聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答122~123 マタイ18章21~35節「誤解の『赦し』」

2019-07-14 15:27:01 | はじめての教理問答

2019/7/14 マタイ18章21~35節「誤解の『赦し』」はじめての教理問答122~123

 

 今日も、イエスが私たちに教えてくださった「主の祈り」のお話しをします。

問122 第五の願いごとはなんですか? 

答 第五の願いごとは「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」です。

問123 「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」とはどういう意味ですか? 

答 キリストのゆえに私たちの罪を許し、また私たちがほかのひとを許せるようにしてくださいという祈りです。

 私たちの罪の赦し、ということをイエスは祈るように教えてくださいました。今日はその赦しについてイエスが教えてくださった、大事なお話、マタイの福音書の18章をお話しします。それは、王様と、家来たちのこんなお話しでした。

 王様が家来たちに、貸していたお金のことをちゃんと調べておく時が来ました。王様から借りていたお金をどう使っているか、確かめておくのです。そこで、王様の所に家来たちがひとりずつ集められることになりました。
 ところが、最初に連れて来られた家来は、一万タラントの借金がありました。一万タラントとはどれぐらいでしょう? 一タラントは20年働いたぐらいのお金だそうです。そうすると、一万タラントは…20万年働かなければ返せないような大変なお金でした。こんな大金、どうやって返すのでしょうか。
 家来に聞くと、彼は「お返しするお金は持っていません」と言うのです。そこで王様は、自分も家族も皆、身売りしてそのお金で返すようにと言いました。すると慌てた家来は、ひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』とお願いしたのです。とてももう少し待っても返せるようなお金ではないのに、必死にいう家来を、王様は見つめていました。
 そして、王様は家来を可哀想に思って、その負債を免除することにしました。そう、あの一万タラント、20万年分の借金を、王様は全部帳消しにすることにしたのです。周りもビックリしました。一番ビックリしたのは、この家来だったでしょう。驚いて、それから喜んで、王様に「ありがとうございます」と何度もお辞儀をして、出て行きました。ところが、です。

28その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った…。

 一デナリは、一日働いただけの賃金です。だとすると、100デナリはどれぐらいですか?? そう、100日分の賃金です。それぐらいを貸して上げていた別の仲間に出会ったのです。それだって、決して少しではないでしょう。この人はその仲間を捕まえて、首を絞めて

「借金を返せ」

と言ったのです。乱暴ですね。すると彼の仲間は、

29ひれ伏して『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。

30しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。

 さっき同じようなことをして、自分が赦してもらったのに、この人は仲間を赦さずに、牢屋に放り込んでしまいました。自分が赦されたのは、一万タラントです。100デナリと一万タラントは何倍ぐらい違いますか。二〇〇〇倍ですね。そんなに免除されたのに、彼は仲間を赦さずに、可哀想に思う事もなく、牢屋に入れてしまったのです。これを他の仲間たちが見ていました。彼らはとても悲しんで、王様に知らせました。

31彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。

32そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。

 王は、家来が「返しますからもう少し待って下さい」と必死にお願いする姿に、心を動かされて、負債をすべて肩代わりしてくださいました。それなのに、彼は、仲間が懇願する言葉にも耳を貸さなかった。その事を王は、怒るのです。

33私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』

34こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。

 王は家来の借金を免除しただけではなく、家来の生き方に変わって欲しかったのです。それなのに、自分だけ赦されて良かった、人の借金は赦してやらない、では王は怒ります。だから、彼は牢屋に入れられて、働かされることになってしまったのです。このお話しをした後、イエスはこう仰って、私たちに赦す事を教えました。

35あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

 「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」と祈るのも同じです。私たちは神に赦されている。だから私たちも人を罰したり虐めたりせず、赦す。憎しみや恨みや懲らしめてやりたい思いを捨てて赦すのです。

 でも誤解しないでください。赦しは、すべて帳消しにするだけではなく、新しい関係を造ることでしたし、それを踏みにじる家来は懲らしめられたのです。問題に目を瞑ったり、大目に見たりすることではありません。このマタイ18章の直前、15節では、誰かが罪を犯した時には、その人の所に言って指摘しなさい、それがダメなら、何人かで一緒に行きなさい、と厳しく向き合うことが言われています。決して、赦しは「許可」ではありません。赦しは、憐れみが生み出せるもので、相手の心にも本当の関係を回復させていくものなのです。

