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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

尾崎文美氏 4/6  

2021-03-26 16:56:36 | 文化

 

>この受け入れがたい状況が闊歩するのは日本にセキュラリズムがいかに深く染み込んだかをよく表している。 

 

我々日本人は現実肯定主義者ですからね。現実にあるものは何でも吞み込んでしまいますね。事実は真実ですかね。批判精神は持ち合わせていませんからね。         

 

>理不尽きわまる政治と社会に異論を唱え立ち上がる人々は必ず19世紀の思想家の名を掲げて、あるいはフランス革命や自由民権運動、日本国憲法の精神を引き合いに出し「本当の民主主義を」、「本当の自由を」求めて熱く語る。

 

そうですね。我々日本人は後追い専門の民族ですからね。思考停止と暗記力の為に受け売り専門の人となります。イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)        

 

>しかしそのようなものは決して存在しないことに気づかない。>民主主義も自由も所詮はキリスト教社会の発明品であり、世界をその権力下に置くために異常なまでに美化された道具に過ぎないことに目を向けない。

 

自由とは意思の自由の事ですね。日本人には意思がない。だから、自由そのものにも意味がない。 ああ空しい。      

 

>民主主義とは、自由とは何かという不毛な議論に時を奪われ上に掲げた五つの悲劇を繰り返す。 

 

無哲学・能天気の日本人には議論は意味を成しません。自己のない人間には自己主張などありません。     

 

>そして来世への旅支度は手付かずのまま現世での時を終える。

 

そうですね。日本人は死後も来世にゆくことはありませんね。そのための世界観が用意されていないからでしょう。死後も草葉の陰からじっとこちらの方を眺めているそうですよ。        

 

>アラブの春、グローバル化、フクシマ、少子化、そのほか題名をつけられない社会悲劇のどれもがセキュラリズムなくしては起こりえない欺瞞と非道である。 

 

全ての出来事は未来社会建設の方向を向いていませんね。千変万化する流行りもののようなものですね。       

 

>現世での時をこのように使い果たすのが悲しく虚しいと思わない、あるいは思いながらも仕方なしと受け入れて本当の自由とやらを求め続けてしまうのがセキュラリズムである。

 

仕方がないは日本人の口癖ですね。   

 

>本論は科学と理論を否定するものではない。

 

理屈は子供にも通じる内容ですね。全ての考えは文章になる。矛盾を含まない文章は全て正しい考えを示しています。考えは人によりまちまちです。だから正解は多数ある。     

 

>科学と理論を神への冒涜として迫害した中世に戻ろうという考えは毛頭ない。>ただ現世に近視眼的になってはならない、そう申し上げるものである。 

 

そうですね。我々は遠い未来の行き着く先を論ずる必要がありますね。   

 

>科学にせよ理論にせよ、これらは現世で隣人に非道を働かないための智慧と捉えるべきである。>そこに根拠を持つ民主主義などの政治手法はただの選択肢であり崇高なものではない。

 

そうですね。 チャーチルの名言 民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。   

 

>そして科学者、識者は物事の摂理を図式と論文で表現することを生業としているだけであり、彼らに万物の創造主であるかの如き権威を決して与えてはならない。  

 

そうですね。 ソクラテスの名言  '私は、私が何も知らないということを知っている' 'I know that I know nothing'.  人は常に謙虚であるべきですね。

 

>セキュラリズムの罪悪はまず科学と理論を神の替わりに神聖視させたこと、そこで生まれた権威を頂点とする支配構造を創り民衆をそこに縛りつけたこと、民衆に「自由」という得体の知れないよろこびを与え現世での時と来世への畏れを奪ったことにある。 

 

考えは人によりまちまちですからね。正解は絶えず他人により書き換えられて科学は限りなく進歩します。   

 

 

 

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尾崎文美氏 3/6  

2021-03-26 02:43:22 | 文化

 

>そこで自らが信じてきた合理主義や物質主義をさらに援護し実践する羽目になり、同時に自らを癒してくれる何かに縋りつく。>しかし来世とは別居したため現世しか意識できず、現世の幸福を実現してくれそうな何かを見出してそれに頼らざるを得なくなる。 

 

現実肯定主義者の悲劇ですね。各人に哲学が必要ですね。   

政治に関する考えは政治哲学になる。 歴史に関する考えは歴史哲学になる。 宗教に関する考えは宗教哲学になる。 科学に関する考えは科学哲学になる。 人生に関する考えは人生哲学になる。 などなど。        

 

