>この受け入れがたい状況が闊歩するのは日本にセキュラリズムがいかに深く染み込んだかをよく表している。
我々日本人は現実肯定主義者ですからね。現実にあるものは何でも吞み込んでしまいますね。事実は真実ですかね。批判精神は持ち合わせていませんからね。
>理不尽きわまる政治と社会に異論を唱え立ち上がる人々は必ず19世紀の思想家の名を掲げて、あるいはフランス革命や自由民権運動、日本国憲法の精神を引き合いに出し「本当の民主主義を」、「本当の自由を」求めて熱く語る。
そうですね。我々日本人は後追い専門の民族ですからね。思考停止と暗記力の為に受け売り専門の人となります。イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
>しかしそのようなものは決して存在しないことに気づかない。>民主主義も自由も所詮はキリスト教社会の発明品であり、世界をその権力下に置くために異常なまでに美化された道具に過ぎないことに目を向けない。
自由とは意思の自由の事ですね。日本人には意思がない。だから、自由そのものにも意味がない。 ああ空しい。
>民主主義とは、自由とは何かという不毛な議論に時を奪われ上に掲げた五つの悲劇を繰り返す。
無哲学・能天気の日本人には議論は意味を成しません。自己のない人間には自己主張などありません。
>そして来世への旅支度は手付かずのまま現世での時を終える。
そうですね。日本人は死後も来世にゆくことはありませんね。そのための世界観が用意されていないからでしょう。死後も草葉の陰からじっとこちらの方を眺めているそうですよ。
>アラブの春、グローバル化、フクシマ、少子化、そのほか題名をつけられない社会悲劇のどれもがセキュラリズムなくしては起こりえない欺瞞と非道である。
全ての出来事は未来社会建設の方向を向いていませんね。千変万化する流行りもののようなものですね。
>現世での時をこのように使い果たすのが悲しく虚しいと思わない、あるいは思いながらも仕方なしと受け入れて本当の自由とやらを求め続けてしまうのがセキュラリズムである。
‘仕方がない’ は日本人の口癖ですね。
>本論は科学と理論を否定するものではない。
理屈は子供にも通じる内容ですね。全ての考えは文章になる。矛盾を含まない文章は全て正しい考えを示しています。考えは人によりまちまちです。だから正解は多数ある。
>科学と理論を神への冒涜として迫害した中世に戻ろうという考えは毛頭ない。>ただ現世に近視眼的になってはならない、そう申し上げるものである。
そうですね。我々は遠い未来の行き着く先を論ずる必要がありますね。
>科学にせよ理論にせよ、これらは現世で隣人に非道を働かないための智慧と捉えるべきである。>そこに根拠を持つ民主主義などの政治手法はただの選択肢であり崇高なものではない。
そうですね。 チャーチルの名言 ‘民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが’。
>そして科学者、識者は物事の摂理を図式と論文で表現することを生業としているだけであり、彼らに万物の創造主であるかの如き権威を決して与えてはならない。
そうですね。 ソクラテスの名言 '私は、私が何も知らないということを知っている'。 'I know that I know nothing'. 人は常に謙虚であるべきですね。
>セキュラリズムの罪悪はまず科学と理論を神の替わりに神聖視させたこと、そこで生まれた権威を頂点とする支配構造を創り民衆をそこに縛りつけたこと、民衆に「自由」という得体の知れないよろこびを与え現世での時と来世への畏れを奪ったことにある。
考えは人によりまちまちですからね。正解は絶えず他人により書き換えられて科学は限りなく進歩します。
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