 ここに「赦しとは何で無いか」が七つあげられているリストがあります。

  1. 赦しとは我慢ではありません。
  2. 怒らないことでもありません(怒って良いのです。)
  3. 結果をする無視することでもありません。(やったことに伴う結果の責任も引き受けさせます)。
  4. 信頼関係が元通りになったということでもありません。
  5. 諦めることでもありません。
  6. 忘れてあげるという上辺の約束でもありません。
  7. それは一度赦せばいいということではありません。生涯掛けて、赦し続けること、怒りや痛みがありつつも、それでも相手との関係の修復を望む、生き方なのです。

 主の祈りで「私たちの負い目をお赦しください」と祈るごとに、私たちは赦してくださる父の愛に立ち戻ります。また、赦しがなければ、今ここにいることは出来ない程、沢山の問題や神様に対する罪もある事実に、素直にならされます。それでも、赦されている以上、私たちも他の人を赦さないではおられません。生きていれば、人とのすれ違いや衝突は絶えません。だからこそ、怒りや悲しみを素直に現しながら、問題を越えて、すべての人との関係が、憎しみや恨みから自由にされ、回復されるよう祈りましょう。

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はじめての教理問答120~121 ヨハネ10章7~11節「豊かな命を下さる神」

2019-07-07 17:23:46 | はじめての教理問答

2019/7/7 ヨハネ10章7~11節「豊かな命を下さる神」はじめての教理問答120~121

 

 主イエスが私たちに教えてくださった「主の祈り」を今日も味わいましょう。ここまで

「御名が…御国が…御心が…」

と神様のことを祈ってきました。祈りとは、自分の願いを祈るよりも、まず神様を神様として、第一にすることです。私たちの願いを神様に願うよりも、まず、祈っている相手の神様との関係を大事にすること…でした。

 今日から、その先の第四、第五、第六の祈りを見ていきます。この後半は

「私たちの」

祈りになります。私たちのために祈る。さて、イエスは私たちに、自分のために何を祈るように教えてくださっているでしょうか。私たちが自分のために一番に祈るに相応しいことって、どんなことだと皆さんは思うでしょうか。

問120 第四の願いごとはなんですか?

答 第四の願いごとは「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」です。

問121  「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」とはどういう意味ですか?

答 私たちに必要なものを、神さまが全て備えてくださいという祈りです。

 「糧」は英語では「パン」という言葉です。聖書の書かれたイスラエルの国では毎日の食事はパンでした。日毎のパン、とは、パンだけではなく私たちの食事全部、また、生きるのに必要なすべてのもののこと。それが「パン」というひと言にギュッと凝縮されているのです。だから、ボクはパンよりもご飯が好きなのになぁと思う人も安心してください。私たちが生きるのに必要な全ての事です。

 こんな図があります。ニーズの三角形です。私たちに必要なのは、パンやご飯、食事だけではありません。空気や健康も必要です。それから、太陽も天気も、安心して住める家も必要です。また、人は一人では生きられません。家族や友だち、仲間が必要です。そして、話しをして、心が通い合うことが必要です。また、あなたがあなたで良い、自分を認めてもらうことも必要です。そして、自分のしていることが役に立ったり、評価されたり、トロフィーをもらうようなことが必要だ。ただ、食べ物や健康だけで無く、こんな色々なニーズが満たされていないと、人間は生きていけないと言います。主の祈りで「日毎の糧を」と祈るのが、「私たちに必要なものを」という事であるなら、こうしたすべてのものを指しているのでしょう。

 宗教改革者マルチン・ルターは言います。

毎日のパンとはなんですか?
答 からだの栄養と維持のために必要なすべてのもの、すなわち、食べ物、飲み物、衣服、履物、家、屋敷、畑、家畜、お金、財貨、ちゃんとした家族、ちゃんとした真実の支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、規律、名誉、よい友人、忠実な隣人などだよ。

 私たちが生きるのに必要なものは、本当に沢山あると気がつきます。

 私たちが願うもの。こうしたものを思いつくことはあまりないでしょう。主の祈りでイエスは、私たちが生きていること自体が、神様に養われているのだよ、神がこうしたものを下さらなければ、私たちは生きていくことが出来ないのだよ、と教えてくださっています。神がいるなら、あれもしてほしい、これもしてほしい。祈っても聞いてくれなかったら、神はケチだ。そんなことを私たちはつい考えます。でも、まず私たちが生きていること、今ここにいることが、当たり前ではないのです。神が私たちに命を下さって、食べ物も、家族も、教会も健康も下さっているから、私たちは今ここで生きています。人間は、神に養われていること。それを私たちがまず覚えて、命を下さっている神に感謝すること。そのことを主の祈りは思い出させてくれます。