>金品、娯楽、快楽、人間関係、表現、主張、いろいろあるが結局それらが行き着くのが「自由」の言葉である。  

 

個人に自由は大切ですね。     

 

>しかし現代、人の思考と行動を羽交い絞めにするものこそこの「自由」である。>「不自由」がなければ「自由」などは存在しない。  

 

自由は不自由から解き放される時の解放感ということですか。   

 

>そして不自由は権威や権力を背景にした制度によって人が好きなだけ作り出せるものである。

 

自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。しかし、恣意 (私意・我儘・身勝手) ならある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。 それは自由のはき違え’となるからである。だから、日本人は昔からの不自由を常と思えば不足なし’のままでいる。 

 

>つまり民衆が自由を意識するにはそれに先立って不自由の製造がなされなければならない。>ならば権力者は不自由の匙加減をする。

 

それは法度政治の世の中ですね。    

 

>時に不自由で束縛し、また時に自由を押し付けて懐柔し、慣れた頃にそれを剥奪して恫喝し、そういった支配は古代も中世も今も変わらない。  

 

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏 (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) <日本語文庫新版への序文>の中で下記の段落のように述べています。

、、、、、日本の政治を語るうえで欠かせない表現の一つである「仕方がない」という言葉を放逐することに、本書がいささかなりとも役立てばと願っている。本書は、本当の意味での政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力について詳述している。この力こそは、個々人の、市民になろうとする決意と、有効に機能する民主主義を守ろうという意志を弱めるものである。日本に作用するこの力は、独裁政権があってそこからくり出されてくるのではない。それは日本の社会環境のあらゆる場所から発現する。、、、、、この力こそが、多くの日本人が身をおく境遇に対して唯一、適当な対応は「仕方がない」とうけいれることだと思わせるのである。(引用終わり)     

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく    

 

>民衆がいくら自由を連呼したところでその敵である権威が存在する間は不自由は消えうせず、況や権威に益々の権威を与え不自由を肥大させることとなる。 

 

権威が存在しようがしまいが、政治音痴の日本人には政治的な不自由さは感じられないでしょうね。それは自然現象と同じで、不自由を常と思えば不足なし。      

 

>自由の追求が可能な領域の限界線とされている「法」と「倫理」はいずれもキリスト教社会のセキュラリストたちによって確定された。>この線は越えられないが、この線は彼らの都合で描き換えることが出来る。  

 

調節可能な線ですね。意思ある人間のすることですね。     

 

>第五に、セキュラリズムの出発点はキリスト教会の暴力からの開放でありそこから「近代的自由」が生まれた。

>しかしこれは最終的に世界の権威と権力が集中する場所つまりキリスト教社会にのみ寄与する思想であり、世界の人々は自由を求めることで知らぬ間にここに貢献させられる。

 

思想のない人間にはキリスト教社会に太刀打ちできませんね。   

 

>日本はキリスト教国ではない。  

 

日本は日本教徒の国ですね。儀式 (作法) があって教義 (教え) のない国ですね。無哲学・能天気の教徒には、教えの無さは気になる事ではありませんね。         

 

>しかし憲法と軍と経済と教育を国内外のセキュラリストによって設計された国である。>よって我が国の富と生気がキリスト教社会に吸い上げられているのは至極当然の避けられぬ事態である。

 

人間に罪の意識がある限りその魂を救済するためのキリスト教はなくなりませんね。   

 

 

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尾崎文美氏 2/6  

2021-03-26 02:24:21 | 文化

 

(1/6より)

序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを日本人は有している。だから、日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎない。そのため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事は、人々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。    

 

>安全、信用、そういった一見して価値の置き所が心の中にありそうなものも例外ではない。 >たとえば建設現場や工場で取られている安全対策は人の命の尊さや後に残される家族を思ってのことではない。 >信用を失うことでこうむる損益や支払うべき賠償と安全管理への投資の比較(=損得勘定)である。  

 

そうですね。所詮は処世術 (現実) ですね。哲学 (非現実・考え) ではない。無哲学・能天気の人は処世術に頼らざるを得ませんね。     

 

>補償制度が整った先進国ほど作業場の安全への投資が余儀なくされ、それは信用の指標として商品の単価に跳ね返る。>逆に途上国では労働者に泣き寝入りを強いることで安価な製品を製造できる。>だから先進国は途上国で製造したものを輸入する。>が、資源の輸入にしろ、現地生産にしろ、「投資」の一言が先進国による途上国からの搾取に正当性を与えている。  

 

