

そうですね。   

 

>しかし、(絶対にやらないでしょうけど)仮に自由民主党が略称を「民主党」と届け出たらどうでしょうか。 >比例代表で最大得票を見込まれるのは自由民主党ですから、「民主党」と書かれた票の多くを獲得できることになり、やはりこの「併存可能」とされる現行法には問題があると言わざるを得ません。 

 

それは、低能の空騒ぎですね。   

 

>

>いずれはこの不備も立法府として取り上げていかなければなりませんが、公選法を作った当時、まさかわざわざ同じ略称で届け出する政党が出るなんてことは想定しなかったのでしょう。  

 

そうですね。自他の区別がはっきりしていないのでしょうね。その区別の方が本当の不備でありますね。  

 

>だって理念や政策が違うから別の政党として異なる名前を名乗っているのであり、普通に考えればプライドと有権者への信頼にかけて混同なんてされたくないからです。

 

そうですね。プライドと信頼が初めから無いのでしょうね。自己主張がないのであるから、政治家らしくもない。      

 

>しかし今回、2つの民主党はあえてそれをやってきた。 >別れたのに未練がましく関係をつなぎ、有権者を困惑させるような行為を平然と実行する。

 

当事者たちには、確たる政治哲学 (非現実・考え) があるわけでもなく、処世術 (現実) に身を任せて右往左往しているのでしょうね。  

 

>首班指名でも一緒に立憲代表の名前を書いていますし、もう共産党も含めて早く一緒になればの一言です。

 

そうですね。政治哲学の無い処世政党議員の離合集散ばかりではうんざりしますね。  

 

>所属議員や支持者も、本当にこんなことを許して良いのか?と思います。

 

所属議員も支持者も無哲学・能天気なのでしょうね。各人に哲学は必要ですね。Everyone needs a philosophy.      

 

>ますますこのようなビジネス野党では政権交代などできるはずがないと思いますし、「他よりマシ」と自民党への支持が集まる理由も理解できます。

 

同感です。ビジネス野党の利敵行為というのでしょうかね。   

 

>国会にもう一つの選択肢を作れるように我々が頑張らなければいけないと改めて誓い、政策提言と党勢拡大に邁進をしてまいります。 

 

そうですね。殊勝な心がけですね。頑張ってください。   

 

>それでは、また明日。

>音喜多駿/おときたしゅん

>参議院議員(東京都選挙区) 36

>1983年東京都北区生まれ。

>海城中・高校→早稲田大学政治経済学部を卒業後、モエヘネシー・ルイヴィトングループで7年間のビジネス経験を経て、都議会議員に(二期)。

>地域政党「あたらしい党」代表。

>ネットを中心に積極的な情報発信を行い、政治や都政に関するテレビ出演、著書も多数。

>35歳、二児の父。

>日本維新の会から公認を受けた参院選にて初当選、参議院議員に。

>ネットを中心に積極的な情報発信を行い、日本初のブロガー議員として活動中。

> 著書に「ギャル男でもわかる政治の話(ディスカヴァー・トゥエンティワン)」、「東京都の闇を暴く(新潮社)」 

 

 

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