ヨハネ十10わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

11わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。

 イエスはご自分のことを「良い牧者」、よい羊飼いだと言いました。ですから、教会には羊の絵がよく使われます。イエスと私たちの関係は、羊飼いと羊のようだからです。羊飼いが羊たちにいのちを与えるように、イエスは私たちに命を下さいます。羊飼いは、羊たちがお腹を空かせて死なないように、緑の草地に連れて行きます。喉が渇いて死なないように、水のある所にも連れて行きます。また、オオカミが来たら、杖で追い払います。羊が迷子になったら、捜しに行きます。羊は、羊飼いに生かしてもらっています。

 羊はとても弱い動物です。臆病で、ストレスに弱い。そして、一匹ではなく、群れで行動します。目も近くしか見えないので、すぐ前のヒツジについていくのです。羊飼いのお世話を必要としています。羊飼いがいなければ、羊たちは生きていけないのです。

 イエスはご自分を羊飼いだと仰いました。それも、よい羊飼いだと言われました。良い羊飼いは、羊を生かすだけではありません。羊たちに豊かに命を得させる。そして、羊のために命を捨てるのです。イエスは私たちに、毎日のパンを求めさせるだけではなく、すべての必要が与えられるように、祈りなさいと仰ったのでしょう。いのちを豊かに持たせるため、ご自分の命も捨てるようなイエスです。時々、自分が欲しいものや無くて困っている物のことも、神様に祈るのは遠慮する人がいます。「自分のお願いなんてつまらないことだから、そんなことを祈るなんてとんでもない」と言うのです。イエスが教えるのは、そういう思いとは正反対の神。私たちに毎日の食事も、命も健康も下さっている神です。食べるだけで無く、食べた物がカラダの栄養になるのも、それがウンチになって出て行くのも、神様によらなければ出来ません。そうして、私たちを生かす神様は、私たちが豊かな命を持つように、私たちの願いや夢、困っていること、諦めていること、願いもしないようなことまで考えて、与えてくださるお方です。

 最後に、実はこの「日毎の糧」には「私たちの日毎の糧」という言葉がついています。他の人のではなく、私たちの、です。世界には沢山の人がいます。中には食べ物がなくてお腹を空かせている人もいます。その一方で、食べる物が十分にあって、好き嫌いを言えて、捨てている人もいます。全世界では、食品の三分の一が食品ロスとして廃棄されているそうです。これは私たちが「私たちの日毎の糧」ではなく、他の人の糧を奪って、捨てていることでしょう。私たちが求めるのは自分に必要なものだけです。必要以上のものを求める生き方をせず、与えられているもので十分に満足しましょう。豊かな命は贅沢によっては手に入りません。むしろ、私たちが主の言葉に従って、分け合う時、互いのために祈り、互いの命を生かし合う時、私たちは本当に豊かな命を戴くのです。

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はじめての教理問答118~119 エペソ書1章9-10節「サービスの神」

2019-06-30 20:32:36 | はじめての教理問答

2019/6/30 エペソ書1章9-10節「サービスの神」はじめての教理問答118~119

 

 主の祈りを一つずつ味わっています。先週は二つ目の「御国が来ますように」でした。今週は三つ目の

「御心が天で行われるように、地でも行われますように」

です。「御心」とは「神様のお考え」という意味です。あなたの心、お考えが行われますように。それも天でのように、地でも行われますように、です。つまり、神様が天でなさっているように、この地、私たちが住んでいる世界でもなさってください、ということですね。

 皆さんは、どんなことをしていると思いますか。天ってどんなところだと思っているでしょうか。なんとなく、こんなイメージがあるかもしれません。

 雲の上で、羽根の映えた天使たちが音楽を奏でて、そこにいる人たちも皆きよらかでお上品で。でも聖書にはそういうイメージは出て来ません。ですから、主の祈りも、今のこの世界が天国みたいにすばらしく、いやなことが何もない生活になりますように、というようなことではないのです。「この世界が楽園のようになって、嫌なことがなくなり、嫌いな人や面倒くさいことが一切なくなりますように」という意味だと思ったら、勘違いのようです。「はじめての教理問答」では何と言っているでしょうか。