途上国は、投資を呼び込むことに熱心ですね。自国民の就職先が増えますからね。その分経済的に向上します。無職ではいられない。         

 

>途上国の産業がどのような環境下にあるかを見て見ぬ振りをせざるを得なくなる。>おなじ搾取を国内の移民に、被差別集団に、後ろ盾のない弱者たちに強いるようになる。

 

人間の平等が失われる残念な現象ですね。たゆまぬ是正の努力が必要ですね。

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>が、いつのまにか自らも搾取される側に置かれることになる。  

 

そうですね。わが国の企業は金を儲けても一人当たりのGDPは世界で33位 (2019) に落ちましたね。最高は5位 (1995) でした。        

 

>第三に、理論と数量により生まれた信用や価値というものに一人歩きを許し、それを「権威」や「知名度」に成長させてしまう。 >人はこれに出くわすことで事象の吟味を怠る。 >思考停止状態のまま社会との関係を続ける。 >多くの人々の皮膚感覚がここで麻痺を起こす。 >こうなれば内容は置き去りで権威と知名度だけを追いかけさえすれれば価値にも信用にも接することができる。 

 

そうですね。人々は身分格式を知って、それで安心する。権威主義の世の中ですね。     

 

>その指針としての貨幣が活躍し、科学者、知識人、企業、報道、教育という権威の売り手と、買い手である民衆の双方がひたすら市場を膨らませ続ける。>しかしそれは貨幣を注ぎ込み、高く売り、高く買わされ、負債を抱え、日々の糧のためとは別の無意味な労働に日の殆どを費やし、頭を悩ませ、気づけば精も魂も尽き果てることを意味する。  

 

そうですね。我々には行き着く先の内容を考える必要がありますね。      

 

>教会による民衆支配が暗黒時代と呼ばれた「中世」の全景ならば、西洋による非西洋への侵略と搾取はモダンつまり「近代」そのものといえる。>そしてその後に来るポストモダンすなわち「現代」もやはり権威による民衆への侵略と搾取である。 

 

権威は民衆に最も分かりやすい判断材料ですからね。民衆が諦めやすい手法ですね。    

 

>中世の、王権とともにあったキリスト教会が民衆の財産と精魂を吸う吸血鬼であったあの時代の相似形がいま世界中で再現されている。 >違うのはキリスト教が理論に、司祭が科学者やマスコミに、そして神が貨幣に取って代わったことである。 >アフリカなどの特定の地域ではいまだに中世と何ら変わらぬ暴力支配が続き、剥き出しの武力を行使できない国ではイデオロギーや経済の支配が繰り広げられている。>そうした歴史を現世に輪廻させるのがセキュラリズムである。  

 

そうですね。新スタイルに衣替えした輪廻転生ですね。   

 

>第四に、搾取を受ける側に落ち、現代生活に精魂尽き果て疲弊しても人々はそれを認めたがらない。>認めることで現世すなわち人生の価値が木っ端微塵に打ち砕かれるからである。  

 

やせ我慢ですね。   

 

 

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尾崎文美氏 1/6  

2021-03-26 01:53:45 | 文化

 

>セキュラリズム 刹那の現世主義 後編  [筆者 尾崎文美 おざきあやみ]  >2014/03/15 03:17 よりわけ: 世界 かぎ: 近代思想天啓教育

>「セキュラリズム―現世主義」というものについて、今回はその後編である。[secularism: 教育宗教分離論

>端的にいえばこの世の事象の価値判断から「信仰」に由来する精神を排除し、信仰は信仰で別の場所に安置するが互いに決して干渉しないという主義主張である。 

 

現世主義は、政 () () 教を分離することになりますね。政府指導による宗教戦争はこれにより避けられるでしょうね。      

 

>これは世界の殆どの国で政策として執られていること、その上でいちばん影響を持つのが「教育」の分野であること、そしてセキュラリズムは世代が進むに連れ教育によって濃縮されてゆくことを前編で述べた。>忘れてはならないのは、セキュラリズムは決して「無神論」でないことである。>神は存在するとした上で「神との別居」そして「神の陳腐化」をその目的とする。   

 

そうですね。 信仰の自由がありますね。   

 

>厄介なことにセキュラリズムは自覚症状のない病によく似ている。 >「あなたは病んでいる」と説いたとしても当人が認めないことには治療の余地がなく、しかも当人は至って元気に生きてゆける。 >しかしそれは社会全体を確実に蝕み壊死へと導く。  

 

不道徳の社会の出現になりますね。    

 