問118 第三の願いごとはなんですか? 答 第三の願いごとは「みこころが天で行われるように地でも行われますように」です。

問119 「みこころが天で行われるように地でも行われますように」とはどういう意味ですか? 答 天で神さまが仕えられているように、わたしたちも地において神さまに仕えるようにしてくださいという祈りです。

 「天で神様が仕えられている」。それが「天」だというのです。そして、今、この地では、人が神に仕えていない。私たちが考えるのも、自分が幸せで、自分にとって嫌なことがないことばかりで、神様のことを忘れている。神様に造られて、神様に生かされているのに、その神様をすっかり忘れています。ですから、「主の祈り」で神様の御心が行われますように、と祈る事は、何よりもまず、神様が神様とされること。私たちが心から神様に仕え、神様を賛美し、神様を神として生きるようになることを祈るのです。

 しかし、神様の御心は、神様ご自身がまず仕えること、です。神様は私たちに仕えてほしい、神に仕えないなんてなんて失礼だ、と怒っているのではありません。まず、神ご自身が、仕えるお方なのです。この世界を造られた時から、神様は喜んで世界に仕えておられます。イエス様は、マタイの福音書10章29節から30節で仰いました。

…二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。

 雀だけでなく、私たちの髪の毛一筋も、野の花や木の葉っぱ、そして太陽も星も、すべては神様が一瞬も休まずにお世話をしてくださっているから存在しているのです。神様はすべてのものに仕えてくださっています。この世界を造られた時に、神様はそのすべてのお世話をも喜んでするつもりで造ったのです。神様は仕えるお方です。イエス様は、マルコの福音書10章45節で、こうも仰いました。

…人の子(イエス)も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

 イエスは仕えられるためではなく、仕えるために来たのです。人の心が汚れてしまい、喧嘩をしたり、騙したり、虐めたりしている人の生き方を聖く洗って、癒やすために、イエスは来られました。そして、弟子たちの足を洗い、病人を癒やし、孤独な人に語りかけ、最後は十字架の死にまで自分を与えてくださいました。

 決して、「聖い人、わたしを礼拝する人、クリスチャンしか天国には入れてやらない」と天にいるお方ではありませんでした。むしろ、その天からこの地の罪の底に飛び込んで来て、人に語りかけ、ご自分が傷つくことをも厭わずに、命を与えてくださったのです。それが、神様の御心でした。仕えることが神様の御心だったのです。キリストは、天からこの地の最も低い所に来られて、人に仕えて、この地を神に結びつけてくださった。それこそが、神の御心の奥義だと、今日はじめに読んだエペソ書に言われていた「御心の奥義」です。

エペソ書一9-10みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、10時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。

 この言葉が言うように、神様は天と地とを切り離しては考えません。私たちが祈るのは、この地に御心が行われることです。

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 今、地上では、神の御心よりも、自分の願いをぶつけあっていることが沢山あります。だから、もうこの世界なんて嫌だ、早く天国に行きたい、と考える人も沢山います。この地上から天国に行きたいとか、天国にしか幸せは無いと考える人は大勢います。でも、イエスは、私たちを天国に招いたのではありません。天からこの地に来られて、天と地を結び合わせてくださった。とても低い生き方をして、仕えてくださいました。今この地で、天の国、神の国の生き方を始めさせてくださったのです。

 そして、「あなたがたも互いに仕えなさい。御心がこの地で天でのように行われるようにと祈りなさい」と教えてくださったのです。それは、私たちの力では出来ません。イエスも「あなたがたが頑張って、地上を天国のようにしなさい」と仰ったのではありません。それは私たちの力ではなく、神の力です。そうしてくださいと私たちは祈るのです。でも、そう祈るようにと仰ったイエスは、その祈りに応えてくださらないでしょうか。神様に祈り、神様の御心が行われますように、と願う私たちに応えて、私たちに神様の御心を行ってくださるでしょう。

 この世界は、神様が、神様の御心を行うためにお造りになった世界です。この世界で、天でのように御心が行われることは、神様のご計画です。神は私たちに仕え、食べ物をくださり、美しい自然や、楽しい思い出や、慰めを下さっています。人の心の闇や悪い行いにも光を当てて、悔い改める心や、癒やしや回復を下さっています。イエスの恵みを十分に戴きましょう。人や自分が諦めそうになっても、神様は必ず、この地で御心を始めていると信じて祈りましょう。私たちの今週の歩みでも、天の神が御心を行ってくださいますように。

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はじめての教理問答116~117 ヨハネの黙示録20章20-21節「マラナ・タ」

2019-06-25 14:27:12 | はじめての教理問答

2019/6/23 ヨハネの黙示録20章20-21節「マラナ・タ」はじめての教理問答116~117

 神様は、私たちに聖書を与えてくれました。聖書は、長い年数をかけて、たくさんの人が書いてきた神様の言葉をまとめた本です。イエス・キリストも聖書の言葉を使いました。ですから、教会では聖書を基準に物事を考えます。皆さんにも、毎日、聖書を読むことをお勧めしています。それと同時に、教会が大事にして来た、三つの文書があります。「十戒」「主の祈り」「使徒信条」です。その一つが「主の祈り」です。イエス・キリストが教えて下さった、六つの願いからなる、お祈りのお手本です。これもぜひ、皆さんの毎日に取り入れてください。そして、主の祈りをただ繰り返すだけでなく、そこから自分の願いや周りの必要のためにも祈ってください。先週から、主の祈りを一つずつ見ています。今日は第二の願いですが、まさにこの願いは、私たちが自分のためにも、人のためにも、この世界全体のためにも祈るように教えてくれる祈りです。■

問116 第二の願いごとはなんですか?

答 第二の願いごとは「御国が来ますように」です。

 「御国が来ますように」の「御国」とは、神様の国のことです。また「国」とは王国(キングダム)という言葉です。神が王として治めてくださる国です。神様、あなたの国が来ますように、と祈るのです。私たちは今、日本に住んでいます。世界には沢山の国があります。国によって言葉も考えも、いろんな事が違います。けれども、その全ての国の人が、自分の国よりも大きな「神の国が来ますように」と祈るのです。

 今から二千年前、イエス・キリストが来られた場所は、ユダヤという国です。今のイスラエルという国のある辺りが聖書の舞台です。そしてイエス・キリストがおいでになった時、ユダヤの国は当時ローマ帝国という大きな国によって支配されていました。ローマの国は強くて、豊かでした。しかしユダヤの人たちは、ローマ人ではないので、馬鹿にされたり税金を沢山払ったり、悔しい思いを沢山していました。ですから、ユダヤの人たちは、神様がローマを滅ぼして、自分たちの国をまた建て直してくださるよう、願っていました。一方、ローマ帝国は、皇帝が治めていて、反逆する人たちは容赦なく殺されていたのです。強い国が弱い国を治めたり、戦ったりしている。それは、昔も今も世界中で見られている状態です。そういう中で、イエス様は

 「御国が来ますように」

と祈りなさいと教えました。それは、ユダヤ人にとっては、復讐や反逆を投げ出す在り方です。そして、ローマ帝国にとっては、反逆と見られるような祈りでした。自分たちの国ではなく、神が王となる国が来ると祈るなんて、とんでもない、と思わせたのです。そういう大胆な祈りをイエスは教えたのです。今、私たちがこの日本で

 「御国が来ますように」

と祈るのも、実はとても大胆な祈りです。私たちは、本気で、神が王となってくださる事を待ち望んでいるのです。

 ただし、それは決して、革命とかテロのような方法によってはなされません。武力や政治や力によって、神の国を来たらせることは出来ません。

問117 「御国が来ますように」とはどういう意味ですか?

答 もっともっと多くのひとが神さまの福音を聞き、信じ、従うようにしてくださいという祈りです。

 多くの人が神様の福音を聴き、信じ、従うようになる。それが、神の国が来ますように、ということです。神様がおいでになって、みんなが慌てふためいて、嫌がる人は反逆者として虐められる。そんな出来事は人間の歴史ではよくありますが、神の国はそんな国ではありません。神が王であるとは、人が神に出会って、神を心から信じて、心から従って生きるようになる。そうなることなのです。