>ではその過程を書いてみるとする。 >セキュラリズムが浸透した社会とそこに生きる人々はどうなるか。 >第一に、理論で整理された判断にのみ理解を示す。  

 

そうですね。

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)     

 

>数式や統計に表すことができ、さらにそこから予測可能な事象つまり「目に見えるもの」はその存在と価値を認めることができるが、そうでないものには口先で敬意を表することはあっても認めはせず、精神論、感情論などと名づけて価値判断の対象から外す。

 

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分固有の非現実の内容は語られることはない。これが、日本人の思考停止の原因である。

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人とアニマルが共有する非言語の世界である。

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。これは人間だけが持つ言語の世界である。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。優秀な人は「純粋によく観察する」が、凡人は「期待したもの」しか見ようとしない。きわめて恣意 (私意・我儘・身勝手) 的な態度である。心ここにあらざれば視れども見えずと言われている。        

 

>第二に、凡そ数量による裏付けがあるものを価値として認め信用することができる。 >物を価格で評価し、職業を収入でえらび、学歴とは獲得した点数の総量、学校は偏差値と倍率、刑罰は量、保障は額、世相を指数化し、企業を実績で格付けし、多くの著作が流通していれば知識人と認め、多数の受賞があれば権威と呼び、多額の寄付があれば篤志家となる。 >得票が多ければ与党になる。 

>つまり、価値を比較検討するためには数量で具体化することが必要となった。>言い方を変えれば数値に遮られ内容を見なくなった。

 

そうですね。日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断を各人について行うと人間の序列ができる。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるいうのも云うのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。 

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家にまでつながっている。 (2/6に続く

 

 

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Z世代 2/2  

2021-03-21 14:12:01 | 文化

 

(1/2より) 意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。        

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

 

>そのため、今のZ世代の価値観を「世代」などの枠組みで判断しないことが重要になります。>一人ひとりが何を考え、好んでいるものは何かといった点に対してフォーカスしていくべきだと思います。

 

そうですね。個人の考えを尊重する時代に入りましたね。    

 

>「若者」「新卒」「入社1年目」などカテゴリーとして捉えるのではなく、一人ひとりの特徴、考え方、特技などに適した機会を与えていくことが、彼らのポテンシャルを引き出していく上で必要になります。

 

没個性の考え方を廃する。それは良い傾向ですね。ありきたりでないアイディアが生まれますね。      

 

>そのためには1on1ミーティングなどが効果的でしょう。  [one-on-one: 一対一 ]   

 

対話が重要ですね。  見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人とアニマルが共有する非言語の世界である。

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。これは人間だけが持つ言語の世界である。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。優秀な人は「純粋によく観察する」が、凡人は「期待したもの」しか見ようとしない。きわめて態度が恣意 (私意・我儘・身勝手) 的である。心ここにあらざれば視れども見えず。   

 

>またそのミーティングなどを通して、上司やマネジメント層が頼れる存在と認識されることも重要です。>組織内で頼れる存在がいるとZ世代の従業員も長く会社に定着するのではないでしょうか。  

 

そうですね。信頼関係が大切ですね。    

 

>とはいえ、他の会社が給料を高く設定していたりすると、その企業にいってしまう可能性ももちろんあります。 >そこでマネージャーは、コントロールできる事実と、そうでない事実に分ける必要があります。 >コントロールできない事実は例えば、他社の給料。こればかりはマネジメント層がどれだけ頑張っても変えることはできません。 

 

そうですね。   

 

>一方で、コントロールできる事実としては、Z世代が何を考えているのかを把握し、それに見合った環境を整備することです。>職場内の自由、裁量などがそれに該当するでしょう。>Z世代の人に「これだけの目標を達成できたら、これだけの仕事を任せる」といった共通認識を持ち、その都度彼らの職場の環境を変えていくことが重要でしょう。>まずは「ポテンシャルをどのように引き出すことができるのか」を第一優先に考え、それにあったルールや規則を導入するべきです。

 

社内でのZ世代の自己実現を促進させるのですね。    

 

>私の会社でも、従業員の意見を聞いて、出社時間などを変更したりしました。>従業員に「会社の規則が変えられる」ということを理解してもらうこと。>それによってやめない従業員がいるかもしれません。>会社側も従業員に対して多くのことを要求しているため、お互いがWin-Winな関係を保ち、従業員が「縛られている」という感覚が生まれない組織づくりが今後求められるのではないでしょうか。

 

そうですね。それができたら、めでたし・めでたしですね。  

 

 

 

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