 イエス・キリストが今から二千年前に活動をしたのは、30歳の頃の3年間だけでした。イエスは

 「悔い改めなさい。神の国は近づいた」

という言葉から宣教を始めました。イエス・キリストは神の子、神の国の王です。イエス・キリストが来たのは、この世界に、神の国が来たことの始まりだったのです。そして、イエスは、人々の神の国がどんな国なのかを教えて下さいました。譬え話や、奇蹟や、病気の癒やしで、また一緒に過ごしたり、一緒に食事をしたりすることで、神の国がどんな国なのかを教えてくださったのです。ユダヤ人でもローマ人でも、日本人もインドネシア人も、韓国人もアメリカ人も、今どの国の人でも、誰一人、馬鹿にされたり苦しめられたりしないのが、神の国です。神は、国が争ったり、国が違うからと嫌な思いをしたりすることを終わらせます。神が王として来てくださる。その嬉しい知らせを信じて、私たちは生きていくのです。

 今日は、ヨハネの黙示録24章20節、聖書の一番最後の言葉を読みました。

20これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

21主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。

 主イエスよ、来て下さい。この祈りが聖書の結びにあるのです。この言葉は、教会でとても大切にされていました。そして「主よ来て下さい」という代わりに

 「マラナ・タ」

とも言われていました。イエスが話していたアラム語の「来たまえ(マラン)主よ(アタ)」を、そのまま教会の中で用いたのです。ローマ帝国で、ローマ市民もギリシャ人も他の国の人々も、片隅のユダヤ人の言葉で「マラナ・タ」と声を合わせて、「主よ、来て下さい」と祈っていたのです。どんな国の人も、一緒に「主よ、来て下さい」と願うようになった。そこに、もう、イエスが仰った「神の国が近づいた」という知らせが形になっていたのです。国も言葉も肌の色や文化も越えて、一緒に

 「神様、あなたの国が来ますように」

と祈るようになりました。素晴らしい始まりです。

 今、世界は随分仲良くなりました。世界の人たちと繋がるようになりました。でもまだ国が違うと争うことがあります。同じ国の中でも喧嘩や虐めがあります。その仕返しをしたり、心が憎しみや悲しみで一杯になったりしています。その心にも、イエス・キリストは来て下さいます。私たちを癒やし、また誰かを憎んだりバカにしたりする心を恥じるようにしてくれるでしょう。そうして、全ての人が、神の国の中でともに祝う時を迎えるのです。その時が来ますように、と祈ります。その時は必ず来ると、信じて祈ります。そして、その時がもう来ているかのように、今ここでも歩みましょう。本当の王である神様以外のものを恐れずに、神の御国の民として一緒に生きていきましょう。

God' Dream by Desmond Tutu

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詩篇一一五篇「第一の願い」はじめての教理問答114~115

2019-06-16 15:38:26 | はじめての教理問答

2019/6/16 詩篇一一五篇「第一の願い」はじめての教理問答114~115

 

 主の祈りを今日から6回で見ていきます。イエスが「このように祈りなさい」と教えた祈りのお手本は、第一の願いを「御名が聖とされますように」と祈るのです。

問114 第一の願いごとはなんですか?

答 最初の願いごとは「御名が聖とされますように」です。

問115 「御名が聖とされますように」とはどういう意味ですか?

答 わたしたちやほかのひとたちが、神さまをあがめ敬うように助けてくださいという祈りです。

 どうでしょうか、皆さんにとっての第一の願いは何ですか。私たちの一番の願いは、どんなことでしょうか。イエスは、私たちの願いには色々あるとしても、まず第一に

「御名が聖とされますように」

と祈るよう教えました。それは、ただそう祈るように、という礼儀の問題ではありません。本当に、それこそが一番大切な願いだし、私たちの、心からの願いを整えることなのです。心にはどんな願いがあっても、祈る時にはまず「御名が聖とされますように」と祈っておきなさい、という意味ではなく、本心からまず

「御名が聖とされますように」

と願うことを教えられたのです。

 私たちの本心は、大抵、神の御名よりも、自分の名前、自分の名誉、自分のことでしょう。それは自然なことでもあります。でも、自分のことで誰もが頭がいっぱいになった世界が、皆が自分のことより、神の御名が聖とされますように、と祈る世界になったら、どうでしょう。平和が身近な世界になります。「主の祈り」は、私たちが、第一の願いを神様のことにする人、世界に新しい変化をもたらす人にする祈りなのです。

詩篇一一五1私たちにではなく 主よ 私たちにではなく
ただあなたの御名に 栄光を帰してください。
あなたの恵みとまことのゆえに。

 それでは、私たちの願いや気持ちはどうでも良いのでしょうか。いいえ、そうではありません。神は私たちを愛して、私たちの必要や心の動き、気持ちをすべてご存知です。私たちを心を持つものとしてお作りになったのも神様です。そして、私たちに、自分の願いよりも、神の御名が聖とされますようにと祈るよう教えられた神ご自身が、神の御名が辱められ、踏みつけられることも構わずに、私たちの救いを願った方です。

「恵みとまこと」

のお方なのです。神は、私たちのために祈り、願うだけでなく、ご自身を捧げてくださいました。三位一体の神は、御子イエスの十字架によって、ご自身を私たちのために捧げてくださったのです。そのような恵みがあるから、私たちは心から、何よりもまず、神ご自身をほめたたえずにはおれないのです。

 「聖とされますように」

とは、実は、そのような意味です。神は、本当に恵みに溢れるお方、一切、利己心や傲慢さがなく、押し付けがましさや見返りを求めることなく、与えて与えて育ててくださるお方です。そういう、利己心のなさこそ、「聖」なのです。

ホセア十一8わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。
わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ。

 夕拝で使う新しい翻訳の

「聖とされますように」

の方が元々の意味に近いのですが、朝の礼拝でも使っている今までの「主の祈り」は

「御名をあがめさせたまえ」

でした。「あがめる」というと、褒められる、すごいなぁと称えられる、というニュアンスです。それだけだと、私たちが神の御名をあがめる、賛美する、自分のことは後回しで神を褒めることを神は願っている、と思うでしょう。でも考えてみてください。私たちの周りでも、力が強かったり、能力に秀でて、一番になったり、金メダルを取る人も素晴らしいと思いますが、それ以上に、その栄誉よりも家族を大事にして、勝負を棄権する人こそが、賞賛されるのではありませんか。大豪邸に住むお金があるのに、そのお金で貧しい人を助けるため自分も貧しい暮らしをする人に、心を打たれるのではありませんか。大事な試合の真っ最中に、勝負を捨ててでも、誰かを助けるため、自分を犠牲にするような話に涙を流すのではありませんか。自分が一番だと偉そうにしている人が、命をかけてほかの人を守ろうとするドラマが沢山あるのは、そういう姿にこそ、本当の名誉、本当の尊さがあると、憧れているからなのかもしれません。

 神は、まさしく、自分への賛美を求める以上に、ご自身を惜しまずに与えて、私たちの最善を図ってくださるお方です。ご自身の恵みを現す舞台として、この世界を創造されたお方です。私たちは、この世界を見る時に、あちこちに神が聖なるお方であることを知ります。でも、それを忘れて、自分の損得や、自分が少しでも上に行くことばかりが盛んに言われていることも現実です。だから、私たちは

「御名が聖とされますように」

と祈るのです。すべてのことを通して、神様の聖なる素晴らしさが崇められますように。あらゆることが、神の素晴らしさを現しますように。神が聖であることを知らない人も、神の恵みに触れて、心から神を賛美するようになりますように。そうして、自分の事ばかり祈ったり、祈りさえ見せるためにしている人がいる世界が、神の恵みを喜んで、自分の見栄など忘れてしまう世界になっていきますように、と祈るのです。

 勿論、私たちには沢山の切実な願いもあります。病気になれば、治るように祈ります。犯罪に巻き込まれれば、解決を祈ります。悩ましい出来事が、無事に決着がつくように祈らずにはおれません。困った時にはその困ったことを祈ります。それでも、私たちはどのように祈れば良いか分からない思いをすることが沢山あります。そういう時にこそ「主の祈り」は私たちを助けてくれます。

「主よ、この事を通して、あなたの御名が聖とされますように。私の願いはありますけれど、それが一番ではありません。私ではなく神はあなたです。私の願いが神様のご計画とは違うとしても、どうか、この病気や悲しみや問題を通しても、神さまの御名が聖とされますように」。

 そう祈ることを教えられます。自分の願いや考えよりも大きな、神のご計画を見上げることが出来ます。だからこそ、自分の栄光よりも、神様が賛美されること、神の御名が誉め称えられることが大事な事、一番大切なことだと思い出させてもらえます。私は、そう祈ることによって、心配や怒りや穏やかでない心を静めてもらって、最後には平安を持つことが出来ます。

 第一の願いが、

「御名が聖とされますように」

という祈りであるのは、本当に素晴らしい恵みです。この祈りにいつも立ち戻りながら、歩ませていただきましょう。

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